いけない事。ありえない事。誰にも言ってはいけない事。
見つからないように奥の方へ押しやって、いつか消してしまわなければいけないもの。
そう、思ってた。
「決して悪い事なんかじゃない。沙也が抱いた大切な感情だ、まずは大事に育ててあげて。どうするかなんてその後でいいんだから」
たくさんの人と携わり、たくさん思いやってきた、優しい人だから。
丁寧に、けれど慎重に選び紡いでくれた言葉は暖かくて、胸の奥にじんと染みて、押しやったはずのものがあっけなく浮かび上がって、今まで曇りぼけていた目の前も、頭の中も、嘘みたいに鮮明に輝きだして。
ぶわっと煽るような風が吹き抜け、がんじがらめなノイズを攫っていく。
2人で山に行った時と同じ感覚。
この人はまた、なんてことないように私を救い出す。
「ありがとう、モモちゃん。ありがとう、ユキさん」
こんな私をありのままに受け入れてくれて。
何度情けない姿を見せても、見捨てないでいてくれて。
思い返せば私はずっと恵まれていた。
ユキさんに見つけてもらえた。音楽を、等身大の自分を認めてもらえた。
それだけでは飽き足らず、たくさんの人たちに音を届ける機会まで与えてもらえた。
まるで夢みたいな幸運の連続に、それが”当たり前”だと錯覚してしまったんだ。
バカみたい。少し考えればわかるはずなのに。
あれほど自分で言っていたくせに。
私はシンデレラなんかじゃない。
おとぎ話のお姫様みたいな、甘い幸福は簡単にやってこないのだ。
周囲の視線がこちらへ集中する。
この感覚には覚えがある。ピアノのコンクールや発表会で嫌というほど浴びたもの。品定めするようなそれが特にそっくりだ。
日々事務所で世間知らずと揶揄される私にもわかる。
ここは場違いだって。
『あけぼのテレビ開局50周年パーティ』
達筆なフォントで掲げられている横断幕が、輝かしいライトで煌びやかに照らされている。
深いため息が、自然と漏れ出てしまった。
「あなた……橘さん?」
聞き覚えのある甘い音に思わず顔を上げた。
鈴が揺れるみたいに小首をかしげてこちらを覗き込んでいる様が映り、考えるよりも先に声が飛び出した。
「っ、花巻さん、ですか!?」
「久しぶり。人違いだったらどうしようって思ったけど、声をかけてみてよかったわ。元気にしてた?」
「はい!元気です!よかったあ、やっと知ってる人に会えた。ずっと一人で心細かったんです」
「一人?Re;valeさんと一緒じゃないの?」
「えっと、今回は一緒じゃなくて、一人で来てまして……」
「あなた一人で?」
思わず視線を反らし口ごもった。顔を見なくても、声を聞かずともわかる。
“どうして著名人でもない私がこのパーティに参加しているのか。”
沈黙がそう語っている。かくゆう私も、そう思っている。
「ごめんなさい。呼ばれたから行かなくちゃ。またあとでお話しましょ」
気まずい空気を断ち切るように花巻さんは会話を締めくくった。
遠くの方では忙しなく手招きするマネージャーが見える。花巻さんは売れっ子だから、せっかくのパーティでも休む間はないのかもしれない。
心なしか久しぶりに会った彼女の頬は、以前よりもやつれて見えた。
賑やかしいパーティの風景の中に花巻さんが混じって消え、異色な私は端でぽつりと再び浮かび上がった。
自然と肩に力が入る。あたりを見回すが、私が探し求めている人物は見当たらない。
(派手なスーツだったし、すぐに見つかりそうなのに。どこに行っちゃったんだろう)
探し人と別れて優に30分は経過していると思う。
携えたノンアルコールカクテルもあと一口もすればなくなってしまうだろう。
緊張のせいか喉はカラカラで、体は水分を欲しているようだった。
ウエイターに声をかければお水ぐらいはもらえるだろう。それに歩き出せば探し人だけじゃなく、知人にも出会えるかもしれない。でも動き出せば、今受けている以上の視線を浴びる事になる。
でもでも。いや、だって。
グラスの中で揺れるオレンジ色は、情けない私の心を顕著に表している。
ぐずぐずとした自分に嫌気がさした時だった。
「沙也!!」
聞き覚えのある声に、勢いよく顔を上げる。
見知った顔ぶれは息を切らして、こちらに向かってきている。
「モモちゃん!」
反射的に、求めるように、私は駆け出していた。
無意識に体が喜びを表すほどだ。思っていた以上に緊張状態にあったらしい。
