赤色と相合傘




ノートの端に小さな傘を書いた。
苗字名前。
片側にゆっくりと丁寧に、自分の名前を書き込む。
一本の線で隔たれたもう片方のスペースにシャーペンを走らせようとペンを置いた時、私の頭の中が真っ赤に染まった。

止まれの信号。
サッカーで退場処分を示すレッドカード。
チリソース。
テストの正誤を示す○×マーク。
世の中にある赤を思い浮かべて1つずつ並べる。
赤は危機を表したり、人を興奮させたりと、色々な意味合いがあるらしい。
じゃあ、あの赤はどんな赤なのだろう。
私はふと目を閉じた。

「苗字、居眠りするなら帰っていいぞ」

相澤先生の怒気のこもった静かな低い声に、今は授業中だったことを思い出して目を開いた。
反射的に背筋が伸び、私を睨み付ける相澤先生が視界に入る。

「す……すみませんでした」

相澤先生はため息を1つ零し、授業を再開させた。
視線をノートへと移し、持っていたシャーペンを握り直す。
机の端の方へ追いやっていた消しゴムと赤ペンが目についた。
授業内容を書き写している中で、要点をこの赤ペンを使って書くようにしていた。
ノートにはこのペンで書かれた赤色が所々で主張している。
存在感を主張するようなはっきりとした赤だ。

違う。この赤じゃない。

ノートの文字と頭の中に浮かぶ映像を照らし合わせる。
背中が少し熱くなった気がした。
耳にはいたるところからペンを走らせる細やかな音が響いている。





「名前ちゃん、体調悪いの?」

近くの席の麗日お茶子が心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
大きな目に比べて小さめな虹彩の中に、私の姿がぼんやりと映っている。

「ううん。大丈夫だよ。ちょっと考え事しちゃったの」
「そっか。そういう時もあるよねえ」

お茶子は穏やかな口調で言い、眉毛を少し下げて笑った。
親しみやすさのある柔らかい笑顔に、私もつられて顔が綻ぶ。

「次は英語やねえ。プレゼントマイク、いつもあ行の方から当ててくるから気が抜けないよ」

朗らかな笑顔から一変し、お茶子は口をとがらせて拗ねたように言った。
高校で出会ったお茶子になんとなく気が許せてしまうのは、こういう一面があるからかもしれない。
元気よく明るく笑っていたと思ったら、急に落ち込んだり、恥ずかしそうに顔を赤らめていたり、まるで小さな子供みたいだ。
初めて会った時にそう感じ、一気に親近感がわいた事を思い出した。

「いきなり当てられると焦るよね。プレゼントマイク、自分の話に夢中になってたと思ったらいきなりこっちに振ってくるし」
「そうそう!私すぐテンパっちゃうから気を付けんと。名前ちゃんはいつもクールでカッコいいよね。冷静沈着、ってカンジ!」
「そうかな」
「そうだよ!けど……」

私はお茶子みたいに表情豊かな子になりたかったけど。
そう続けようとした私の言葉はお茶子に伝わらなかった。
いたずらっ子のような顔をしたお茶子が私の言葉を遮るように身を乗り出し、そっと耳打ちをしたからだ。

「名前、書かんの?」

一気に頬が熱くなった。
広がったままのノートを急いで閉じ、机の中へと乱暴に押し込む。
見られてしまったという事実に、とめどない羞恥心が私を襲った。

「名前ちゃんはギャップがあるからいいよね」

楽しそうな声でそう言い残し、お茶子は席へと戻って行った。
その後ろ姿を横目に、落ち着かせるように長い深呼吸を2、3回繰り返す。
お茶子がこちらを見ていない事を確認すると、先ほどのノートをゆっくりと開いた。
ノートの端に浮かぶ私の名前がぶら下がった傘は、片側の空白を埋めて欲しそうに存在を主張している。





雄英高校に入学して間もない頃。
早く学校に着いた私はゆっくりとした足取りで1-Aへと向かっていた。
校内にいる生徒もまだまばらで、学校独特の静けさが広がっている。
もう1、2本電車を遅らせても大丈夫そうだ。
携帯のディスプレイに浮かぶ時計を眺め、明日はもう少しゆっくりと家を出ようと考えていた。

雄英高校はどんな”個性”の生徒も適応できるように、校内全体がバリアフリーとなっている。
まだ見慣れないだだっ広い渡り廊下には窓から陽気な日差しが差し込んでいて、壁や教室の扉の輪郭をぼかしていた。
1-Aの教室まで目と鼻の先の距離となった時、大きな扉がゆっくりと動き始めた。
静かな廊下にサッシの上をローラーが走る鈍い音が響く。

真っ先に目に飛び込んできたのは、赤色だった。

太陽の光が反射してぼやけているはずの輪郭の中に、それははっきりと浮かんでいた。
隣にある白色が赤色を際立たせているようにも思えた。

「轟焦凍。個性は半冷半熱。―――……よろしく」

昨日の自己紹介で淡々という轟くんの姿を思い出した。
あの時と同じような表情で、轟くんは私の事を見た。
左右で色の異なる虹彩が私の方へと向いている。

「……お、おはよう」

クラスメイトだという事を認識したのか、轟くんは私の挨拶に反応した。
つりあがっている目じりが少しだけ下がって、睫毛が1度羽ばたくように降りた。
その細やかな動き1つ1つが、私にはなぜだかとても鮮明に映った。

