マジックアワーに恋をした

ゼロアリーナのこけら落としが終わってから、夢心地のような日々が続いている。
花巻すみれさんの伴奏に始まり、他アーティストの録音音源の収録だったり、Re:vale以外のお仕事がどんどん増えて、ひたすら目の前の事をこなしている。
少し前からしたら全然考えられない。現実味が湧かない事もしばしば。何度頬をつねったかはわからない。
「気持ちわかるよ。うまくいくときって不思議なぐらいトントン事が進んじゃうんだよね」と、モモちゃんがうんうんと相槌を打っていたのは、いつの事だっけ。

頭の中いっぱいに広がるのは五線譜と道標の音符や記号。照らし合わせるように思い描くのは白と黒の鍵盤。答え合わせをするように流れてくるメロディー。
正に音楽一色の脳内。キャパシティオーバー。
それ以外の事が入る余地など、これっぽっちも持ち合わせてなどいなくって。





「さすがにこれはまずいね」
「……どのぐらい?」
「お説教は真逃れないぐらい」

憐みの眼差しをこちらに向ける親友の言葉がひどく染みた。
ひらひらと揺らしている答案用紙にはスポーツブランドのトレードマークみたいな赤線がびっしりと浮かんでいる。

容量の少ない私の脳ミソは、学問のスペースを潰して音楽に傾倒しているらしかった。

「沙也って授業も宿題も真面目にこなしてるのに、テストはイマイチだよね。なんでだろ?」
「私が聞きたいよ……」

元々勉強は苦手だ。だからこそ授業は真面目に聞いて、宿題もちゃんと提出している。それでやっと平均に近しい点数をギリギリ叩き出せるというレベルなのに、ここ最近は収録などで早退や休みが重なってしまい、受講回数が著しく減ってしまった。
結果、先日の期末テストで過去最悪の点数を叩き出してしまったのだった。
……怒ってるお父さんお母さん、岡崎さんの姿を想像するだけで涙が出そうだ。

「でもよかったじゃん。プリント提出すれば挽回できるんでしょ?」
「うん、そうみたい……」

赤点の数だけ手渡されたプリントと睨み合いっこする。
全部で3枚。何度数えても減りも増えもしなかった。
私のため息に重なって、くしゃりとプリントが潰れ鳴いた。

「一号、キグウだな。俺とおんなじ。イェーイ」

字面とは反したゆったりな口調で四葉くんが現れ、まるでババ抜きをしてるみたいにプリントを広げた。四葉くんの方が手札は数枚多いようだ。

「昨日、そーちゃんから教えてもらったんだ。3人いればモンジェネ?ってやつ。いおりん巻き込めばいける気がする」
「それを言うなら文殊の知恵でしょう。それに集まらずとも、私1人いれば確実にプリントは埋まります」

一織が現れたことに驚いて、咄嗟にプリントを後ろに隠した。
私の挙動不審な態度に目を丸くしたけれど、数回瞬きをした後、「もう遅いです。落ちてますよ、28点」と見慣れた呆れ顔を浮かべて言う。
恐る恐る視界をずらせば、手元から抜け落ちた28点の答案用紙が堂々と横たわっていた。
隣で、必死に声を押し殺して肩を震わせる親友を視界から押しやる――……とどのつまり、そっぽを向いたのだ。

「残念ながら本日は撮影があるためお力にはなれません。ちなみに、四葉さんの提出期限は明日まで延長という事で先生に交渉済みです」
「え!何それ!ずるい!」
「やったー。なんか知んねーけどラッキー」

さっきまでキグウだのなんだの言っていたのに、四葉くんは早々に私を見放した。
見る限り赤点は私と四葉くんだけのようだし、気が付けば文香も帰り支度を始めようと席に戻っている。
どうやらたった今、1人居残りが確定したらしい。
上げて下げられた分、ショックは大きかった。

