豕を抱いて臭気を忘る

数日後、みっちゃんからラビチャが届いた。
二階堂さんと仲直りが出来た事。
差し入れのアイスは、私の給料を初めて切り崩したものだと、モモちゃんから聞いた事。それがとっても嬉しかった事。何度も重なるお礼の言葉。
今にも声が聞こえてきそうな文章に思わずにやけてしまう。
そして、みぞおちの奥がじんわりと暖かくなった。

あの日、本当は怖気づいていた。
私が抱いている自分勝手な思いの後ろめたさが枷のように体中を纏わりついていた。
自信もなかった。昔から励ましてくれるのはみっちゃんだ。私が同じように、彼を励ませるのだろうか。
苛つくほどに煮え切らない、ネガティブな思考が支配していた。

けれど、パーティで見たみっちゃんの顔が脳裏をよぎった途端、それはシャボン玉が割れたように一気にはじけ飛んでどこかへ行ってしまった。
気が付けばモモちゃんと岡崎さんに頭を下げていた。
必死に思いを伝えた。自分が出来る事を精一杯考えて、会いに行った。

よかった。あの日勇気を出したのは間違いじゃなかったんだ。
こんな私でもみっちゃんを励ます事が出来たんだ。
変なの。みっちゃんを励ましたくてやったはずなのに、逆に私が励まされてるなんて。

(みっちゃんに会いたいな。また会えるかな。会えるといいな。)

物思いにふけっていたら手元のスマートフォンが震え、現実に引き戻された。
新たなメッセージが届いた通知だった。送り主は同じく”和泉三月”となっていて、期待に胸を膨らませながらラビチャをいそいそと開く。
表示されたメッセージに思わず目を見開いた。



『こんにちは、大神です。三月くんからちょっとだけ携帯を借りてます。橘さん、昔のRe:valeの曲に興味はない?よかったら聴きに来ませんか?』

甘々な恋愛脳に膨大な情報量の吹き出しが直撃し、脳内がたくさんのクエスチョンマークに覆いつくされた。
みっちゃんだと思ったらみっちゃんじゃなくて、
会いたいと思っていたら事務所に招かれて、
そして昔のRe:valeの曲が聴ける?らしい。

『はい?ぜひ喜んで?』
『なんで疑問形?』

混乱状態でなんとも間抜けな文章を送った私へ、すかさず返信が飛んで来るのだった。










外では太陽が燦燦と降り注いでいる。蝉も煩いほど鳴きわめいていて、青い空が高く遠くまで広がっていた。
夏が来た。なんとも夏らしい夏だった。
暑さにうだりつつも、学校内の皆はどこかしら浮足立っているように思えた。
けれどもちろん、そんな軽やかな空気に染まり切れてない人たちもいる。
私がそのうちの一人だ。

「めずらしいね。いつもの沙也なら気にしなさそうなのに。そんなにショックだった?亥清くんに嫌われたこと」

親友の遠慮のない物言いが胸に突き刺さり、大きなダメージを与えた。
私の様子に気づきながらも当の本人は悪びれる様子もなく紙パックのレモン牛乳を啜っている。(どうしてレモン牛乳なのかというと、ナギさんの概念ドリンク、ということらしい。)

「だって今までは大体検討がついたんだもん」
「ああ、和泉くんがらみってこと?」
「うん。大体は一織の事好きな子か、コンクールのライバルか、その二択だった。でも亥清くんはそのどっちでもないから」
「理由は謎だけど、すごい嫌悪感丸出しだったね。見てるこっちが気持ちいほどの逸らしっぷりだったわ」

再び向けられた言葉の槍を受け、私は机に突っ伏した。
「そんなにはっきりと言わなくてもいいじゃん……」
私の声を眼前の机上が吸収する。ズズッ、とレモン牛乳を飲み干したであろう音が跳ねるように飛んでいた。

亥清悠くんとの出来事――それは今朝のHRで起こった。





「亥清悠です。……よろしくお願いします」

転校生として紹介され、教壇に現れた亥清悠くんは気怠そうに言った。
自己紹介を受けて拍手をするクラスメイト達には目もくれず、つまらなそうに視線を外していた。
そんな彼に釘付けになった。
だって、私は彼に一度出会っていたのだ。

「君!!あの時の!!」

あまりの衝撃に、拍手を破るように叫んでいた。
シン、と教室は静まり返り、こちらに注目が集まる。
亥清くんの瞳がこちらへ向いた途端、「げっ」と小さい声が零れて顔が歪んだ。面倒くさそうに、そしてとても嫌そうに視線を外して言った。

