鯛茶漬けが好物だと言われた名前は携帯で定食屋を探してみたものの、午前9時過ぎという微妙な時間ではどこもまだ準備中だった。仕方なく二人は駅を出て、近くにある雰囲気のいい喫茶店に入る。平日のこの時分は空いており、穏やかな時間が流れていた。名前と凛は窓際の席に通され、その店が看板メニューとしてアピールしていた玉子サンドとカツサンドを注文する。
「カフェでモーニング食べるのなんて久しぶりかも。ちょっとテンション上がっちゃうなあ」
「……そうか」
にこにこしながら言う名前に凛はぶっきらぼうに返した。それに彼女は苦笑するが、実のところ凛も少しだけ気分が高揚している。高校生の彼は平日は学校があるし、土日はサッカーで忙しい。たまのオフにわざわざカフェで朝食を取るようなこともなかった。口は悪いがそれなりに真面目な学生生活を送っている凛にとって、学校をサボって親族以外の女と喫茶店でモーニングをするなんて、相当な非日常である。顔にこそ現れないものの、彼はいま少し機嫌がよかった。
「高校一年生って言ってたっけ。どう? 学校楽しい?」
「普通だ」
「そっかー。サッカーは楽しい?」
「……楽しいとかそういうのじゃねぇ」
「ふーん?」
そう言いながら先程注文したホットコーヒーを飲む凛に、名前は首を傾げる。相変わらず感情表現が薄いというか、何を考えているのかわからない子だなぁと思いつつも、彼女は大人でそれなりに対人スキルも培ってきているので当たり障りなく会話を続けた。
「頑張ってるんだねえ。毎日みっちり練習だと疲れそうだけど」
「別に、慣れた」
「おーカッコイイ……。もしかして強豪校?」
「……部活でやってるんじゃない。ユースチームだ」
「えっそうなの? はへー、そりゃ大変だ。すごいねぇ凛くんは」
「……俺がサッカーしてるところを見たわけでもないのにすごいもクソもねぇだろ」
「あはは、確かに」
じゃあ今度見てみたいな、凛くんがサッカーしているところ。名前がそう言うと、凛は黙ってまたコーヒーを啜った。彼女のその言葉は半分本心だが半分社交辞令で、どうせ凛のことだから見せてはもらえないと思っている。しかし彼は存外言葉を真正面から受け止めるタイプなので、その言葉に近く近隣で開催される試合はなかったか思案していた。そんなタイミングで店員がそれぞれにサンドイッチを運んでくる。
わあ美味しそう、と名前は顔を輝かせた。凛もカツサンドの匂いに空腹が主張するのを感じる。店内は聞き覚えのあるようなないような穏やかな音楽が流れていて、なんだか落ち着くな、と凛は思った。そして二人とも、目の前にきたサンドイッチを手に取り口をつける。
「うん、おいしい〜! 凛くんは?」
「……美味い」
「ほんと? よかったぁ〜」
安堵したように笑う名前を見ていると、凛はきゅっと喉の奥が詰まるような、胸の奥があたたかくなるようなそんな不思議な感覚に見舞われた。でもそれはけして居心地の悪いものではないから妙な気分になる。今まで覚えのないそれに少しだけ眉を寄せ、一度視線を落とした後、静かに息を吐いてから彼は口を開いた。
「……お前、明日から前に俺と一緒になった時間の電車に乗れ」
「え?」
「一緒に行ってやる。そしたら今日みたいなこともないだろ」
ぶっきらぼうながらも、凛は善意からそう言う。こんなことは普段ならありえない。凛自身、自分の口から飛び出た言葉に少し困惑していた。しかしまだ彼と出会って間もなく、今ひとつ凛の人間性を知らない名前はうっと詰まる。
「……い、いや、いいよ。悪いし」
「別に悪かねぇだろ。通学中にお前の様子を見るくらいならさして負担にもならねぇ」
「いや、でも……いいよ」
「……なんか問題でもあんのか」
目を泳がせながらしどろもどろになる名前に凛は怪訝な顔をした。この申し出に対して、まさかこんな難色を示されるとは思っていなかったのである。そんな彼に彼女は、うーんと悩んだ後ポリポリと頬を指先で掻き、蚊の鳴くような声で言った。
「………………起きれない」
「あ?」