「そういう事だから、一号頑張って」
「四葉くんの裏切り者!一緒に頑張ろうよー!」
「無理。俺だけ仕事行けないと、みんなに迷惑かかるし」

デビューしたての頃からは想像できないようなまっとうな返しに、何も言い返せなかった。

「しごと……がんばって……」
「おう。そっちも頑張れ」

ようやく振り絞って出した激励の言葉に、四葉くんはニカっと白い歯を見せて笑う。
まるで他人事のような返しだった。四葉くんだって明日、同じ思いをするというのに。

「ほら、これやんよ。学力アップのアイテム」

四葉くんから手渡されたのは何の変哲もない、ただのシャープペンシルだった。
シンプルでシックな色合いのそれは、どこか見覚えがあるものだ。

「ちょっと四葉さん。なんで人の筆記用具を持ってるんですか」
「この間いおりんから借りたヤツ。返し忘れてたから」
「なら返して下さい。勝手に又貸ししないで」
「いいじゃん別に。パーフェクト高校生のシャーペン、ご利益ありそう」
「湯島天神の鉛筆じゃないんですけど」

四葉くんは大雑把に荷物をまとめ終えると、「じゃあな」と教室を去っていった。
その背中を見て深いため息を落とした一織と視線が交わる。

「仕方ない。時間がないのであなたに預けます。後でちゃんと返してくださいね。では、また」
「えっ、ちょ、一織!」

こちらの制止も聞かず、四葉くんの後を追う。
行き場のない手は、迷いながら手元のシャープペンへ降りた。
少し黒ずんだグリップが、鈍い色で光っている。

「シャーペンを渡すだけなんて、すぐなのにね」

荷造りを済ませた文香が、2人が通り抜けた扉を見つめて言った。
少し間を置いて、視線がこちらに巡る。
教室からはどんどん人が去り、残る人は数えるほどになっていた。
クラスメイトが私達へ「またね」と声をかける。1人、また1人と教室を去り、私と文香を覆う空白が広くなっていった。

「ねえ、沙也。実は、ずっと聞きたい事があったんだ」

その空白に浮かぶ柔らかな声は、廊下から響く喧騒に押し負けそう。
かろうじて届くギリギリの声量で、彼女は言葉を紡いだ。

「私ね――…………」

最後の1人の別れの挨拶が通り過ぎ、喧騒も遠のいていったというのに、彼女の言葉は私には届かなかった。
あまりにも繊細だったから、その声はかき消されてしまったんだ。
私がつい手を離してしまったシャープペンが、机の上に転がる無機質な音で。










収録した花巻すみれさんの歌は、切ない恋模様を綴るバラード曲。
人気少女漫画の実写映画の主題歌に抜擢されている曲で、歌と内容がピッタリと話題になっていて、オリコンチャートでは常に上位をキープしていた。

特に先日の収録は評判が良かったらしい。
ありがたいことに花巻さんからも「とても素敵な演奏だったから、是非またお願いします!」というお言葉までいただけて、気持ちの良いお仕事となったのだが。

「ポチが弾いた曲、大分人気出たみたいじゃない」

良く思わない人、その1から棘だらけの言葉を受け取った。
ここのところのユキさんはずっとこんな調子で、私を見てはため息をつくこともしばしば。さすがに続きすぎていい気分はしない。
血の気の多い私だ。いつもならすぐに食ってかかるが、今日は返事が出来なかった。
先ほどまで赤点を取ったお説教としてずっと正座を強いられていたため、襲い掛かる足の痺れに悶絶していたからだ。
(テストから日も空いたし、今回はお説教なしと喜んでいたつかの間の出来事だった)

振り絞ってやっと返せた言葉はなんとも間の抜けた「はあ、」という2文字だった。

「ピアノの優しい音色が素敵って口コミ、結構聞いたよ!やったね!沙也!」
「嬉しいです、頑張った甲斐があったかな……なんて。自分で言うのもあれなんですけど、最近は音楽に寝食忘れて没頭してるんで!」

モモちゃんが気を使って前向きなコメントをくれたので、ユキさんの言葉は気にしない事にした。
私だって好きで雰囲気を悪くしたいわけじゃないし、出来れば穏便に過ごしたいと思っている。



「……へえ。だから赤点を取ったってわけ?」

けれど私の発言で、ユキさんの空気が一変した。
地雷を踏んだ。
瞬時にそう理解した。

冷たい声に見合うように表情もどこかしら素っ気なく、肩肘付きながらこちらを見下ろしていた。
モモちゃんはそれに気づいていて、険悪な雰囲気に変わりつつある空気を変えようと機会を伺っているように見えた。視線は私とユキさんを交互に移り、忙しなく動き回っている。

