この先は尊い

小さな1の怒りや悲しみを10のように感じて、大泣きして。
小さな1の喜びや楽しみを100のように感じて、かみしめて、心の底から溢れ出たような輝かしい笑顔で笑う。

和泉三月が知る橘沙也は、こういう子。
よく言えば素直。悪く言えば幼稚。
ころころと変わる表情に昔から目が離せなくて、そんな沙也の事を愛おしいと三月は思っていた。

もちろん理解していた。
彼女も自分と同じなのだ。
成長をして、失敗も成功もたくさん経験をして、少しずつ大人になっていく。
いつまでも自分の後をついて回るような幼子ではいないのだと。
――……理解していたつもり、”だった”。

九条天を見つめる横顔にはあどけなさなどは皆無で、深い瞳が小刻みに揺れていた。
Re:valeの傍らで演奏をする彼女は痛みも苦痛もつゆ一つ見たらない淡々とした表情で、静かで情熱的な演奏を成し遂げていた。
かと思えば幼い頃と同じようにめいいっぱいの感情をさらけ出して、等身大の自分を預けていた。
方向は和泉三月でも、和泉一織でもない、
出会って数か月しか経っていないはずの、Re:valeの百だ。





(オレ、すっげーやなやつじゃん)

入念に隅の方へと押しやっていたというのにどす黒い靄が顔を出したので、嫌悪感を抱いた。深いため息が漏れ出るが、靄は外に出ることなくその場にとどまって渦を巻く。
三月は辟易した。
ただでさえ大和が一向に話してくれない”千葉サロン”の事で胸はいっぱいだというのに、どうして今顔を出したのか。
きっかけはわかっていた。先ほど立ち寄った男子トイレで耳に届いたあの会話だ。



「そういやお前、Re:valeのキーボード口説こうとしてたじゃん?どう?その後は」
「ああ。全然うまくいかねー。話そうとしても四六時中モモがついてて隙がねえんだよ」
「やっぱマジなんじゃね?あの噂。モモとキーボードが出来てるってやつ」



先日番組で一緒になったバンドの2人が話しているのは、芸能界でよくある、根も葉もない噂の1つだ。
現にこの噂は初めて耳にしたわけではなかった。モモと仲がいい自分に真偽の程を確かめに来るスタッフは何人もいたし、その度に否定してきた。
そんなはずはない。頭ではわかってはいても否定するたびに自信が揺らぎ、疑心暗鬼になっていく。
本当にそうなのか?本当は付き合ってるんじゃないのか?
違うことなど、自分が一番わかっているはずなのに。





(バカみてえ。何が不安になってんだか。ほら、しゃきっとしろ!しゃきっと!)

パチンと両頬を叩いて活を入れ、ジャケットを羽織り直した。
フォーマルな会場に合わせた固いスーツは自然と背筋を伸ばしてくれた。切るように息を吐いて、気持ちを切り替えた。
テレビのパーティという事もあって著名人がたくさん来ている。大切な繋がりが出来るきっかけになるかもしれない。
何より仕事といえせっかくのパーティだ。楽しまないのはもったいないではないか!

三月は踵を返し、道中でナギを見つけて引き上げると、(再三注意をしているにも飽きたらず、目を放すとすぐにナンパに出かけていくので、三月が回収に回っていた)メンバーが待っているであろう会場へと向かった。
見慣れた弟のジャケットが視界に入り、向かう足取りが無意識に早まった。
弟の顔は珍しく緩んでいた。遠くから見ても気づけるのは兄の特権だ。あの一織がこのような場所で珍しい。気の合う人にでも出会えたのだろうか。いや、きっと陸が隣にいるのだろう。

「おーい、いお……」

三月は言葉に詰まった。
浮いた右手は掲げられることなく行き場を失っている。
飛び込んで来たのは思いもよらない、目覚ましいほどの強い色。
覚めるほど鮮やかな赤が、百のジャケットの隙間から覗いている。

反動で浮いてなびいた髪が彼女の顔を覆い隠し、その表情を読めなくした。










大和と三月が喧嘩をしたのは、あけぼのTVのパーティが終わってから少し経った頃だった。
三月は寮を飛び出し、一織もそれについて行く事となった。ひょんなことで百が2人を自宅に招き、ちぐはぐな3人暮らしが始まった。百は一人暮らしだ。当たり前なのだがIDOLiSH7の寮とはずいぶん勝手が違うので、その新鮮さに驚き戸惑いながらも徐々に順応しつつあった。それが更に三月を空しくさせた。

喧嘩の発端は自分にある事はわかっている。
けれど折れるわけにはいかなかった。
このまま流してしまえばこの先ずっと、大和とは分かり合えない気がしたからだ。

(きっと大丈夫。大和さんなら応えてくれる。オレは信じる。大和さんの事、信じてるから)

自分に言い聞かせるように、心の中で呪文のように何度も唱えた。
それでも時々不安が押し寄せる。
これが本当に正しいのか?大和が歩み寄ってくれなかったらどうなる?
IDOLiSH7がなくなってしまったら――……。

