03

それからあっという間にまた日々は流れて、ついに明日は旧◾◾村での任務当日。·····傑が、離反する日だ。
夜蛾先生に予めお願いして任務地を調整してもらい、旧◾◾村に向かうのはわたしになっている。代わりに傑はわたしが当時ついていた任務を担当することになっていた。あれはなんてことのない一般的な任務だったから、きっとそこに行ったところで離反のきっかけにはならないと思う。

でも、旧◾◾村でいったい何が起こるんだろうか。それとも何も起こらず、ただ単純に傑の気持ちが弾けただけなんだろうか。そうだとしたら旧◾◾村になんか行かず、ずっとそばにいた方が·····そんな考えがいまさらまたぐるぐる回って、わたしは朝からどうにも授業に集中できずにいる。


いまは一般教養の、国語の授業時間だ。この時間は誰も任務に当たっておらず、みんなぼーっと教員免許を持ってる窓が教えてくれる古文を眺めている。
悟が隠しもせず大きなあくびをした。傑は退屈そうにしながらもとりあえずノートを取っている。硝子はノートの隅にラクガキをしていた。わたしはただ窓の外を見つめる。

·····本当に、これで。傑を引き止めることはできるんだろうか。
何度目かわからない問が脳内を占拠する。小さくため息をつきながらカチカチとシャー芯を出した。

そのとき、ガラリと音がして扉が開く。振り返ると、そこには焦りの色を顔に滲ませた夜蛾先生の姿があった。

「授業中にスマン。悟、緊急で任務についてほしい」
「俺?」
「ああ。七海と灰原が任務から二日経っても帰ってこない、連絡もつかない」
「!」

その言葉にわたしは目を見開く。·····うそ、そんな、もしかして。
あの日わたしはふたりを助けたけれど、運命というものはやっぱりそう簡単に変えられるものではなくて。ちょっと足掻いたくらいじゃ、帳尻を合わせるように。なかったことにされてしまうんだろうか。

「へーい」
「補助監督が下で待っているから合流してくれ」
「了解」

それを聞いた五条は傑に俺の荷物部屋に持って行っといてー、とだけ言って教室を出るため扉のほうへ向かう。そんな彼の姿を見た傑は夜蛾先生に聞いた。

「悟だけで大丈夫ですか? 私も行きましょうか」

その言葉に夜蛾先生は少し考えるような素振りをしたあと軽く返事をする。

「今年は忙しいし一つの案件に特級を二人派遣したくないんだ。まあ悟がいればどんな呪霊でも問題ないだろう」

だって、最強だから。

先生はもちろんそんなことは言わなかったけれど、もはや共通認識として五条は呪術界で飛び抜けていた。傑はそうですか、と返した後五条に向かって「荷物は任せて。気をつけて行ってこいよ」と言った。五条はおう、と軽く手を振る。

ふたりが教室の外へ出た。ピシャリと音を立てて扉が閉まる。古文担当の窓が、「では続きを·····」と声をかけた。先ほどまでと全く変わらない面白味のない授業が続けられる。

こんな退屈な授業の中で考え事をするなというほうが難しい。


横目で見た傑は相変わらずペンをノートの上で走らせていた。頬杖をついているから、表情がいまひとつ見えない。·····君はいま何を思っているの。わたしはもう何もかもが怖いよ。

灰原は死ぬんだろうか。
もう死んでいるんだろうか。
七海がボロボロになって呪術師を辞めるのをまた見るはめになるんだろうか。

君は結局いなくなるんだろうか。
また、いなくなるんだろうか。


「思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり·····えー、これは道因法師が詠んだもので·····」

淡々と続く短歌の説明。わたしはそれを聞きながら、ぼーっと窓の外を見ていた。また雨が降りそうである。五条傘持ってないよね? あーでも五条は無限があるから大丈夫か。便利だよなあ。便利···············。

·····五条。
もしも同じ未来を辿ることになったら。

次はわたしが傑を殺すよ。いや、なんならいま殺してしまったほうがよかったりするのかな。

なんにせよ、アンタに二回も傑を手にかけさせたりしない。過去に戻っても何も出来ないのだとしたら、後始末はちゃんとわたしがつけるから。

·····ねえ五条、わたしはさあ。アンタと笑う傑とか、硝子と笑う傑とか、わたしの隣で笑う傑をずっと見ていたいだけなのに。

どうしてそれがこんなにも、難しいんだろうね。



















結局その日は五条も七海も灰原も帰ってこなかった。

「あしたの朝になっても連絡がつかなかったら私も行くことになったよ」
「そっか·····」

記憶の限りこんなことはなかったはずだ。わたしがタイムスリップしたことで歪に運命が変えられていたらどうしよう。
灰原だけでなく七海や五条·····それにもしかして、傑もその任務で死んでしまったら。

そんな心配が顔に滲んでいたんだろう。傑はぽん、と大きくてあたたかい手をわたしの頭に乗せてくれた。

「·····大丈夫だよ。多分時間が歪む系の結界にでも当たったんじゃないかな。前にもあっただろう? ほら、冥さん達が巻き込まれてたやつ。悟が帳下ろし忘れて叱られてさ」
「·····あったね、そんなこと」

