「彩海」
彼は私の名前を呼んで、距離を埋める。
まるで割れ物を扱うかのように優しい手つきで私の両肩を掴んだ。
彼の顔が自然と傾き、私もそれに合わせて瞳を閉じる。
唇に彼の吐息がかかり、距離がもう間近に近づいている事がわかった。
「……悪い」
けれど、その距離は一気に離されていく。
彼が私の肩を押し、その反動で目を開ける。
目の前の彼は、少し険しい表情で地面を眺めていた。
「この間も……悪かった」
歯切れの悪い、ぎこちない口調。
予想外の言葉に驚きながらも、ゆっくりと次の言葉を待つ。
「……焦ちゃん?」
何か言いたそうな、歯がゆそうな表情。
ゆっくりと私の肩から手が離れていく。
いつもの彼とは打って変わり、とても自信がなさそうに見える。
「……嫌か?」
「え?」
「俺がお前の事……」
最後まで言い終える前に、彼は口を噤んでしまった。
その俯いている姿は、おばさんの病室の前で躊躇していた時の光景を彷彿させる。
そんなあなたを見ていたら。
「大丈夫」
なんだか、ほっとけはおけないよ。
ああ、まただ。
あの日と同じ感覚。
彼と私の額を重ねる。
互いの熱の温度を確かめるようなその行為は、本当なら恥ずかしくてたまらないはずなのに。
不思議と心は冷静で、すらすらと思う言葉が出てくる。
「焦ちゃんは焦ちゃんだよ。今も昔も変わらない私のヒーロー。そして……」
どうして自分がそんな事をできたのか。
今考えるとすごい事だけど。
重ねていた額をゆっくりと離して。
彼の頬に、そっと触れるだけのキスを落とす。
驚くほど自然に。
気が付いた時には、私の体は動いていた。
「私の……ずっと大好きな人」
彼は驚いて目を見開いていた。
さっきまではあんなに不安そうにしてたのに、なんて思ったら、思わず口元が緩んでしまった。
彼の表情や仕草、その1つ1つがとても愛しい。
胸がこそばゆい。けれど、満たされていく。
「しょ、焦ちゃん!?」
「……情けねえ」
途端に、彼はしゃがみ込んだ。
まるで顔を覆い隠すように、頭を抱えている。
隠れきらなかった彼の耳は、髪と同じぐらいに真っ赤に染まっていた。
初めて見る彼の姿。
また私の胸はきゅう、ときつく締め付けられる。
「焦ちゃん、照れてる?」
「……」
目線を合わせるようにしてしゃがみ込めば、彼は目元だけ覗かせてこちらを睨み付けた。
睨み付けているのに全然迫力のないそのまなざしに、また胸の奥がきゅう、と締め付けられた。
こういう感情を母性というのだろうか。
今まで見た中で一番可愛くて、愛らしい。
彼に言えば怒るだろうから、口にはしないけれど。
「お前でもこういう事、すんだな」
彼はまだ照れを隠しきれない様子で、ぶっきらぼうに言い放った。
こういう事。
彼が差すその言葉に、今さらになって自分のしたことに対しての羞恥心が遅れて襲い掛かる。
一気に頬が熱くなり、彼を見ていられなくて目を背けた。
確かに私、とんでもないことしちゃったかも。
「……やっぱり、迷惑、かな」
彼に触れたい、とか。もっとそばにいたい、とか。
片思いだったころからしたら烏滸がましいような、そんな思いが日に増して強くなっていく。
彼は優しいから、きっとこの思いを知ったら私の気持ちを汲んでくれるだろう。
ひたむきに強くなろうとしている彼の――私の憧れる、一番のヒーローの邪魔はしたくない。
けれどどうやったらこの気持ちを抑えられるのか、今の私にはわからなかった。
「迷惑じゃねえ」
彼は私を引き寄せた。
彼の右手が、私の頭を優しく撫でている。
彼の左手が、私の背中を優しく包み込んでいる。
耳元で囁く彼の声が普段とは違う優しい声音で、目の前がくらくらする。
「焦ちゃん。あのね……」
「もう何も言わなくていい」
「え?」
「お前と俺……多分、思ってる事は一緒だろ」
私はなんて幸せ者なんだろう。
こんなにいい事ばかりで、バチでもあたるんじゃないかな。
でももう少しだけ、この幸せに浸っていたい、なんて。
そんな事を考えている私は欲張りだ。
軽く触れる程度のキスをした後、目が合って思わず私は笑ってしまった。
彼もそれにつられ、口元が綻んでいく。
「花火、しに行くか」
彼は先に立ち上がり、私に手を差し伸べる。
「うん!」
そのたくましく節くれだった手を、私は強く握りしめた。
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