君たちに似て非なるもの

休日の朝一。『fonte chocolat』というケーキ屋さんの近くで私は佇んでいた。
店の可愛らしい外装を覆い隠すように重苦しいトラックが止まり、その中へダンボールが運ばれていく様をただただ眺めていた。
忙しなく業者の人たちが通るたび、ガラス扉に降りた”closed”と書かれた看板が小刻みに揺れていた。

「本当にいっちゃうんだ」

無意識に出た言葉は誰にも聞かれることなく虚しく消えた。
積荷を手伝う幼馴染たちの視界に私は入っていないようで、また彼らの瞳は以前とは違う輝きを灯しているように見えた。
その顔つきは以前から知っているものとは違い、まるで知らない人たちのよう。
ただ1人、ぽつんと、私だけがありふれた日常の中に取り残されたように思えた。

荷物を全て積み終えたトラックが走り去った時、ようやく2人は私に気がついた。

「おはよう沙也。そんなところで何してるんだよ」

みっちゃんがいつもと変わらない明るい笑顔で言った。
よかった。私の知ってるみっちゃんだ。私の大好きな笑顔だ。
胸をそっと撫でおろし彼のもとへと駆け寄った。けど、すぐに後悔した。

やっぱり違う。
私の知っているみっちゃんじゃない。

「沙也?」

思わず俯いてしまった。不思議そうに、心配をした声が耳に降りた。
嬉しい。嬉しいはずなのに。素直に喜べない自分がいる。
IDOLiSH7の初ライブに魅せられ、強く意気込んだあの夜の私はどこへ行ったのだろう。

ぽん、と。優しく触れた暖かい手が私の頭を撫でる。

「ほら、中に入ろうぜ。沙也の大好きなホットケーキ、焼いてやるよ!」

みっちゃんって不思議。
さっきまでは私の知らないみっちゃんに見えたのに、こうやってひょっこりと、昔から見てきた眩い笑顔も私に向けてくれるから。
私は声を出さずにかぶりを振って、彼の後をついていった。

彼が作ってくれたホットケーキは私の好きなはちみつとチョコレートソースが満遍なくあしらわれていて、見ただけで頬が落ちそうになるほどだった。
ナイフで小さく切ったケーキを頬張るとあまりのおいしさに強張った顔が一気にとろけた。
はははっ、と、彼は笑う。

「よかった。沙也が元気になって」

みっちゃんは肩ひじを付いてこちらを見据えていた。
オレンジ色の深みのある瞳が三日月形に弧を描いた目元に浮かんでいて、とても綺麗だ。

「沙也は笑ってるのが一番いいよ」

優し気な笑顔を浮かべる彼の姿が私の脳裏に色濃くはっきりと焼き付いた。
フラッシュを炊いてフィルムに画を残すかのように、強く、はっきりと。

うさぎさん形のホットケーキ。大好きなはちみつとチョコクリーム。
飾りに添えられたカラースプレーとドレンチェリー。
向かい合わせに肩肘を付いて笑いかけるみっちゃん。

きっとこの先、こんな幸せな時間は当分訪れない。
もしかしたら、いや、きっと、これが最後かもしれない。
だって彼はアイドルになったんだ。

和泉三月は、厳しく険しい、私がいるところとは違う世界へと、勇ましくも自ら突き進んでいったのだ。










「いたっ!」

こつんと、軽く高い音が頭に響いた。
思わず顔を上げると和泉一織がボールペンを片手に、呆れた眼差しを向けて立っていた。
先ほどの音は彼のボールペンが私の頭を叩いた音だと理解するのに数秒かかった。

「なんてところで寝てるんですか」
「え……?寝てないよ?」
「自分の口元を見てから言ってください。だらしない」

反射的に口元を拭うと袖が仄かに湿り気を帯びた。
(どうやら私はよだれを垂らして眠っていたようだった。一織ははあ、と深いため息をついた)
日はすっかり沈んでいて窓の外は藍色に染まっていた。壁時計の秒針がカチコチと音を立てて進み、長身の針を追い越した。時刻は18時になろうとしていた。

「一織、どうしてここにいるの?」

みっちゃんが私にホットケーキを焼いてくれた翌日。
私の幼馴染たちはIDOLiSH7の寮へと引っ越した。一織とはクラスが一緒だから今までと変わらず顔を合わせてはいたが、放課後は路上ライブやレッスンがあるとかで気づいたらいないことが多く、前に比べて話す機会が格段に減っていた。
こうして音楽室に顔を出すことも久しぶりだったので、意外な人物の登場に少し驚いていた。

