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記録─────2017年4月埼玉

窓である苗字飴花と配偶者である苗字夢弥、そして娘の苗字夢乃が自宅軒先で倒れているところを隣人が発見。苗字夢弥は死亡、苗字飴花と苗字夢乃は昏睡状態。案件◾◾の新たな被呪者と見られるが、死者が出たのは今回が初。原因究明にあたっているが未だ死因は判明していない。
苗字飴花にはもう一人苗字名前という娘がおり、事件発生時は別行動。苗字名前は前日同案件の被呪者となった伏黒津美紀の義理の弟、伏黒恵の同級生であり、共に東京都立呪術高等専門学校教員五条悟の指導を受けている。案件◾◾の被害は全国に渡るが、呪術高等専門学校関係者が連続して襲われるのは初めて。苗字名前、伏黒恵の二人には任意にて聴取が行われる。担当は五条悟。





















「そうなんですか·····伏黒くんのお姉さんも·····」
「うん。·····ごめんね、突発的なものじゃなくて全国規模で何件も起こっているのに解決できていなくて」
「五条さんが謝ることじゃないですよ」

父が死んだ。
母も妹も意識が戻らないけれど、通夜というものは執り行わないといけないらしい。いったいこれは誰のために開くのだろうか。叔母や叔父、祖母が慌ただしく動き回るのを見つめながらわたしはそんなことを考えていた。
あの大会の日、本来であれば来るはずであった時間に家族は誰も来ず、代わりにわたしが受け取ったのは人生最悪の報せを寄越す病院からの電話だった。結局一戦もしないまま、わたしの空手人生は終わった。慰めの言葉や励ましは、まるで手から砂が零れるかのようにするするとわたしの耳を通り過ぎてどこかへ消えてしまう。涙は出なかった。いまひとつまだ実感がわかない。

通夜が終わりに差し掛かった頃、五条さんがお焼香をあげに来てくれた。隠してると変に思われるからね、と目元の包帯を外して来てくれた五条さんはびっくりするくらい顔が整っていて思わず三度見してしまった。見知った顔が暗い声でわたしに話しかけていく中、やってきた五条さんはあんまりにも美しかった。他の参列者もみんな五条さんを見てびっくりしていたから、なんだかそれが可笑しくなって少しだけ笑った。訃報を聞かされてから、笑ったのは初めてかもしれないなと心の中で思った。

通夜が終わったあと、わたしは外で待っていてくれた五条さんと少しだけ話すことにした。


「今回は本当にお気の毒だったね。·····これからの生活はどうなりそう?」
「叔父と叔母がわたしのことを引き取ってくれようとしたんですけど、学校が遠くなるし中三で転校するのも面倒だからそのまま今の家に住み続けるつもりでいます。幸い、父が結構な額の保険金を掛けてくれていたみたいで生活には困らなそうです。母の分もあるし」
「そうか」

病院に駆けつけて父の遺体を確認し、ベッドに横たわる母と妹を呆然としながら見ていた時に補助監督を名乗るひとがやってきた。その際既に今回の事故は呪いによるものだと聞かされている。だから五条さんに改めて今回の事件が全国的に続いているものであることだとか、呪いに心当たりはないかなどの質問をされた際も特に動じず話をすることはできた。最も、わたしにはなんの心当たりもなかったんだけれど。
ある程度話し終えたところで五条さんはぽん、とわたしの頭を撫でて教えてくれてありがとう、と言った。この人の手は身長に比例して大きくてあたたかいなあ、と思う。

「·····辛いだろうけど、何かあったらいつでも頼ってくれていいからね。君にも休みが必要だと思うし、修行や任務は始めたくなってからでいいから」

大変な時に来ちゃって根掘り葉掘り聞いてごめんね、と五条さんは少し申し訳なさそうに言う。これで帰るつもりなんだろう。それを見てわたしは慌てて口を開いた。


「·····あの、わたしの母って、高専の関係者だったんですか」

病院で補助監督のひとといろいろ話をしていたときに聞かされました、と言うと五条さんは頷いた。


「うん。目視ができる程度だったらしいけれど、協力者だったみたいだよ。名前は知らされてなかったんだよね」
「はい。·····普通のひとだと思ってました。そういう目に見えないものの話とか、すごく嫌がるから」
「君の力に気づいていて、なるべく遠ざけたかったんだろう。まあ危ない商売だからね、我が子を呪術界から遠ざけたいのはわかるよ」

