タイニー・星屑ランナ―

睡眠時間が少ないにも関わらず、まだ起きている人が少ない時間に目が覚めてしまった私は、ピアノの練習室にいた。
ブランケットを肩から纏い、自分の息で指先を温めながらゆっくりと血を巡らせる。
掛け時計の秒針がカチコチと小さな音を奏でていた。

「いよいよだ」

瞼を降ろす。深く息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。
少し冷えた空気が体中を巡り、体内にこもっていた空気が流れ出ていくのを感じる。
瞼を開く。視界に白と黒の景色が広がる。
親指と小指で白い鍵盤を静かに押し込んだ。両手のリズムが狂わないように集中して、ゆっくりと音を奏でていく。
静かに力強い音が、部屋を埋め尽くしていく。

今日は心待ちにしていたIDOLiSH7の初ライブの日だ。
私の幼馴染の2人がアイドルとしてステージに立つ記念すべき日。
まるで自分の事のように気分が高揚して仕方がなかった。
この感情をどこかにぶつけたくて、起床してすぐにピアノのもとへと駆け付けた。
(自宅の練習室は防音室になっていた。私には時間帯を気にすることなくピアノと向き合う環境が整っていた)
指ならしも済み十分に感覚が戻ったので、今日の気分にふさわしいとっておきの曲を選ぶことにした。
本棚に並ぶたくさんの楽譜から1つ取り出すと、まるで宝の地図を広げるような気分で私はピアノへと挿した。

生成色のページに浮かぶ五線譜が私に力強く弾けと促している。
望むところだ。そんな挑むような気持ちで鍵盤を押し込んでいく。

火照った気持ちはまだ収まる気配はない。



「あなた最近、ふらつきすぎじゃないの?」



レッスン中、先生が言った言葉がふと浮かんだ。

ふらついている、という意味が理解できなかった。
確かにこの間は感情が制御出来なくてひどい演奏を披露してしまったけれど、それからは前向きに、自分なりにレッスンに励んできたつもりだ。
先生は私がピアノを始めた時からずっと指導してくれている、とても長い付き合いの人だ。
もちろん私の性格は熟知していると言っても過言ではないし、こんな破天荒な私に根気強く向き合い続けてくれている、尊敬できる人だ。
(たまにお互いに感情的になってぶつかることは多々あったが……そんなところを含めて私は先生を慕っている)

そんな人になぜ”ふらついている”と言われてしまったのだろう。
私の中に疑問とわずかな焦りが浮かんでいた。
先生は何かを私に伝えようとしているのではないか。ふと、そんな考えがよぎった。

それでも未熟な私は、目の前の自分の感情に従ってしまった。
この疑問を解決しないまま、それでもまあいいやと心地よい高揚感の中に沈んでいったのだ。





「沙也!こっちー!」
「文香―!!」

道に迷った私は開演ギリギリの時間に到着した。
会場の入り口で大きく手を振る文香を見て、やっとたどり着けたという安堵感と待たせてしまったという罪悪感が同時に押し寄せてきた。
文香は相も変わらず穏やかな笑顔で私を迎え入れてくれている。

「ごめん、文香」
「いいよ。それより急ごう。もうそろそろ始まっちゃうよ」

文香に手を引かれるがままに会場の中へと突き進んだ。
大きな会場に対して観客は数えるほどしかおらず(私達を足してやっと10人を超える程度だろうか)あまりのギャップに少し驚きながらも二人並んで席に腰掛けた。

「沙也、ペンライト持った?青とオンレジ振るんでしょ?」
「う、うん」
「ドキドキだね!私何色振ろうかなあー!」
「文香って意外とミーハーなんだね……?」
「えへへ。実はアイドルとか結構好き……」

文香は照れ笑いを浮かべ、顔を赤く染めながらこの間のフライヤーに目を移した。
どうやら六弥ナギさんが気に入ったらしく、慣れた手つきでペンライトを黄色に灯していた。
私も見様見真似でペンライトの色を操作し、青とオレンジ色をそれぞれで灯した。

不思議。本当にみっちゃん、アイドルになったんだ。
いざ当日となると不思議なもので、彼らはアイドルになったという事が現実味を帯びてこなかった。
もしかして私は夢を見ているんじゃないか。
だってこの間までみっちゃんも一織も私の隣にいたじゃないか。
私達はずっと一緒に並んで、あの写真のように笑っていたじゃないか。
本当に彼らは―――………、





