おばさんと彼を2人にしたくて、私はそっと病室を出た。
2人には空白の時間が多すぎる。
それを埋めるには時間がかかるけれど。
今日、やっと1歩を踏み出せたのだ。
「邪魔者は退散しないと、ね」
売店で飲み物を買うと、中庭へと向かった。
天気も良く穏やかな風が吹いているからか、ベンチや車椅子で日向ぼっこしている姿が何人か目に入る。
「あら、あなたはいつも歌を歌っている子ね?」
「は、はい!」
突然話しかけてきた、年配の女性。
目じりの下がった優しい顔立ちのその人は、ストールを肩に掛け直しながらこちらを見ている。
「すみません!そんなに響いているとは思わなくて……」
「いいのよ。とっても素敵な歌声だからつい聞き入ってしまうのよ。入院している人たちの中でもあなたの歌は評判なのよ」
「そんな……ありがとうございます」
面と向かって褒められると少し恥ずかしい気もするけれど、嬉しいものだ。
「あなた雄英の子なんでしょう?えっと……」
「奏出です。奏出彩海です」
「そうそう。人魚の子よね?」
「は、はい」
「ねえ奏出さん。1曲、ここで歌ってもらえないかしら。息子に聞かせてあげてほしいの」
すると女性は振り向いて、遠くの方に向かって手招きをした。
それに反応した男性は、車椅子を看護師さんに押してもらいながらこちらに向かってきている。
「息子はあなたの歌声が大好きなの」
女性は優しく私に微笑みかける。
その笑顔はとても綺麗だけど、どこか悲しそうにも見えた。
そんな表情を見ていたら、断るなんてとても出来なかった。
「……私なんかの歌でよければ」
「本当?ありがとう!」
私は目を閉じ、大きく深呼吸をした。
風が頬を撫でるように優しく触れる。
「――――…………」
ふいに口ずさんだこの歌は、久しく奏でなかったメロディー。
幼い頃は毎日と言っていいほど歌っていた歌だ。
「――――――………………――――――………………」
彼がおじさんの特訓から逃げてきた時、いつも歌っていた歌。
おばさんが一番好きと言ってくれた歌だ。
それをどうして今、こうして歌おうと思ったんだろう。
ああ、そうか。
2人が話す姿を見たら、あの懐かしい日々を思い出したからだ。
知らず知らずに感化されたいたらしい。
「ありがとう、彩海ちゃん。今まで私たちを支えてくれて、ありがとう……」
おばさんは焦ちゃんを連れてきた私に、涙ながらに言った。
そして話す2人を見て、思った。
私の役目は終わったんだ。
もうおばさんは私の歌を求めることはないだろう。
彼が来たことで。彼が進みだしたことで。
私の歌なんかに縋らなくても、同じように少しずつ進みだせるはず。
"王子様と結ばれなかった人魚姫は、空気の精となって消えてしまったのです。"
出かける前に呼んでいた人魚姫のラストページ。
その一文が脳内でぼんやりと、けれど色濃く浮かんでいる。
「奏出さん、大丈夫?」
「え?」
「涙が出てるわよ」
女性に指摘されて頬に触れれば、1粒の水滴が手を伝った。
「ああ、すいません。無意識に息んじゃったみたいです」
ああ、そうか。
こんなにも風を心地よく感じるのは。
刻々と、その日が近づいている証拠なのかもしれない。
wear away
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