「起きられないです、朝弱いんです」
「起きろ、大人だろうが。前は起きてたんだから不可能じゃねぇだろ。それともまた痴漢にあいてぇのか」
「うっ……」
至極まっとうなことを言われるも、名前は本当に早起きが苦手なのである。唸りながらレモンティーを飲む彼女に、凛は有無を言わさぬ物言いで言い放った。
「早く寝て早く起きてあの電車に乗れ。わかったな」
「……」
「わかったな?」
「……はい」
観念したように頷く名前に、凛は少し満足気な表情を見せる。それを見た名前は、かなわないなぁと思いながら玉子サンドを口元に運ぼうとした。しかしそのタイミングで名前の携帯がぶるりと震える。通知を見ると差出人は先程連絡を取った上司からだった。ごめんね、仕事の関連だからちょっと見るね、と名前は凛に断りを入れてサンドイッチを皿に戻し、メッセージアプリを開く。フリック入力で返信を作成する彼女に、凛は面白くなさそうに言った。
「……仕事、休みにしねぇのか」
「んー、休みにしていいよとは言ってくれてるんだけど、月末でちょっと忙しいんだよねいま……。その処理関連の質問が飛んできてるし、やっぱり午後からは行こうかな」
「社畜かよ」
「あはは、そうだねぇ」
携帯を操作しながら気の抜けた返事をする名前に、凛は眉を寄せる。ホットコーヒーを一口飲んで文句を言うのを抑えようとしたが、結局我慢ならずに彼は口を開いた。
「あんなことがあったんだから休みにすりゃいいだろ」
「んー、心配してくれてるの?凛くんは本当に優しいね」
「……そんなんじゃねぇけど」
「大丈夫だよ。凛くんが助けてくれたし、本当にぜんぜん無理とかしてないの。返事終わったよ! ごめんね、ありがとう」
上司からの質問は簡単に答えられるものだったようで、サクッと答えた名前はそう穏やかに笑ってスマホを机の上に戻した。そしてにこにこしながら玉子サンドを手に取る。
「凛くんのおかげですごい平気。そういえば、彼氏と別れたのも凛くんのおかげで早々に吹っ切れちゃった! ありがとうね」
「……そんな簡単に吹っ切れるようには見えなかったけどな」
「いやーあのときは本当に見苦しいものをお見せしちゃって……。でも凛くんを見送った後、ソッコーでフォトスタンドとか元彼の私物ぜーんぶ捨てちゃったんだ! ちょうスッキリした」
「……そうか」
静かに返事をする凛にうん! と頷いた名前は元気にサンドイッチにかぶりつく。やっぱりおいしい、と顔をほころばす彼女に、もうすでに自分の分を食べ終わっている凛は少しだけ目を細めた。
「凛くんがいなかったら絶対絶対ずーっと引きずってた。ありがとね」
「……別に。おい、顔にパンくずついてんぞ」
「えっうそ恥ずかしい! どっち!?」
「右」
しかしそれは凛から見た右であり、彼女が拭った方ではなかった。逆だ、と言われた名前は慌てて別の方を指で擦る。しかしどうにもそこは検討はずれの位置で。短気なところがある凛は、チッと舌打ちした後自分がやったほうが早いと名前に向かって手を伸ばした。頬に凛の指が触れる。
「ガキかよ。どうやったらこんなとこにつく……」
「ッ……、」
そう言いながら名前の頬から取り去ってやったパンくずをナプキンで拭おうとすると、彼女の方から息が詰まったような音がした。なんだよ、と凛は名前に視線をやって目を見開く。そこでは彼女が顔を真っ赤にさせて固まっていた。
「……おい」
「はっ! り、りんくん! 君、君ちょっとそういうのやめたほうがいい!!」
「あ? こっちの方が早いだろうが」
「そ、そうだけど……」
もごもごと言いながら名前は慌てて自分のドリンクに手を伸ばす。気持ちを落ち着かせるように、彼女はレモンティーを一気にごくごくと飲んだ。
「凛くんめちゃくちゃかっこいいんだからそんなことしちゃだめ! わたしがあと10歳若かったら簡単に恋に落ちてたよ!!」
飲み終えて息を着いた名前は凛を窘めるように言う。しかしその言葉を受けた凛は、少しの沈黙のあと静かに聞いた。
「……10歳年取ってるいまは違うのか」
