02


無事自室にたどり着いたわたしは、汗もかいたことだしお風呂へ向かった。血でべとべとになった服だけ先に脱いで部屋の隅にこっそり隠し、テキトーなパーカーを羽織る。あの血、洗って取れたらいいんだけど厳しいかなあ·····まあこんなことがあっても大丈夫なようにいつも安売りのTシャツ着て戦ってるからいいんだけどさ·····。
浴室に行く途中で夢乃に無事にバケモノ退治を終えたことを告げるとありがとうと何度も言われたから頭を撫でてやる。お母さんはやっぱりテレビを見ていたからわたしがいなくなっていることに気づいてはいないはずだ。ふう、となんだかようやく肩の荷が降りたような心地になった。

今日はいろんなことがあったな。振り返りながらわたしは脱衣場で服に手をかける。実力テストだけでもけっこう疲れていたのにその上バケモノ退治。いや、バケモノは化け物じゃなくて呪霊という名前だった。それを知っただけでなく、伏黒くんとの共闘とか五条さんとの出会いとか。本当に本当にいろんなことがあったなー。
服を脱いだわたしはガラリと音を立てて浴室の扉を開き中に入る。もくもくと立ち上る湯気の中に足を踏み入れ、シャワーを捻って温度を確認した。まだ冷たい。

·····呪霊、呪術師、呪霊操術。知らないことだらけだった。
でもこれから五条さんに稽古をつけてもらうことになったのは本当によかった。もし今日出会えていなければ、これからもわたしはずっとひとりでがむしゃらに呪霊を祓っていただろうから。そんなことを考えているうちにシャワーが適温になったので、頭から被る。ザァア、と音が響いた。

どれくらい五条さんに稽古をつけてもらうことになるのか、人の任務に付き添うことになるのかは不明だけど·····空手はやめようかな。あたたかいお湯に打たれながらそんなことを考える。けっこう楽しんでいたけれど、わたしがあれを習っていたのは結局あのバケモノと戦うためだ。五条さんに見てもらって、対呪霊の戦い方をもっとちゃんと覚えたほうがいいんだろう。
でもお母さんになんて言ってやめようかなあ。受験勉強に打ち込むためとか? もう中三だしなー。っていうか中三かー。

志望校的なところは一応なくはないけれど、それは自分の希望要項と成績からなんとなくアタリをつけているだけで別に熱望しているわけではない。それこそちゃんと力をつけたいなら、伏黒くんみたいに呪術高専に行くことを視野にいれるべきじゃないのかな·····。って、それこそお母さんにどう説明するんだって話なんだけど。


「まあ、稽古つけてもらいながらゆっくり考えるか·····」

そう呟いてわたしは体を洗っていく。突然いろんなことを知ってしまったからかなんだか気持ちが急いてしまうなあ。落ち着かなきゃ、と自分に言い聞かせながら体や髪を洗う。そしてシャワーで流してキュッと栓を閉めたところでふと思った。


(五条さんの知り合いの呪霊操術が使えるひと、ちょっと遠いところに行っちゃったって言ってたけど·····もしかして死んじゃったとかだったりするのかな)


有り得るよな。敵が敵だし、たぶんわたしが相手にしてきた呪霊より強いやつっていっぱいいるんだろうし。

そう思うとなんだか悪いことをしたな、と申し訳なくなった。いや実際のところはどうかわからないけど·····その人の話をしてからの五条さんは少し様子がおかしかったから、当たっていなかったとしてもそんなに遠くはない気がする。仕事でしばらくいないとかって感じの言い方でもなかったし。

やっちゃったかなー、自分と同じ力を持ってるひとの存在に興奮してはしゃぎすぎてしまった。悪いことしちゃったかも·····。いやわかんないけど。


泡を流し終えたわたしは浴槽に入った。ちゃぽんと湯船に体を沈める。あったかい、きもちいい、疲れが取れる、また日本に生まれてよかった。·····当時のわたしが知らなかっただけで、元の世界にも呪霊はいたのだろうか。身を呈して守ってくれていた誰かのおかげで、わたしは穏やかに歳を取ることができたのだろうか。

·····だとしたらこういうのは順番だと思う。前世のわたしは幸せに生きたから、今世は誰かをちゃんと幸せにしたいな。ぼーっと浴室の天井を見上げてそんなことを考える。
呪術高専·····。その存在を知ってしまったら、その道に進むことこそ正解な気がしてしまう。でも本当、親にどう言ったらいいんだろう。お父さんはともかくお母さん、そういう目に見えないものの存在とかすごい嫌がるからなあ·····。そんなことを考えているうちに体がだいぶ熱くなってきた。このままじゃ逆上せるな、とわたしは立ち上がり湯船からでるのであった。




