考えるほどドツボにはまるというのに負の感情とは恐ろしい力を秘めているもので、思考の放棄を簡単には許してくれなかった。

「……兄さん、大丈夫ですか?」

見かねた一織が心配そうな表情で三月を慮った。その声にはっとして、三月は笑顔を浮かべる。
誰が見てもわかる。痛々しいほどの空元気な笑みだった。

「大丈夫だよ!暗い空気にしてごめんな。それよりモモさん、遅くねえ?なんかあったのかな?」
「そうですね。いつもならとっくに帰ってきているはずなのに。何かあったんでしょうか」

三月と一織は夕食を作り終え、百の帰りを待ちわびているところだった。
『今から帰るね!夕飯、楽しみだにゃ〜!』と顔文字の添えられた軽やかなラビチャが届いてから幾分が立つ。
今日は事務所でトレーニングだから帰りは遅くならないと言っていたというのに……夕食のカレーはすっかり冷めきっていた。
百は多忙だし、帰りしなに急用の仕事が入った、などは大いにあり得る。
何かあったのではと心配ではあるが、一織には学校がある。兄としては弟の健康的な生活を優先してやりたい気持ちも強かった。

百さんも子供じゃないのだから、きっと大丈夫だろう。
カレーを温め直そうと立ち上がった瞬間、豪快にドアが開いた音が飛び込んだ。

「ただいま!!!遅くなってごめんね!!モモちゃん、帰還しました!!!」

いつもよりも慌ただしく忙しない帰宅だった。
ゴチャゴチャした足音がキッチンへと賑やかしく向かってきて、再び2枚目の扉が開かれた音が豪快に響き、注目を集めた。

「みっちゃん!!一織!!こんばんは!!!」

・・・。
飛び込んできた人物をみて、目が点になる。
和泉兄弟は同時に目をぱちくりとさせて、吸い込まれるように見つめ合い、再び点目のまま声の主を見た。

「沙也!?」

行動だけでなく声まで綺麗に重なったので、百が「さっすが兄弟!息ぴったり!」と収録中のような合いの手を打った。
名前を呼ばれた沙也は満足げに顔を綻ばせ、「来ちゃいました!」と悪びれもなく言う。
三月と一織は反射的に後ろを向いた。カーテンが締まっていることを確認して、ほっと胸を撫でおろした。
(近々でパパラッチが無断撮影したフラッシュの光が入り込んだという事件があった。百は対して気にも留めていなかったが、和泉兄弟は気が立っていた)
沙也の後ろからは申し訳なさそうにマネージャーの岡崎凛人が顔を出した。「こんばんは。すみません、夜分遅くに突然」と頭をぺこぺこと下げながら。

「大丈夫。パパラッチがいないことは確認済みだし、記者対策用におかりんについてきてもらってるから、安心して。沙也が2人にどうしても渡したいものがあるっていうからさ」
「渡したいもの?」

百に促され、沙也は後ろ手に隠していたものを勢いよく差し出した。
コンビニのビニール袋が派手で鋭い音を立てる。彼女の顔は心なしか誇らしげだ。

「高いアイスです!!デザートにと思って持ってきました!!みなさんでどうぞ!!」

テーブルに広げられたものは、ブランド物のアイスクリームだった。
パッケージについた固い霜がわずかに溶け始めていて、購入して間もない事が伺えた。

「ありがたいけど……急にどうした?なんでアイス?」
「えっ……なんていうか、どうしてもみっちゃんに食べてほしくて」
「オレに?」

沙也はかぶりを振った。強い思いがそのひと振りに込められていた。
彼女は一生懸命に頭の中で言葉のピースを探し、かけ合わせていく。

「私はホットケーキ作れないから代わりになるものをあげたかったの。こんなことしか思い浮かばなかったけど……」

もじもじと籠った声。
けれど、それは三月の中の靄を一掃した。
すがすがしいほど、晴れやかに。
三月は笑った。少し泣きだしそうな、こぼれそうな笑顔で。
沙也も笑った。その笑顔を見て、三月は思う。



小さな1の喜びを100のようにかみしめて、心の底から溢れ出たように笑う。



(沙也は、やっぱり沙也のままだ)
(オレがずっと見てきたあの笑顔のままだ)

決して問題が解決したわけではなかったけれど、三月の心は明るくなった。
そして気づいた。
きっと、今は彼女の成長を受け入れている途中なのだと。
消えた靄も再び顔を出すこともあるだろう。けれどその時はこのアイスの味を思い出そう。
そうすればきっと、今より苦しさは和らぐはずだ、と。





「オレ、沙也の笑顔、すっげー好き。ありがとな」

カレーもアイスも食べ終え片づけをする傍らで、三月は沙也に小さく耳打ちをした。
他の人にはばれないように。
こっそりと見えない場所で、いけないことをするみたいに。

自然と伸びた手が沙也の頭を優しく撫で上げる。
その指先は名残惜しそうに彼女の頬を滑り落ちていった。