「エッ!? あ、当たり前じゃん犯罪だよお縄だよ……!」
「……」
そうか、ともふーん、とも言わず、一瞥だけ寄越して凛はコーヒーを口元に運んだ。高校生のくせにその姿がやけに様になっている彼に、名前はどうしたらいいのかわからず目をぱちくりさせる。頭の中では「えっ恋に落ちて欲しかったの!?」やら「いやまさかこんな若くてかっこいい子がそんなこと思うわけないでしょ!」やらと混乱する声が響き渡っていた。しかし名前は大人なので、最後の玉子サンドをがっしりと掴み何食わぬ顔で口に入れる。混乱もろとも飲み込む算段だった。
彼女は知らない。凛が、「酔っ払ってキスしてくるくせにたったこんなことで慌てるのか」や「あのときのことを思い出したらコイツはどうなるんだ?」なんて思っていることを。そしてむぐむぐと玉子サンドを食べ終わり、ごくんと飲み込んでそのあとグラスに入った水をごっごっと飲み干した。ぷは、と息を吐いた名前は手で口元を拭い不自然なまでに明るく言葉を発する。
「はーっ美味しかった! さて凛くん。もう食べ終わったんだから出よう、お待たせ! 君には学校がある、学生の本分は勉強だ。いやー若いっていいな〜!!」
「……なんかキャラ違ってねぇか」
「違ってないです! もともとこれです、さあ出るぞ!」
「……ああ」
頷いた凛は大人しく席から立つ。伝票を持ってスタスタとレジに向かう名前を見てなんとなく気まずさを覚えた。確かに元々礼ということだったし、年齢から鑑みても奢られるのが筋ではある。しかしそう頭で理解していても、この居心地の悪さはどうにもならなくて。
ご馳走様でした、と店員に言って店を出る名前に凛は続いた。そして外に出たタイミングで口を開く。
「……やっぱり自分の分くらい出す」
「え!? いいよいいよお礼だし!!」
「うるせぇ。出すっつってんだろ」
「いやいや高校生からお金貰えないよ! 気にしなくていいよ!」
「出す」
「いいってば! 財布しまってしまって!!」
不機嫌そうに言う凛に慌てながらも、名前は絶対に高校生からお金を受け取らないぞという強い意志で財布をカバンに突っ込んだ。それに凛は舌打ちする。背の高い彼の迫力に、名前はひぇっと身を震わせた。
「モーニングなんて安いもんだし年上の顔立ててよ! ねっ?」
「お前に立てる顔なんてねぇだろ。あんな醜態晒しといて」
「ひっひどくない!? 大人だって傷つくんだぞ!!」
「そもそもお前みてぇなやつを大人だと思ってないけど」
「ひどい!!!」
傷ついたなー!!! と大袈裟に騒ぐ名前に、凛はひとつため息をつく。この空気のまま有耶無耶にされることをなんとなく察してしまったのだ。諦めて凛は財布を鞄の中に片付け、口を開く。
「……ご馳走様。美味かった」
「うん! 素直でよろしい。なんならいつでも奢ったげるからね!」
「いらねぇ」
冷たく言う凛に名前は苦笑した。けれども怒っているわけではないんだろうと察した彼女は穏やかに言う。
「じゃあわたしはもうちょっとこのへんうろうろするから、凛くんは学校行っといで。今日は本当にありがとうね」
「……ん」
「じゃあまた……。…………あ、明日? また明日か……」
「起きろよ、ちゃんと」
「はい……」
見下ろされながら釘を刺されて、名前は笑顔を引き攣らせながら頷いた。凛はそれを見届けて、くるりと彼女に背を向ける。そのあと思い出したかのように、名前を振り返って一言言った。
「……じゃあ、気をつけろよ。なんかあったら連絡しろ」
「! うん、ありがとうね。学校頑張ってね! いってらっしゃい」
「……」
ひらひらと手を振る名前を無視して凛はスタスタ歩き始める。その背中を見ながら名前は小さく微笑んだ。なんだか心配性の弟ができたみたいだなあ、と心の中で呟いた。
その日は少しウィンドウショッピングをしてのんびり過ごした後、予定通り出社し仕事をこなした。上司には心配されたけれど、やっぱり思っていたよりも平気な自分がいて彼女は驚く。あのとき、痴漢に遭っている最中は相当怖い思いをしていたし嫌悪感で吐き気すら覚えていた。それこそもう電車に乗るのを躊躇ってしまいそうになる程だった。