「オフの日ぐらいどこにいてもいいでしょう」

皮肉の混じった素っ気ない言葉が返ってくる。相変わらずの態度にイラっとしたが、そんな感情はすぐに吹き飛んだ。

一織が来てくれた。
前と何にも変わってないみたいに。こんなに近くに。一織がいる。

慣れ親しんだこの光景がなんだか懐かしかった。
彼らがIDOLiSH7として活動をしてそんなに日も経っていないはずなのに、なぜだかこのあたりまえだった光景が大分昔のことのように思えた。

「こんなところで居眠りしてるなら帰った方がいいんじゃないんですか。風邪ひきますよ」
「好きで寝てたわけじゃないよ!?気づいたら意識がなくなっちゃっててね?」
「言い訳はいいから。さっさと支度をしたらどうです?」
「そんな言い方しなくたっていいじゃん!もー!」

一織の言い方に突っかかっていたら大きなくしゃみが2回ほど飛び出てきて、
「ほら言ったじゃないですか」と一織が呆れたように目を細めた。
ピアノの手入れと軽く済ませ、荷物をまとめて音楽室を後にした。
廊下は教室よりもさらに冷えていた。咄嗟に身震いした私を見て一織がまた「早くマフラーを巻く!」とすかさず口を出すものだから、「お母さんみたい……」と小さく零したら鋭い目つきで睨まれたので、マフラーを巻いて視界に入らないようにした。
思わず口元がにやけた。
こんなやり取り、本当に久しぶりだ。

「何笑ってるんです」
「別にー?」

靴を履き替え、玄関を出て一織の顔を見たらこらえきれずに笑みがこみ上げていた。
こんな何気ない時間が幸せだったんだなあ。
顔を合わせては憎まれ口をたたく、煩わしいと一時は思っていた時間が、こんなにも心地よいと思えるなんて。

「ねえ一織!今日オフなんでしょ?たまには実家に帰ろうよ!おばさんとおじさん、きっと喜ぶよ!」
「あなた、私がいつ実家を出たか覚えていないんですか……」
「だって寂しいじゃん!!」

思ったよりも大きな声が出たからか、一織は少しだけ目を丸くして私を見ていた。
私の吐いた息が白く小さく藍色に浮かんだのが見えた。
静寂が私達の空間を埋めた。

「ちょっとしか経ってなくても、寂しいよ……」

言ってしまった。言わないようにとしていた言葉が飛び出してしまった。
彼らを困らせてしまうから閉まっておきたかった言葉だったのに。

「……ごめんなさい」

出てしまった言葉は戻らない。
後悔した時には遅かった。ごめんなさい、なんて言葉じゃなくてもっと明るく、冗談っぽい言葉でごまかせればよかったのに。
一織の顔を見れなくて、自然と視線が下を向いた。

「まったく。あなたは昔から思い込みが過ぎると言うか……」
「は!?」

ひどい!私がどんな思いで2人の引っ越しを見送ったと……!!
反論をしようと勢いよく顔を上げたけど、言葉は出なかった。
冷たい空気を思わず飲み込んでしまい、喉の奥を通って行くのを感じる。

「見に行きますよ、沙也のコンクール。兄さんと一緒に。だから、また会えます」

一織の声が、私の中へ入っていく。
巻いていたマフラーの端が、私の肩から落ちて揺れた。
首を冷たい空気が撫でていく。不思議と身震いは起きなかった。

薄っすらと浮かんだ月明かりが、一織の髪を仄かに照らしている。

「まったく……今生の別れじゃないんですから。本当に昔からあなたは大げさというか短絡的というか……」

一織の顔が呆れた表情に戻った。
皮肉めいた言葉をつらつらと流しつつ、駅への道に向かって進んでいく。
大きな背中に月あかりが反射した。藍色のブレザーが淡く鈍く光った。

「沙也?」

私の名前を呼ぶ一織の声で、ようやく足が動き始めた。
マフラーの端を再び背中に回し、少し遅れて一織の後を追う。

「な、なんで私のコンクールがある事知ってるの……?」
「曲が決められないとグダグダと半年も前から悩んでいたのはどこのどなたですか?」
「うっ……」

ドクンドクン、心臓が煩い。
この音をかき消すように、平然を装うように、私は駅までの道のりを他愛もない言葉で埋め尽くした。
一生懸命、拙い言葉でつないだから一織は不思議そうに、怪訝そうな表情を浮かべていたけれど、私はそれどころじゃなかったのだ。

気を抜いたら一織にばれてしまいそうな気がしたから。



あんな一織の優しい顔、初めて見てドキドキしてる、なんて。