ステージの照明が消えた。
訪れた暗闇の中からぼんやりと7人のシルエット浮かんだ。
自分の心臓の音がドクン、ドクンと耳を打った。
煌びやかなライトが彼らを照らす。

私は確かに見たのだ。
彼らの”始まりの瞬間”を。



軽やかな音楽と共に歌い踊る7人が眩しかった。
目の前の彼らがぼやけて見えたけれど、私の耳には確かに届いていた。
力強く、堂々とした、凛と響き渡る彼らの歌声が。

「沙也!三月さんも一織くんも四葉くんもすっごくかっこいいね!!……沙也?」

夢じゃなかった。
夢じゃなかったんだ。

「…………っ」

堪えていた物が溢れても、意地でも私は目を逸らさなかった。
逸らしちゃいけないと思った。
彼らの真摯な姿をこの目にしっかりと焼き付けておきたかった。

「みっちゃん……い、おり……」

優しく私の背中を撫でてくれている文香の手があたたかい。
私はなんて幸せな世界にいるんだろう。
みっちゃんは本当に夢の一歩を踏み出したんだ。
それに追いかけるように一織も一緒に進んでいったんだ。
それなのに、私は……?



パチン。
パズルのピースが合わさる音が、静かに、小さくはじける。
私は本当に”ふらついている”。
呆れるほど、情けないくらいに、ふらふらと。





ライブが無事に終わり、文香と一緒に家路につこうとしたが、観客席にいた小鳥遊さんに誘われ、私はIDOLiSH7が待つ控室まで向かっていた。
(文香は気を利かせてくれたのか、邪魔しちゃ悪いからと言って一足先に帰宅した)

「三月さんと一織さん、沙也さんの顔を見たらきっと喜びますよ!」

初ライブという大仕事を終えた小鳥遊さんは、この間と同じような明るい笑顔で言った。
この人はすごいなあ。私と年もそんなに離れていないのに、あんなにも煌びやかに彼らを彩ることが出来るんだ。
本当に、本当にすごいなあ。

「……小鳥遊さん、」

控室の目前、私は小鳥遊さんを引き留めていた。
突然引き留められ、小鳥遊さんは不思議そうにこちらを見ている。
困らせているとわかっているのに、自分の感情がセーブできなかった。

「今日、とっても素敵でした。本当、夢のようで……まだ現実味がなくて……」
「橘さん?」
「私、本当に嬉しくて、その……みっちゃんと一織がIDOLiSH7になれて、よかったって……これからもずっと応援して、ま……みっちゃんと一織を……よろしく、お願い、し……」

ライブ中も泣きっぱなしだったのに、どこから溢れ出てくるのかまた涙が零れ落ちてきた。
ここ最近ずっと泣きっぱなし。まるで小さな子供だ。
それでも。本当に。

「こら。マネージャーを困らせたらダメだろ、沙也」

本当に、感動したんだもの。

「みっ、ちゃ……」

色んな感情が沸き上がってきて、私はみっちゃんの腕の中に飛びついて泣きわめいてしまった。
みっちゃんはそんな私を優しく宥めてくれた。

みっちゃん、すごいよ。
本当にカッコよかった。ゼロみたいだった。
ううん、ゼロよりすっごくかっこよかった。
私ペンライト振ったよ。ちゃんと見えてた?
一織にもちゃんと届いたかなあ。

「……うん。わかってる。わかってるよ」



みっちゃんの暖かな言葉が私を包んだ。
涙で言葉にならない感情を、またみっちゃんは汲み取ってくれた。
やっぱりみっちゃんには敵わない。
みっちゃん、大好き。

大好き、だよ。



「……みっちゃん、あのね、」

ようやく落ち着いてきて言葉が出せるようになったところで、みっちゃんはゆっくりと私を離し、頭を撫でてくれた。
深呼吸をして真っ直ぐと大好きな暖かい瞳を見ると、その中にちっぽけな私が浮かんでいた。

「私もすぐに追いつくから待ってて!!絶対、2人に追いついて見せるから!!」

ピアノを弾くと決めた日の私みたい。
彼の瞳に映りこんでいる私はそのぐらいちっぽけな姿に見えた。
彼がにっこりと微笑んだので、瞳から私が消えた。
そう。私はあの日の私と同じではないのだ。

「おう!一緒に頑張ろうな!!」

みっちゃんの力強い言葉に応えるように、私は笑った。
小鳥遊さんみたいに、私は私のやり方であなたを彩ってみせる。絶対に。


アスファルトを力強く蹴り家までの道を駆けだすと、ヒュウ、と、風を切る音が私の耳元を抜けていった。