甘酸っぱい1/3ケーキ

ピアノ教室に通い始め少し経った頃、レッスンが始まる前に両親と先生が揃って私に向き合って座り、厳粛な雰囲気の中で言った。
第一声は父だった。

「沙也、本当に三月くんがアイドルになったら、その演奏をやりたいのか?」

父の眉間には皺が寄っていた。まっすぐに見つめる瞳がとても力強く、威厳のある雰囲気に萎縮してしまい、私は精一杯かぶりを振った。
シン、と、静寂特有の高音が耳を貫いた。

「それはアイドルになるのと同じぐらい大変なことだよ。それでもやるか?」

さっきよりも低い声だった。思わずスカートの裾を握り込んだ。
息を飲んで、一呼吸置き、先ほどよりも力強くかぶりを振った。
父はそんな私を見て、ふう、と長いため息をついた。眉が少し下がって力強い眼差しは心配そうな表情に変わった。

「それなら1番になりなさい」

今度は母だった。

「どんなコンクールでもいいから1番になること。それであなたの決心がついたら、演奏家の道に進みなさい。まずは目の前のピアノと向き合うこと」

その日から私は研鑽を重ねてコンクールに挑み続けた。
みっちゃんはアイドルになり、芸能人としての道を突き進んでいる。
私がコンクールで1位を取った日は、まだ一度もない。










「一織ー!」

見慣れたシルエットを目にして、反射的にその名前を呼んだ。
呼ばれた人物だけではなく、その周りにいた人たちもこちらを向いた。
そのうちの1人は私の大好きな人だった。

「沙也!久しぶりだな!」
「みっちゃん!」

満面の笑みで迎えてくれたみっちゃんは私の頭を大きく撫でてくれた。
それがくすぐったくて、とても嬉しくて、思わず声を出して笑ってしまった。

「元気にしてたか?」
「うん。おじさんのケーキで栄養補給してたから元気だよ!」
「あんまり食い過ぎんなよー」

久しぶりのみっちゃんは少しだけ大人びて見えて、いつもよりカッコよかった。
再会の喜びをかみしめていたらずっと彼の顔を見つめてしまっていたようで、みっちゃんが不思議そうに首を傾げたので「なんでもないよ」と笑ってごまかした。
ふと後ろの人たちが目に映る。その人たちには見覚えがあった。

「逢坂さんと……六弥さん……?」
「初めまして、逢坂壮五です。三月さんからピアノのコンクールがあると伺ったので、ご一緒させていただきました。今日の演奏、楽しみにしてます」

礼儀正しい、物腰柔らかい言い回し。立ち振る舞い的によくクラシック音楽を嗜んでいそうに見えた。
逢坂さんは柔らかく微笑みながら手元のパンフレットに視線を落とした。

「ベートーヴェンのピアノソナタ第23番第3楽章……」
「OH!とてもハードな曲ですね!ワタシ、大好きな曲です!」

壮五さんの隣にいた六弥さんが話に入ってきた。

「ハイ、沙也。ミツキやイオリからあなたの話聞いてます。今日のコンサート、とても楽しみにしてきました」
「あ、はい……」

人生で初めてこんなに近くで美形を拝めている。
六弥さんは私の手を取ってキスを落とそうとした。漫画でしか見たことない挨拶に驚き、私の体が固まった瞬間だった。

「う、そ……」

パサ、と乾いた音とともに、愕然とした声が1つ。
声の方を見ると文香がいた。足元には赤色のリボンがかかった小さな花束があった。
どうやら先ほどの音は花束が落ちた音らしい。

「ろくや……な……え、沙也……」
「ハイ、レディ。ワタシのコト、知ってますか?」
「は、はい……この間ライブで……」
「OH!ライブにきてくれて嬉しいです!サンキュー!」

そう言って六弥さんが文香の手の甲へキスを落とした。文香が気を失って倒れそうになったところを六弥さんが咄嗟に引き寄せたので、「もう死んじゃう……」と本当に幸せそうに呟き、文香は意識を失い、救護室へ運ばれていった。
(その後すぐに意識は回復したが、文香はずっと手の甲を見つめてニヤニヤしていた。余談だが、六弥さんはそのあとみっちゃんにこってり絞られ、新たな犠牲者を出さないようにすると一織から又聞きした)





今回のコンクールは自由曲を1曲引き上げるというシンプルな形式だった。
規模はそれほど大きくはないものの、俗に言う超技巧曲を主催者が好んでいたため、なかなか聞き応えのある選曲をする奏者が多かった。

今回のために新しく買ってもらったドレスはとても着心地が良かった。
いい意味で邪魔にならず、リラックスした雰囲気で演奏に臨めそうだった。
舞台袖で前奏者の演奏を聴いていた。私より年下なのに技術があって表現力も凄まじかった。
この子は上位に入る。そう思えるほどうまかった。
スポットライトに当たる背中は、黒いスーツを着ていたのでピアノと一体化しているように見えて、ぼやけた輪郭をただじっと見つめていた。
音が止み、客席から拍手が湧いた。
拍手喝采を受け、全てを出し切った前奏者の男の子は満足そうな笑顔で袖に向かって歩いてきた。
目が合うと、男の子はニヤリと違う笑顔を浮かべた。
“勝った”。そう言いたげな、勝ち誇ったような笑顔だった。