────その日、わたしは夢を見た。


男のひとが黒くて丸い玉を持っている夢。·····そう、その玉はわたしも散々見慣れたそれだ。呪霊を取り込む際に、あいつらが形を変える玉。あ、と思うよりも前にその男性はそれを口元へ運ぶ。

··········飲み込んだ。


その男性の顔はもやがかっていてよく見えない。どんな表情をしているのかもわからない。
けれども何故かその男性にひどく既視感を覚えた。

この人を知っている。わたしはこの人を知っている。


そう、そうだ、わたしはこの人がいたから。

呪霊は飲み込むものなんだって、そう覚えたんだ────






「名前ー! 朝よー、起きなさーい!!」
「んん·····」
「名前! アンタ学校始まって早々遅刻するつもり?」
「んーーー·····いま起きるぅ·····」

リビングの方からするお母さんの大声に重い瞼を上げたわたしはもぞもぞと布団の中で身動ぎをした。·····なんだ、あの夢。なんか変な夢だったな。呪霊玉を飲み込む男のひとの夢? なんでこんなに気になるんだろう·····。

そう思いながら布団の中でぼーっと瞬きをしていると、なかなか起きてこないわたしに痺れを切らしたらしいお母さんがガチャリと扉を開けた。


「こら! 起きなさいって言ってるでしょ」
「起きてますぅ〜·····」
「起きれてない!」

ほらはやく出てきなさい、と布団を引っ張られてわたしはぶるりと身震いをした。いままであったかかったのが急に寒くなるのは反則だよう·····。

まあでもいい歳していつまでもお母さんに迷惑かけれないしね、と起き上がる。まあそう思ってるならはやく起きろという話なんだけど、寝汚いのはどうしようもない性質なので仕方ない。

うーんと伸びをしていると、やっと起きたわねと母がため息をついた。じゃあ夢乃も起こしてくるから、と出ていこうとする母。いつもはそれをただ見守るだけなのに、なぜか今日ばかりは引き止めてしまった。

「待って」
「なに?」

お母さんがきょとんとした顔で振り返る。あ、呼び止めちゃった。たいしたことじゃないのに寝ぼけてるのかな·····。そう思いながらもわたしは続ける。

「あ、あー·····いや。なんか今日変な夢見てさ」
「変な夢?」

こちらを向いた母親は娘から突拍子もないことを言われて怪訝な顔をした。まあ当然だ。自分でもなに言ってんだろう·····と若干後悔しながら、出かかった言葉を引っ込めるのもおかしいかとそのまま話す。


「うん。なんか、背の高い男のひとの夢·····髪の毛をお団子にまとめてて前髪が変? なんか一房垂れててさ、それからガタイが良くて·····そういえばおっきいピアスつけてたような?」
「!」
「なーんか昔会ったことあるような気がするんだけど思い出せなくて·····お母さん知らないよね?」


いや知るわけないか。そう思いながらも聞いたわたしに、お母さんは少しだけ間を置いたあと淡々と答えた。


「さあ、知らないわ。それより早く支度しなさい」

本当に遅刻するわよ、そう言われてわたしははーいと立ち上がる。·····なんでこんなに気になるんだろう、あの男のひとのこと。
























「あ、伏黒くん! おっはよ〜!!」
「おー」

そして無事に家を出て通学路を歩いていると、交差点の向こう側に伏黒くんを見つけたのでちょっと走って声をかけてみた。今までなら絶対そんなことしなかったけど、もう伏黒くんはそのへんの友達よりも深い関係だからね! まあわたしが勝手に思ってるだけかもしれないけど!!!!!