最も、子供っていうのはいつまでも親の傍にいてくれるものじゃないんだけど。と五条さんは続ける。そうですね、と相槌を打ったあと、わたしはどこかぼんやりした気持ちのまま五条さんに切り出した。


「·····わたし、高専に入るのを悩んでいた理由に、母親をどう説得しようっていうのがあったんです」
「うん」
「でも、いまはもう止めてくれる人がいない。·····呪術師になって、いろんな呪霊を祓っていけば、せめて母と妹は助けることができるんでしょうか」

父はもう、助けることすらできないところに行ってしまったけれど。そう思いながら五条さんを見ると、彼はゆっくりと頷いた。

「きっとね、としか言いようがないけれど。·····きっとね」
「そうですか」

五条さんは嘘をつかなくていいですね、と微笑むと彼は曖昧に笑う。わたしはふぅ、と息を吐いた。


「忌引の日数が終わったら連絡します。こういう悲しみっていつまでも続いてしまうものだから、先にどこかで区切りをつけておかないと。·····そのあとはよかったら任務にも行かせてください。ちゃんと強くなりたいです」
「·····そうか。わかった、連絡を待ってるよ」
「ありがとうございます」

ぺこりとわたしは頭を下げる。頭を上げると五条さんはじっとわたしを見下ろしていた。その目が何かを言いたげでわたしは首を傾げる。すると彼はゆっくりと形の良い唇を動かした。


「·····名前」
「はい」
「君はとても強い子だと思うけれど、大人の前ではもう少しくらい子供でいてもいいんだよ」
「··········」

その言葉にわたしはピタリと固まってしまう。そしてそのあと、へらりと不細工に笑った。


「·····かわいくないですかねぇ、甘えられない女っていうのは」
「いや、僕はそういう女の子のほうが好みだったりするけど」
「あはは、事案ですよ」
「おっと危ない」

五条さんがおどけてみせる。·····このひとになら、言ってもいいかな。なんとなくそう思って、わたしは頭を下げた際に顔にかかった髪の毛を耳にかけながら口を開いた。


「·····これは話半分で聞いてくれたらいいんですけど、わたし、少しだけ前世の記憶があるんですよ」

春の夜の風がふわりとわたしの髪を撫でる。どこかから桜の花びらがぷかりと浮かんできて近くを舞った。
この話を人にするのは、初めてである。


「前世はね、本当に絵に描いたような幸せな人生で。めちゃくちゃ長生きして、曾孫まで抱いて」
「それは長生きしたねぇ」
「はい。とてもいい人生でした。呪霊とかも見えなかったし」
「··········」

呪霊の見えない世界。呪霊なんていない世界。もちろんどんな世の中にもそれなりの苦しみはある。けれどもあの化け物を知らないでいい世界というのは、いま思うと眩しいくらい美しいのだ。


「·····五条さん、わたしね、こういうのは順番だと思うんですよ。前世がとっても幸せだったのはきっと誰かのおかげだったって。だから今度はわたしの番、わたしが誰かを幸せにしないと。·····前世の記憶がある分、その辺の女の子よりは別離の痛みにも慣れています」

またどこからか飛んできた桜の花びらを指先で掴まえる。これができたら願いが叶うと教えてくれたのは、母だったっけ。
五条さんは、ただ黙ってわたしの取り留めのない話を聞いてくれていた。わたしは息を吸い込んで、自分に言い聞かせるように言葉を放つ。


「力を持って生まれたなら、力のない誰かを助けないと·····っ、わ!?」

そう言い終えたか言い終えてないか、のタイミングで。突然わたしの両頬は五条さんの大きな手に包まれて、上を向かされていた。
五条さんの綺麗な瞳と目が合う。目の中に空がある。水色の中に入り込む白い光。わたしはびっくりして固まった。、