懐かしい。あの日に、戻れたらいいのに。
君の隣に帰ってきてなおそんなことを願ってしまうわたしは強欲だ。·····いや違うな、怯えているんだ。本当にほしいのは君との未来なのに。

思わず傑に抱きつく。すぅ、と彼の匂いを肺いっぱいに吸い込む。·····いなくならないでほしいと言えば君は頷いてくれるだろうか。それとももしかしてもう既に、離反の準備は終わっているんだろうか。


「なんだか名前、最近甘えたさんだね。どうしたの」
「んー·····」
「·····きょうも泊まっていく?」
「うん·····」

すり、と頬ずりすると傑は優しく笑う。·····心の底から笑えなかった、その言葉が頭の中をリフレインする。


·····大丈夫、大丈夫、大丈夫だ。
あしたの任務が終わって高専に帰ってきたら、きっといつも通りの君がいる。

これが最後なわけがない。灰原だってきっと生きてるし、わたしの知らないハッピーな未来がちゃんと続いていくはず。·····そう自分に言い聞かせながら、傑の部屋へと向かった。


















先にシャワーを浴びさせてもらったわたしは、濡れた髪をタオルドライしながら傑のベッドに腰掛けた。髪の毛はあとで傑に乾かしてもらう。昔はなんだかそれが当たり前みたいに思っていたけれど、いま改めて考えたら本当に甘やかされていたんだなあとため息をつく。
·····甘やかすだけ甘やかしていなくなるなんて、つくづくひどい男だよなあ。

待っているあいだの時間を潰すため携帯でも触ろうか。そう思ってベッドサイドチェストに置いてあった携帯に手を伸ばす。そこでぴた、と手を止めた。

この棚には、コンドームが入っている。


「··········」


ふと、数日前に頭をもたげた馬鹿げた考えがぶり返す。もしも子供ができたら·····傑との間に子供がいたら··········。
君はあんな馬鹿みたいなことやめて、わたしのそばにいてはくれないだろうか。

いやいや、とわたしは首を振る。両親さえ手にかけた傑だ。まじめだし責任感も強いけれどああなった。もしも離反の準備が終わっていたとしたら、わたしに子供ができたところでそれをやめる理由にはならないだろう。

でも、とわたしの中で悪魔が囁く。
もしも未来を変えることが不可能だったとして。灰原は死ぬし傑はいなくなっていつか五条に殺される運命なのだとして。わたしは同じ十年をまた繰り返すことができるのだろうか。·····また君の影を求めて、ただ息をするだけの、十年。

なんて地獄だ、と思った。


途方もない苦しみに絶望して天を仰ぐ。そのとき目に入ったのは、このタイムスリップが夢じゃないと確信したときにも見つめたカレンダーだった。
ごくりと唾を飲む。そのカレンダーを止めている画びょうに手を伸ばす。

何をやっているんだ、と冷静な自分が言っている。いまのわたしは学生だ。子供を作ってどうするんだ? いやそもそも未来が変わらないなら子供を身篭ることもないだろう。
それにもし万が一妊娠できたとしても、傑がいなくなった後にわかるんだ。そんなことに意味があるのか。意味。意味が、あるのか·····。意味?

·····それこそわたしの生きてきた十年に意味なんてなかった。
ただ呪霊を祓うだけ。ただ仲間を失いゆくだけ。ただただ君の影を追い求めて、結局その君は親友に殺された。

せめてひとつでも救いがあれば、そこに縋って生きていける?
こんなこと考えるような人間が、親になんてなったらいけないってわかっているけれど。

わたしは引き出しを開き、コンドームの箱を開ける。いちばん前にあった四角い小包をつまんで、そこに画びょうを通した。
ぐい、と力を込めるとぷす、と気の抜けたような音がする。

それをわたしは手早くしまって、画びょうも元の位置に戻した。カレンダーもずれていない。大丈夫、きっとバレない。
バクバクと心臓が鳴ってうるさい。脇に嫌な汗をかいてきた。これから傑に抱かれるのに。

引き出しを閉めて、まるであたかもずっとそうしていたかのように携帯を手に取りベッドに腰掛け直す。傑が風呂を終えて扉を開ける音が、静かな部屋でやけに響いた。

もしも未来が変わらないなら、こんな些末な抵抗にも意味は無いのだろう。それでも試すことができるなら、それだけでいいとそう思った。




















「えっ!?」

セックスのあと、傑が自身を引き抜いてから素っ頓狂な声を上げた。わたしはやっぱバレちゃうよなあ、と思いながら気だるい体を起こしてどうしたのと聞く。
まあ、どうしたもこうしたもない。今まで知らなかった初めての感覚、君の熱が直接胎内に注がれるのにわたしは打ち震えたのだから。