「お前朝から元気だな。もう体は大丈夫か」
「あはは、昨日もピンピンしてるって言ったじゃん! 伏黒くんは心配性だねえ」
「別にそんなんじゃねえ」

ツーンと素っ気なく返されてしまったが、これが彼の照れ隠しみたいなものだともうわかっているわたしは特に気にせずにこにこする。そしてちょうどよかった、とカバンのポッケに入れて置いたグミとチョコレートを取り出した。


「そうだこれ、消しゴムのお返し!」
「·····別にいいって言ってんのに」
「いやそれがこれ美味しいから食べてみてよ! どうぞどうぞ」
「おいいま開けんのかよ」

ええまあ、と言いながらわたしはグミの小袋を開ける。おてて出して、と言ったらしぶしぶ伏黒くんが左手を差し出してくれたのでわたしはそこにふたつオレンジ色に輝くグミを出した。


「これねー、中になんかにゅるってしたやつが入ってて美味しいんだよ〜」
「ふーん」

そう言いながらわたしも指でつまむ。伏黒くんも同時に食べてくれた。口の中に甘酸っぱいオレンジの味を感じて、噛むとにゅるっが出てくる。やっぱりおいしい。

「どう? おいしい?」
「普通」
「普通かー」

残念、ホームランとは行かなくてもせめてヒットくらい出したかったなーと思いながらわたしはもうひとつ食べた。伏黒くんも口の中の分がなくなったようで手の中に残っていた分を口に入れる。

「·····でもこれ妙にクセになるな」
「あ、でしょー? やったーわかってくれた! もっとあげるね」
「別にいい」
「いいからいいから」
「··········」

笑顔で袋を構えると伏黒くんはまたやれやれといった感じで手を出してくれたので3つ追加した。こんなふうにお菓子を食べながら伏黒くんと登校するようになるなんて思ってなかったから不思議な感じである。

人生なにが起こるかわからないなあなんて思いながらもきゅもきゅ食べていると、伏黒くんがおもむろに口を開いた。


「·····昨日あの後なに話したんだ?」
「ん? 五条さんと?」
「ああ」

オレンジ色のグミを口へ運ぶ伏黒くん。指、細長くて綺麗だなー、なんて思いながらわたしは昨日のことを思い返す。

「んー、タマちゃんの話とか呪霊操術の話とか? 稽古もつけるけどそれよりいろんなひとの任務についていって呪霊ひょいぱくした方が強くなれるって言われた」
「ひょいぱくってそんなグミみたいな·····」

引き気味でそう呟いたあと、いやあの人なら言うな·····と伏黒くんはため息をついた。あはは、とわたしは苦笑する。

「なんかでもいい人だね、五条さん。優しくてちょっと心配性で」

話しやすくて素敵な先生だった。にこにこしながらそう言う。すると伏黒くんは突然立ち止まった。
どうしたんだろう、と彼の方を見ると·····なぜだかものすごいものを見るような顔で凝視している。

「·····は?」
「え?」
「·····それ誰の話だ」
「え、五条さん」
「は?」
「えっ」

何!? ものすごい眉間にシワを寄せる伏黒くんにわたしはびっくりする。な、なに!? わたしそんな変なこと言った!?
伏黒くんは信じらんねーとでも言うかのようにわたしの顔をもう一度見たあと、てくてくと歩き始めた。わたしも慌ててそれに続く。


「·····あの人のこと、そんなふうに言うのたぶんこの世にお前だけだぞ」
「えーーーー? うっそだあ、すごい優しくてびっくりしちゃったよ? やっぱ先生だからいろいろ心配してくれてるのかなって思ったんだけど·····」
「本当に昨日苗字は五条先生と帰ったんだよな·····?」
「えっなに、そんなにやばい人なのあのひと」
「やばいっていうかなんて言うか·····」

自由というか勝手というか軽薄というか·····。と伏黒くんが続けたので思わず笑ってしまった。まあそれはわからんでもない。

そしてそんな話をしていたら突然ブブッとバイブ音が鳴った。伏黒くんがポケットから携帯を取り出す。


「·····噂をすれば五条先生だ。今日の放課後稽古つけるからお前も連れてこいって」
「わ、さっそくだね! 了解。あっもう伏黒くんグミないね」
「いやもう別にいらな·····」
「はい手を出す!」
「··········」

袋を構えると伏黒くんはハァ、とため息をつきながらまた左手を出してくれたのでわたしはそこにグミをぽとぽとと落とした。食べ終わったらチョコもいる? と聞いたら朝からそんなに甘いものばっか食えるかと言われたので放課後に分けてあげようとわたしは勝手に心の中で決める。

伏黒くんの手の中のオレンジは太陽の光を受けてきらきらと輝く。あたたかい春の日、ひこうき雲は端から少しずつ消えていった。
五条さんとの修行、どんな感じになるんだろう。未知のものへの緊張半分、楽しみ半分のままわたしは伏黒くんと教室まで一緒に歩くのだった。あの一匹狼伏黒くんが突然女子とお菓子を分け合いながら一緒に登校しているのが一瞬で噂になったのは·····また別の話である。


春陽