·····五条さんが、なんだかとても、苦しそうな顔をしていた。


「それ正論?」
「えっ·····?」
「そんな正論を言うんじゃないよ。キツい時はちゃんとキツイって誰かに言わないと、爆発してしまうんだよ」

長くて白い美しいまつ毛が五条さんの瞳に影を落とす。彼が瞬きする度に、鼓動が速くなるような気がした。息の仕方を忘れそうである。動けない。


「あ·····あの·····?」
「·····ごめんごめん、こんなことしてたらそれこそ事案だね」

なんとかそう絞り出すと、五条さんは少しだけ困ったように笑ったあとわたしから離れ、やけに明るい声を出した。手をひらひらと振って、もうしないよと笑う。·····び、びっくりした。

顔が赤くなっているのでは、そう思いながらも彼が触れたそこに自らの手を持ってくのはなんだか気恥ずかしくてまごまごしていると、五条さんは続ける。


「·····でもさ、名前。僕はいまの君しか知らないんだ。前世の君が幸せだったから今世は不幸でいいなんて言われたって、僕は普通にいま君に幸せでいてほしいと思うよ」
「五条、さん·····」
「·····なーんて。呪術界に連れ込もうとしてる僕が言っていいセリフじゃないか」

そう言って彼はサングラスをかけた。あ、空が、消えてしまった。
まるでそれは五条さんの本音ごと覆い隠してしまうかのようで。


「·····そろそろ戻らないとご親族が心配するね。ごめんね、長々引き止めて。ありがとう」
「あ、いえ·····はい」
「じゃ、連絡待ってるから。他にも何かあったらいつでも言って。あまり無理はしないように。できるだけちゃんと食べて、できるだけよく寝るんだよ」

それじゃあまたね、と五条さんは明るく言って背を向けてしまった。今度はもう引き止める隙もない。


「お、おやすみ·····なさい·····」

やっとのことで絞り出したのはそんな挨拶。五条さんはわたしに背を向けたまま、手を上げてひらりと振ってくれた。






◇◆◇


どうにも名前の前だと調子が狂う。五条は小さくため息をついた。術式も、真面目なところも頑固なところも、痛みを隠すところも、·····それから先程の弁も。どうしてもあの青い春を連れ添った、そしてそのまま遠くへ行ってしまった親友を思い出す。

「母親が窓っていうのも知らなかったみたいだし、実は本人が知らないだけでアイツの親戚だったりしそうだな·····」

そう呟いた彼は、伊地知に改めて名前の身辺を調べさせるかと考えた。さっそく連絡するため携帯電話を手に取ろうと服のポケットに手を伸ばす。しかしそのとき目の前に、またふわふわと桜の花びらが舞い降りてきたので思わず動きを止めた。

·····ああ、さっき名前が掴まえていた桃色は、ここから風に運ばれていたのか。少し葉が見え始めた桃色の大木を見上げて五条は立ち止まる。その向こう側には半月を少し太らせたような月が暗い夜空に浮かんでいた。暈をかぶっている。明日は雨らしい。

雨が降ろうが降らまいが、無下限がある五条悟には関係ない。この世で唯一最強になってしまった男にとっては、大概のものは無関係で感情を揺らすにも値しない。

けれどもその日はどうしてか、五条は目の前に降りてきた桃色の花弁を指先で摘んだ。桜の花びらが落ちる前に捕まえることができたら幸せになれるなんて、そんなジンクスを教えてくれたのは誰だったっけ。それくらいで幸福になれるのであればこんなに簡単なことはないのに。·····そこまで考えて、いったい自分は何をしているんだと少し笑う。そのままそれを爪先で弾いて、今度こそ携帯を手に取った。

伊地知に電話をするのであれば、電話帳から探すよりも履歴を見た方が早い。そうわかっている彼はページへ飛んで、お目当ての名前をタップした。プルルルル、というコールが二回。慌てて電話を取ったのであろう伊地知の焦る声がする。待たされるのは好きでないため、コールが続くと五条の機嫌が悪くなることを伊地知はよく知っているのだ。


「あっもしもし? 僕だけど。ちょっと調べてほしいことがあるんだよね〜、なる早で」

開口一番難題を吹っかけながら五条は歩き出す。弾かれた花びらはいまだ風に乗り、ゆっくりと舞っていた。春の夜風は平等に生あるものの頬を撫でる。たとえそれを、望まれていなくとも。

意味