「……おはよう」

自己紹介の時より少し低い声で轟くんは言った。
ゆっくりと私に近づくように歩いてきて、そのまま通り過ぎていく。
轟くんの動きに合わせてわずかにゆれる赤は太陽の光を受けて煌めいていた。

その日から私の頭の中に、あの赤色がずっと棲みついている。





「やっぱり当たったー!!」

授業が終わり、お茶子は恨めしそうな悲鳴を上げて私のもとへと近寄ってきた。
お茶子の言っていた通り、プレゼントマイクは今日もあ行から順番に生徒を指名して問題を割り振った。
お茶子はその中でも一番自信のない問題に当たってしまったらしかった。

「なんで嫌な予感程当たるんやろ……」
「そういう時もあるよ。次頑張ろ」

2人で教室を出て、昼食を摂るために食堂へと向かった。
広い渡り廊下は多くの生徒で賑わっていて、早朝に見るあの廊下とは全く違う場所のようにも思えた。
今日は何を食べようかなあ。
そう言いながらお茶子は楽しそうに口角を上げている。

「あ、轟くん」

お茶子はわざとらしく抑揚をつけて言った。
演技力の欠片もない声に、思わずお茶子を睨み付けた。
当の本人は大して悪びれもせず、にこにこと笑っている。

「声かけてきたら?」
「いいよ、別に。お茶子が行ってくれば?」
「ふーん?……デクくーん!お昼―?一緒に行こー!」

やられた。
お茶子は私の手を引いて、緑谷くんのもとへと先導していく。
緑谷くんは1人ではなかった。
飯田くん、轟くんと肩を並べて歩いてた。
お茶子と仲の良い飯田くんと緑谷くんは、楽しそうに会話を始める。

「ごめんね、急に」

確信犯であるお茶子の楽しそうな横顔を一睨みした後、私は轟くんに話を振った。

「いや、別に」

轟くんの横顔を横目で見ると、あの赤が私の心を揺さぶった。
そう、この色だ。
極彩色とは違う、どことなく優しく、深みのある赤。
一日に何度も私の頭の中に浮かぶ赤。
私の中に棲みついている、赤。
何度この赤を目で追った事だろう。
何度この赤は私を翻弄した事だろう。
胸がぎゅっ、と音を立てて縮こまったのを感じた。

「轟くんっていつも朝早いよね。」

長い渡り廊下にはたくさんの生徒たちが押し寄せているため、スムーズに列は進まない。
広がる沈黙を少しでも埋めたくて、私は轟くんに言葉を投げた。

「苗字もだろ」

轟くんが私の名前を呼んでくれた。
そんな些細な出来事で、私の中の赤がキラキラと輝いて見えた。
苗字と呼ぶ轟くんの声が、心地よく耳元で反芻される。
あの日から電車の時間は変えていなかった。
私は何度も轟くんと静かな教室の時間を共有していた。

「電車で来てるの?」
「ああ」
「そっか。一緒だ」

朝は教室にいても話しかける事なんてできないのに、今はこうして会話をしている。
いつも轟くんの横顔を眺めるだけの私が、轟くんと話をしている。
憧れの赤色が間近に見ている。
緊張のせいでたどたどしくなる言葉をなるべく自然に聞こえるように意識した。

進みの遅い長い列を、触れる触れないかぐらいの距離感を保ちながら私たちは動く。
会話をしながら精一杯、轟くんの横顔を盗み見た。

轟焦凍。

頭の中で先ほどの相合傘にいれたかった3文字の漢字が浮かぶ。
さっきのノートにこの名前を書けば、私は今みたいに隣を歩けるようになるんだろうか。
こうやって偶然を装ったりせず、何の理由もなく轟くんの隣に肩を並べられるんだろうか。
私の未来の相合傘には、轟くんの名前が宿るのだろうか。

「私の線、結構混むんだよね。轟くんは何線を使ってる……」

色気のない、当たり障りのない会話を振った事を後悔した。
私のでかかった声は行き場を失い、音にならずに喉の奥の方へと沈んでいく。
息をする事さえも忘れてしまった。

私の中の赤が、違う赤に染まっている。

「悪い。何か言ったか?」

私にはわかってしまった。
一瞬にして悟ってしまった。
私の傘には轟くんの名前は宿らない。
そして、轟くんが私を見てくれることはない。
あの朝のように、轟くんの瞳が私を捉え続けてくれることはたぶん、この先ないのだろう、と。

轟くんのまなざしは、遠くのあの人を映していた。

「ううん。何も」

私の中の赤は、はっきりとしたビビットカラーに染まっていた。
頭の中にチラつく目障りにも感じる赤色は、私の胸をえぐるように攻撃しているようにも思えた。

目の前に認めた女の人の輪郭がひどくぼやけて見えた。





昼休憩が終わり、消しゴムを片手にあのノートを開いた。
空席が埋まるのを待ち望んでいる私の名前が、1つ寂しく浮かんでいる。
消しゴムを当てて手を動かそうにも、なぜだかひどく躊躇ってしまう。

きっと、轟くんの眼差しを誰より追っていたのは、私だ。
きっと、轟くんの赤色を誰より追い求めていたのは、私だ。

「轟くん」

誰にも聞こえない程小さな声で、無意識に名前を呼んでいた。

指で相合傘をなぞり、弱い筆圧で愛しい3文字の漢字を縦に並べる。
叶いそうにないおまじないの上に、生温い雨の雫がぽたぽたと零れ落ちた。