「別に赤点とピアノは関係ないじゃないですか」
「いいや。関係あるさ。一体、君はいつまでそうやって逃げ回るつもりだ?」
「何ですか急に?別に逃げてません!」
「あ、そう。別にどうでもいいけれど、逃げ口の口実にRe:valeの曲は使わせないよ。正直、今の君にはこれっぽっちも弾いてなど欲しくないね」
「それ、どういう意味ですか!?」
「今までは目をつぶってやったけど、もう許さないって言ってるんだよ」
「ちょっと!!ユキ、沙也!!ストップストップ!!1回クールダウンしよ!!」

掴みかかりたくとも足の痺れがそれをさせてくれなくて、私は地面に崩れ落ち悶えた。物語のラスボスのように腕組をして佇むユキさんが鼻で笑う音が聞こえる。
なんとも腹立たしい構図に拳を強く握った。自然と力んだ口元からはギリギリと歯を食いしばる音が漏れ出ている。

「私が一体、何から逃げてるって言いたいんですか?」
「呆れた。本当にわからないのか?僕はモモや他の人たちみたいに優しくしないよ。僕の大切な宝物を、君の情けない捌け口にされたらたまったものじゃないからな」
「私、いいかげんな気持ちでやってなんかいません!」
「そういう話じゃない。君は没頭しているフリをしてるんだ。とんだ大女優だよ。向かい合わなきゃいけない事に蓋をして、音楽を言い訳にしてる。そんな奴が良い演奏をできるなんて僕は思わない。現に、花巻すみれの曲は僕には響いてないよ」

こんなに刺々しいユキさんは久しぶり。
……いや、初めてだ。
どれだけひどい事を言われても、その裏には薄っすらとした期待が見え隠れした。
けれど今映るのは、とても色濃い、失望の色。

「逃げるな。最近君の口から減った名前を思い出すんだよ」

目線を合わせるようにしてかがんだユキさんが、すぐ側にいる。





そんな時、なぜか耳に流れ込んできたのは「またね」の挨拶と、遠くで籠る喧騒に、カラカラと転がる、軽く乾いた音。
脳内には同じように文香がいて、私に何かを伝えようとしてる。

そうか。ユキさんと文香の眼差しがあまりにも似てたから思い出しちゃったんだ。
文香はあの時、何を私に伝えようとしたのだろう。
ユキさんと同じような事だろうか。文香にも同じように、私が何かに蓋をしているように映ったのだろうか。

「減った名前?」
「いるだろう。君の世界に欠かせないはずの人たちが。ここ最近、忙しさを理由に無理やり世界から追い出しているようだけど」
「はあ!?そんな事ないです!ただ、話す機会も減っただけで……!」
「じゃあ言ってごらん。あの子たちをどう思ってるのか。建前じゃない、本音をね」
「私は……」

違う。本当はわかってた。
でも気づかないフリをした。
考えたくなくって、本当は届いてた親友の言葉でさえ、聞こえなかった事にした。

ユキさんの言う通りだ。私は逃げてた。
向かい合うのが怖かったから。認めたくなかったから。
だってこんな事、許される事じゃないもの。



(私ね、沙也が2人に恋をしているように見えるの。和泉くんにも、三月さんにも。沙也は、誰が好きなの?)



私の知らないみっちゃんが怖い。
知らない男の人みたいに強引に、でも優しく扱うみっちゃんが怖い。
私の知らない一織が怖い。
知らない男の人みたいに優しく、女の子みたいに私を扱う一織が怖い。
怖くて、嬉しくて――……大好きで。





「……好きなの……2人の事が、好き……」



あれだけ逃げていたというのに、いざとなったら簡単に涙と一緒に零れ落ちた本音を、ユキさんとモモさんは穏やかな顔で受け止めてくれる。

「よく出来ました。頑張ったね、沙也」

普段は名前で呼んでなどくれないのに、今まで見た事ないぐらい優しい眼差しでユキさんが言うものだから、堰を切ったように涙が溢れ出てくる。

烏滸がましく傲慢で、知られたくなかった醜い思いだったというのに、言葉にした途端、不思議と体は軽くなっていった。