「席、どこっすか」

教室が再び静まり返る。
「えー……あそこの空いてる席だ」と探るような先生の声に亥清くんが動き出し、死角からガタガタと椅子の音が響いた。

「橘、座りなさい」

先生の静かな促しで崩れ落ちるように腰を下ろした。
顔から火が出ると思うほどに恥ずかしく、今すぐ逃げ出したくなるほど悲しい出来事だった。





「沙也、亥清くんに会ったことあるの?それともナンパ?」
「ある!あります!ナンパじゃないです!!……ッ!!」

勢いよく頭を上げた拍子に文香のレモン牛乳のパックを吹っ飛ばしてしまった。
「さすが沙也。この間の体育、見事なヘディングきめてたもんね」と、文香の軽口が飛んでくる。

「もー!意地悪!」

転がったパックを拾い上げ、ゴミ箱へと向かった。
(私を励まそうと冗談っぽくネタにしているんだろうけど、もうちょっと慰めてくれたってよくない?)
教室のゴミ箱はペダル式で蓋が開閉するものだ。足でペダルを踏み込んでパックを放り投げる。足を外そうとした瞬間、同じタイミングで捨てに来たであろう人の腕が左側から現れて、慌ててペダルを踏み直した。

「ありが……」
「だいじょう……」
「「あ」」

綺麗に声が重なる。
一呼吸置いた後、私は反射的に走り出していた。
左側の人物が走り出したのにつられたのだ。

「ま、待って!亥清くん!なんで逃げんの!?」
「はっ!?ちょっ、なんで追っかけてくんだよ!!」

謎に亥清くんと私のレース大会が始まった。
学校の廊下を走るというのは大変目立つ行為で、あたりの生徒たちは物珍しそうな眼差しでこちらを見ている。
(亥清くんは転校生で校内の立地を把握などしていないので、図らずも選ぶコースは生徒たちで溢れかえる廊下ばかりだった)

「おまえっ……超怖い、なんなの!?……はあ、足、めっちゃはえーし。バケモンかよ」
「亥清くんだって、なんで逃げるの!?……はあ、あっつ……」

終着点は屋上だった。扉を開ける前に力尽き、2人とも床に座り込んでいた。
授業開始を知らせるチャイムが鳴り響き、「おまえのせいで初日からサボるはめになっちゃったじゃん」と亥清くんが言ったので、授業に出る気がないのは私だけじゃないのだと少し安堵した。
いや、本当はよくないんだけど。

「亥清くん、前に私と会ってるよね?月雲さんのところに連れてってくれたよね?」

ようやく息も整ってきたので亥清くんに話しかけると、ふいっとそっぽを向かれてしまった。
HRの時と言い、相当な嫌悪感を抱かれているのが伺い知れて、ちょっとだけめげそうになる。

「別に。だったらどうなの?」
「いや、謎だらけだから!なんで私の事知ってたの?なんで月雲さんに私を紹介したの?」
「だっておまえ、百の彼女なんだろ」
「は?」

亥清くんの発言に間の抜けた声が出てしまった。
芸能界で広まっている噂というのは知っている。けれど週刊誌の記事にはなってないし、亥清くんが知っているはずなどないのだ。

「私、彼女じゃないよ?誰からそんな事聞いたの?」
「了さんから聞いたんだよ。オレはあの日、たまたま了さんに声を掛けるよう頼まれただけ。まさかこんなやつが彼女だとは思わなかったけど」
「だから違うってば!」

視線がぶつかったけど、すぐに逸らされた。
眉間に皺を寄せて、小さな舌打ちをして亥清くんは立ち上がった。

「やっぱりおまえ、ムカつく。了さんの頼みなんて引き受けるんじゃなかった」
「あのー……私、何か亥清くんの気に障るような事をしたんでしょうか……?」
「は?」
「いや、あのね。こんなに嫌われてるなら無理に関わろうとは思わないんだけど、初対面でここまで嫌われるって今までなかったので、その、理由を知れたら嬉しいな、なんて……」

亥清くんは少し間を置き、言葉を選ぶように巡らせた後、消え入りそうな声を落とした。

「目が苦手。あと……TRIGGERの曲を弾いて有名になったから」



「……へ?」

予想外の発言に面を食らい、やっと絞り出た声は亥清くんが去ってからずいぶん経ってからだった。

「亥清くんはつまり……TRIGGERファン、ってこと?」

彼の言葉を繰り返し咀嚼してみるも、結局何を意図しているのか、何が琴線に触れているのかは私の頭では理解が追い付かないまま、授業終了のチャイムで我に返るのだった。