「ゴムに穴でもあいてたみたいだ。私のが漏れてる」
「え、うそ」
「本当。ごめんね、気づかなかった」

傑は労わるような声を出しながらティッシュを取ってくれた。その様子が本当に申し訳なさそうで、良心が痛む。

「アフターピルを飲んでもらうのがいいかな·····。本当にごめんね、明日の朝イチで病院まで送っていくよ。そのあと私は任務に向かうけど、一人で大丈夫かい? ああでも副作用が強いって聞いたことがあるな·····」
「·····え」

まさかこの時代の高校生男子からそんな提案をされると思っていなかったわたしは面食らう。·····いや、そうだ。そういうやつだった、傑は。

そういうところも、好きだった。


「いいよめんどくさいし。夜からだけど任務あるから副作用出たら困るしね」
「だめだよ、何があるかわからないし早く飲まないと効果が薄れる」
「·····よく知ってるねー」
「そりゃこういうことをする以上知識はないといけないだろう」

いやまあ、おっしゃる通りなんですが。まさかこんなにしっかり対応されると思っていなかったのでちょっと驚きが隠せない。

「·····大丈夫だよ。きょう多分そんなに危なくないから」
「安全日なんて存在しないと思った方がいいよ。中に出してしまった以上確率は0じゃないし」
「···············」
「·····ていうか名前、前回の生理から考えるとむしろ危なくないか?」
「よく覚えてんね·····」

まあそりゃ覚えるか·····。毎日一緒にいるし、生理じゃない日はけっこう頻繁にヤッてるもんな·····。
しかしまさかこんなに食い下がられるとは思わなかった。どうしたもんか、と考えていると傑はそんなわたしを不審に思ったようで。

「·····そんなに面倒かい? むしろ今までの君なら何かあったら困るって今すぐにでも処方してくれそうな病院を探しそうなもんだけど」
「えー? いやー、散々ヤッたあとでいまそんな元気が·····」
「なにか隠してる?」

へらりと笑って言うと、傑にじっと見つめられた。·····ああ、困ったなあ。余分に歳だけ取ったのに、君の前ではウソがつけない。


「·····もしかしてゴムに穴開けた?」
「···············そんなことするわけないじゃん」
「それ、私の目を見て言えるかい。名前」
「···············」
「なんで」

ああ、傑怒ってるな。そりゃまあ怒るか、怒るよなあ。背が高い分座高もある傑に見下ろされて居心地が悪い。ごまかせないな、とため息をついた。


「·····別に。ちょっとした出来心」
「出来心でするようなことじゃないだろう」
「ん。·····ごめん」
「···············」

素直に謝ると傑はガリガリと頭を掻く。そんな彼の顔を見れなくて、わたしは自分の手元に視線を落とした。するとゴツゴツした無骨な手が重ねられる。


「·····何かあった? 最近変だよ」
「··········」
「黙っていたらわからないだろう。何か心配なことでもあるの」

あるよ。それはもう、たくさん、たくさん。

吐き出してしまえば楽になるのだろうか。あなたが呪詛師になるのが怖い、わたしを置いていなくなるのが怖い、27歳なんて若さで死んでしまうのが怖いと。
すがりついて泣いたら世界は変わるだろうか。·····でももしも君の離反が突発的なものだった場合、未来について話すのはある種の解を与えてしまうことになる。

それがわたしはいやで。·····怖くて。

うまく言葉が見つからなくて唇を噛み締める。傑は深くため息をついた。


「·····こんな馬鹿げたことをして何になるっていうんだ。もしこれで本当に子供ができたとして、君は心から喜べるのかい」
「···············ごめん」

でも、最初に馬鹿なことをしたのは君なんだよ。君はまだ、知らないんだろうけど。


「·····別にこんなことしなくても、名前から離れたりしないよ。というかなにかそんなに不安にさせるようなことがあったかな? ぜんぜん思い当たらないんだけど」


君はきっといま本心からそう思ってくれているんだろう。わたしが固く握った拳を優しくなぞる指だとか、困ったような声色、途方に暮れる息遣い。それらすべてがぜんぶ、いまはちゃんとわたしに向けられているのに。

そう思った瞬間、ぼたぼたと涙が零れた。
きっとそれすら想定内だった傑がわたしの髪を撫でる。

ねえ、いつだって。わたしのことをいちばん知っているのはあなただったのに。


どうしてわたしを捨てていなくなってしまったの。どうしてわたしも連れて行ってはくれなかったの。

君が心から笑えない世界ならわたしだって潰してしまいたかった。誰が死んでも君だけは、そばで笑っててほしかった。


「·····すぐる」
「うん」
「どこにもいかないで」
「·····行かないよ」
「ずっと·····そばに、いて·····」
「当たり前だろう」
「どこかに行くなら、連れてって·····」
「·····うん」

わかったから、明日はちゃんと病院に行こうね。そう言って傑はわたしを抱きしめた。こんなときでもわたしを甘やかす傑が大嫌いだ。

·····嫌いになれたらどれほど。どれほどよかったのだろうか。


君の優しさが世界でいちばん残酷な嘘に変わりませんように。わたしはそう願いながら、傑の腕の中で眠った。

どうか明日も明後日も、このなんでもない日常が続いてくれますように。