あの日、おばさんはいつも以上に情緒不安定だった。

「おばさーん!回覧板持ってきたよー!」

母に頼まれ、私は回覧板を轟家に届けにきていた。
いつもなら誰かしら出てきてくれるはずなのに、家の中は静まり返っていた。

「留守なのかな?」

しかし聞き耳を立てると、わずかに小さな誰かの声が聞こえてくる。
どうやらキッチンの方からのようだ。

「お邪魔しまーす……」

いけないと思いながらも、何かに招かれるかのように家に上り込んだ。
キッチンからは明かりが廊下に向かって伸びている。

「すみません、彩海です。回覧板を持ってきたんだけど……」

目の前の信じられない光景に、思わず手元から回覧板を落とした。

「あつい……あつい……!!」

床に蹲る彼の姿。
そして右手に薬缶を持ち、茫然と佇んでいるおばさん。
何が起こったかなど、容易に予想が出来た。

「焦ちゃん!」

私は急いで彼の許へ駆け寄る。
個性を使い、彼の左顔に水泡を作り出した。
苦痛の表情が少しだけ和らいでいく。

「おばさん!氷を出して!」
「どうして邪魔をするの……?」

おばさんの身体は小刻みに震えていた。
恐怖におののくような、切迫した表情で薬缶を握りしめている。

「私はその子をこれ以上育ててはいけないの!!!」

咄嗟に彼を突き飛ばす。
残り湯は私の右肩に降りかかり、尋常じゃない熱感と疼痛が走った。

「おばさん落ち着いて。ここにいるのはおじさんじゃないよ。焦ちゃんだよ」

私の言葉に、おばさんはその場に崩れ落ちて放心状態になった。
そのあとは騒ぎに気付いた冬美さんがおじさんを呼んで、すぐに病院へと連れて行ってくれた。

「その肩……彩海ちゃん、どうかしたの?」

数日後、入院したおばさんのところへお見舞いに行くと、私に煮え湯を浴びせたことだけが綺麗に記憶から抜け落ちていた。
きっとあまりにも苦しいことが多すぎて、すべてを記憶に留めきれなかったのだと思った。

「彩海ちゃん。残念だけど、この傷はきっと跡が残ります」

医者に言われた一言に、父と母が辛そうに顔を歪めていたのを覚えている。

「しょうがないよ。でも、おじさんや焦ちゃんには治ったって言うね」
「どうして?」
「これ以上、焦ちゃんたちの悲しい顔は見たくないから」

この傷を見て彼らが罪悪感に駆られてしまうのであれば、私だけの秘め事にすればいい。
私の願いに、両親も承諾してくれたのだった。

それが今回の事件で彼らの知るところになってしまうなんて。


「……顔を上げてください。炎司さんも、焦凍も」

父は穏やかな口調で呟く。
その声に2人はゆっくりと頭を上げた。

「こちらも治ったと嘘をついていたんだ。お互い様でしょう」
「しかし、大事な娘さんを傷物に……」
「何言ってんすか。彩海はヒーローを目指してんだ。こんな傷の1つや2つで騒いでたら、務まりませんよ。そうでしょ?」

おじさんは押し黙った。
互いにヒーローを務めているからこそ、伝わる何かがあるのだろう。

「それに謝罪をしたいのはこちらの方です。彩海のせいで結果的に奥さんも危険に晒してしまった。本当に申し訳ありませんでした」

今度は私の両親が深く頭を下げた。
それに倣うように私も同じく頭を下げる。
病室に走るきまずい雰囲気を破ったのは、母の声だった。

「あなた。ちょっといいかしら?」
「あ?ああ」
「炎司さん、焦凍くん。いつも彩海を守ってくれて、本当にありがとう」

その言葉に、おじさんと彼はキツネにつままれたような顔をした。

「突然、何を……」
「謝ってばかりじゃあきりがないでしょ。だから、お礼を言おうと思って」

母のマイペースぶりに、おじさんは困ったように眉を下げて表情を和らげた。
そしてゆっくりと私の元へと近づいてくる。

「彩海。これからも焦凍をよろしく頼む。そして、卒業したら俺のところへ来い。焦凍と2人、手塩にかけて鍛えてやる」
「はい、ありがとうございます!」

おじさんの笑顔に、私はつられて笑う。
先ほどまでの張りつめていた空気がまるで嘘みたいだ。

「では、そろそろ失礼します。焦凍、お前はどうする」
「もう少しここにいる」
「あまり長居をするなよ」

おじさんが病室を去っていく。
その背中は、あの日の彼を彷彿とさせる逞しい背中だった。



amicable settlement

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