「橘さんの演奏、楽しみにしてますね」

通りざまに男の子は言った。
いつもの私なら挑発的な態度に感情が高ぶってしまうだろう。
でも今日は違った。

名前が呼ばれ、吸い込まれるようにスポットライトを浴びたピアノへと向かった。
鍵盤を拭き、椅子の高さを整える。
会場に広がる静寂が早く音をと急かしているように思えた。
けれど少しも焦る気持ちは出なかった。目を閉じて浮かんだ光景は、あの日のガラガラだったライブ会場に輝く7人の人たち。

みっちゃん。一織。
私も、そっち側に行くね。





まるで自分の演奏じゃないみたいだった。
私の思いが綺麗に指を通して鍵盤に降り、弦を震わせていた。
脳内にあのライブの光景が広がるたび、私の指は軽々と動いた。

あなたたちを輝かせたい。
私の演奏で歌って踊って輝いてほしい。
あの時見た感動を、私のやり方でもっと多くの人に届けたい。

みっちゃん。一織。
私はあの日から、ずっと熱が収まらないよ。





7分半ほどの演奏があっという間に終わった。
立ち上がり観客と向き合う。

割れるような拍手が私の耳を貫いた。

深く頭を下げた。
パチパチと重なった拍手の音が私の体を震わせた。
嬉しい。少しは届いたのかもしれない。
それが今は、とてつもなく、嬉しい。

景色は違うけど、みっちゃんも一織も、同じような気持ちになるのだろうか。










「あなた……これ一体何カロリーすると思ってるんです?」

一織が呆れたように言った。
私はそれに答えることなく、目の前のケーキを大口で頬張った。
一織が目を細めて深いため息をついた。

「おじさん!この新作ケーキすっごく美味しいです!もう1つください!」
「ありがとう。沙也ちゃんはいつも美味しそうに食べてくれるから嬉しいです」
「だって全部本当においしいんだもん!」

本日3つめのケーキを完食し、コップの水を飲み干した。
先ほど頼んだ新作ケーキが乗ったお皿を持ってみっちゃんがきた。
丸テーブルを囲うように私とみっちゃんと一織で座ってはいるが、ケーキを食べているのは私だけだった。
空になったグラスにみっちゃんが水を注いでくれた。
4つめのケーキにフォークを刺そうとしたが、手が勝手に止まった。
耐えきれなかった私は、ついに口を開いた。

「……ねえ、なんでさっきから何も言わないの?」

コンクールが終わった。
そのまま2人は実家に寄るというので私もついてきたけれど、みっちゃんと一織はコンクールのことについて何も触れてこなかった。

優勝者は私の前に演奏した男の子だった。
私は2位だった。
また1位になれなかった。約束を果たせなかった。
彼らの世界へとまだ入り込むことはできないのだ。

「頑張ったな」

みっちゃんの手が私の頭に触れた。
その暖かさに、絶対に出すまいと込み上げてたものが溢れてしまった。

「ーー……悔しい、」

涙が落ちた。テーブル。お皿。服の裾。
ポタポタと浮かぶ水滴がぼんやりと歪んで見えた。
みっちゃんは優しくゆっくりと頭を撫で続けている。

「うん。わかってるよ」

なんでこの人はこんなに優しい声音なんだろうか。
この声を前にすると自然と素直になれる。こんな醜い感情でさえさらけ出してしまう。
だから私はこの人が好きなんだ。
ちっぽけな私を受け止めてくれるこの優しさが、大好きなんだ。

「もう、涙でびしょ濡れじゃねえか。タオル取ってくるな」

ぽんぽん、と、軽く頭を叩き、みっちゃんはおじさんと一緒に店の奥へと消えていった。
すすり泣く私の声がお店に小さく響いていた。
閉店した後のお店でよかった。他のお客さんが来たら驚いて出てってしまうに違いない。

「沙也」

名前を呼ばれ顔を上げると、一織がいつもとは違う表情で言った。

「今回の演奏、素晴らしかったですよ。今までで一番素敵でした」
「え……」
「次のコンクールも見に行きます。だから頑張って」

その表情はこの間見せたあの顔と似ていた。
驚いて目を丸くしていると、一織は可笑しそうに小さく笑った。
その笑顔は一織がたまに見せる、私の好きな笑顔だった。

「沙也、タオル持ってきたぞ。顔拭いてはやくケーキ食べよう。オレも新作ケーキ食べてみたくってさ。一織も食べるだろ?」
「はい。私も食べたいです」

その後、私たちは3人でケーキを分けながら食べた。
涙が混じって少ししょっぱかったけど、さっきよりもとても甘くて、本当に美味しかった。

「みっちゃん、一織、ありがとう」

2人は笑った。
その笑顔につられて私も笑う。
気がつけば涙は止まっていた。