「大丈夫!?なんもされてない!?無事!?異常なし!?」
いつもより早口で言う。頭の上からつま先までくまなく見回したかと思うと、ワルツのダンスのようにくるりと1回転、その場に回された。ふわりと浮かんだ髪とスカートが沈んだと同時に、同じくモモちゃんがため息をついて肩を落とし、落ち着きを取り戻した。
「よかったあ、無事で。あんにゃろう、連れてきたくせに無責任にほったらかしやがって」
「モモちゃん、月雲さんに会えたの?」
「ああ。ついさっきまで話してた。そこで沙也を連れてきたって聞いたんだ。めっちゃ焦ったよ!1人で置いてきたなんて言うからさあ!こんな派手なドレスまで用意して、何考えてるんだか……」
ぶつぶつとこぼしながら、モモちゃんが私の肩へジャケットを羽織らせてくれる。
おかげ様で”派手なドレス”は少しだけ主張を控えた。
ビビットレッド。目が覚めるような原色の赤いドレスは思わず二度見してしまう程に強い存在感を放っていて、周囲の視線を集める事などたやすかった。
「どうして了さんにホイホイ付いていったかはあとで問い詰めるとして……とりあえず移動しよう。ついておいで」
モモちゃんが私の手を引いて会場を突っ切っていく。
相変わらず痛いほど視線は刺さるけど、モモちゃんがいてくれるおかげで先ほどより委縮せずに済んだ。
テーブルを縫うようにしばらく突き進んだ後、引かれた右手が解放され、ぴたりと足と止めた。
にやりとこちらを一瞥した後、まるでカーテンコールの幕引きみたいにモモちゃんがその場を捌けた。
「……沙也?」
途端、現れたのは幼馴染だった。
一織は目を見開いてこちらを凝視し、固まっている。
隣にいた七瀬さんも同じように目を丸くしていた。
「沙也ちゃんだ!びっくりした。すごく綺麗で一瞬わかんなかったよ。そのドレス赤くてかっこいいね!すっごく似合ってる!」
七瀬さんが気持ちいいほどに褒めてくれるので、悪い気はしなかった。
「ありがとうございます」と振り絞るように言ったけど、うまく声が出せなかった。
どうしても気が散ってしまう。
顔が自然と俯いてしまう。
この場から逃げてしまいたくなる。
一織とどんな顔して会えばいいかわかんないのに。
いつも通りふるまう自信が、ふんぎりが、まだついてなかったのに。
「一織、沙也とちょっとだけ一緒にいてくれない?モモちゃん、おかりんに用があってさ。そうだ、陸も一緒に探してくれる?広いから手分けしてくれるとありがたいんだけど……」
「はい!それならオレ、さっき見かけたから案内します!」
「モモちゃん待って!私も一緒に行く!」
「だーめ。これ以上目立ってどうすんの。そういうことだから一織、よろしくね!」
モモちゃんに言いくるめられ、私たちは二人きりになった。
去っていくモモちゃんと七瀬さんの背中がどんどん小さくなって、どこにいるかもわからなくなってしまった。
賑やかしい空間に似合わない沈黙が、私たちを覆っている。
「……ふふ」
予想外にも沈黙を破ったのは、一織の噴き出すような笑い声だった。
𠮟責の声ではない事に驚きつつ、思わずそちらを見やった。
一織は「失礼」と小さく咳払いをしたけれど、口元の弧は消えていなかった。
「思い出したんです。あなた、初めての発表会の時も今日みたいに縮こまってましたよね」
「そ、そうかも……。よりによって、なんでそんな昔の事を掘り出して……」
「仕方ないでしょう。幼馴染なんですから、あなたとの思い出がたくさんあるんですよ。それなりにね」
“幼馴染”
私たちの関係を、繋がりを、少しだけ深く、強く、特別にしてくれるもの。
そんな魔法みたいな言葉。
胸の奥がじんわりと温度を増したというのに。
「沙也、とても綺麗ですよ」
それだけでは飽き足らず、唐突な音が耳元で大きく響いて私を翻弄する。
降ってくるように落とされた耳打ちに心臓が跳ね上がった。
ずるい。そんなことを言われたら、私は簡単に舞い上がってしまうのに。
いつもみたいな嫌味だったら口喧嘩をして流せるのに、そんなに優しい顔をするなんて。
そんな風にされたら、
「一織も、すごいかっこいい……よ」
素直になるしか、ないじゃない。
お互いの温度を感じる距離で、でも決して触れない距離で、私たちは並びあう。
きらびやかな世界の端っこの、少しだけ特別な空間がとても愛おしくて。
ただ、君に触れたいと、思った。