けれども凛が助けてくれた。そしてその後、あの痴漢とは全く別のベクトルで心を掻き乱してくれた。高校生にドキドキするなんて、失恋したてでヤキが回ってるな……と苦笑する。でも、あの頬を優しく撫でた指先に、年甲斐もなくときめいてしまった自分がいたのだ。もう大人なのに。異性に肌に触れられることなんて、とうに慣れきっているくせに。
その日は残業もせず仕事を切り上げ、いつもより早い時間に帰宅した。帰る際、電車に乗るのは少しだけ怖かったけれど、凛との会話を何度も反芻して恐怖心は誤魔化した。
先日から本当に、救われてばかりだと改めて思う。彼がいなかったらどうなっていたんだろう。そう思うと恐ろしくて、やっぱりまた何かお礼にご馳走でもしたいと思ってしまうのであった。
◇◆◇
そしてその翌日。凛に言われた通り普段より早い時間に家を出て、欠伸を噛み殺しながらホームへと向かった名前は、既にその場にいた凛に挨拶よりも先に小さな可愛らしい紙袋を渡されて目をぱちくりさせた。
「え、なにこれ、どうし……」
「やる」
「なんで!?」
「……昨日の礼」
「ええっ!?」
いいのに! と半ば叫ぶも、もう買ってあるんだから受け取れと押し付けられては拒否をする選択肢などない。高校生に物をもらってしまった……と焦るも、せっかくの厚意を無下にするのもよくないだろうと考えて、ありがとうと小声で言いながらそれを受け取る。少し満足そうに鼻を鳴らした凛に、かわいい子だな……とちょっぴり笑ってしまいそうになった。けれどもそれがバレたらいい気はしないと短い付き合いながらも十分わかってきたので、なんとか誤魔化し口を開く。
「……中、見てもいい?」
「好きにしろ。たいしたもんじゃねぇけど」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
そしていそいそと紙袋を綴じていたシールを剥がし、中に入っていた小包を取り出す。なるべく丁寧に開くと、その中には可愛らしい絵柄で彩られたチューブタイプのハンドクリームが入っていた。
「……練習のあとに見に行ったからあんまりゆっくり選べなかった。気に入らなかったら捨てろ」
「えっ捨てたりしないよ!? 疲れてただろうにわざわざ見に行ってくれたんだ……。めちゃくちゃ嬉しい、ありがとう! 最近寒いしわたし乾燥肌だし早速使ってみちゃおっかな!?」
「……ん」
凛が頷くのを見た名前は、さっそくそのクリームを手の甲に出した。シトラスの優しくて爽やかな香りがする。それを手のひら全体に広げて、彼女は微笑んだ。
「わっ、この匂いわたしとっても好き。ありがとう!」
「……そうかよ」
「ふふ、嬉しいなぁ。仕事頑張れそう〜! ありがとうね、大事に使うね」
「そんなに喜ぶようなもんじゃねぇだろ」
「えー、だって嬉しいもん」
「……」
くんくんと匂いを嗅ぎながらはしゃぐ名前を凛はただ黙って見つめる。そしてそのあと、ゆっくり口を開いた。
「……来週の日曜日」
「?」
「近くで試合がある。……来るか? 暇なら。見たいって言ってたろ」
目を合わせずに聞く凛に、名前は目を瞬かせた。昨日言ってたこと、ちゃんと覚えていてくれたんだ……。それが少し嬉しくなると同時に、彼女はどうにも不安をおぼえた。……これは、もしかしなくとも。
高校生の男の子が、毎朝一緒に電車に乗ろうと誘ってきて、練習後にわざわざハンドクリームを買ってくれて、試合を見に来いと言ってきた。さすがにその意味が、その心情が全くわからないほど鈍感でもなければ子供でもない。そう、名前は子供ではないのだ。だから目の前にいる子供と、同じ感情を持ってしまっては、いけないとわかっている。
「あー……その日は予定あるんだ。もし次に近くでやるときがあれば、教えて!」
「……わかった」
本当は予定なんてなかった。できることなら見に行きたいと思っている自分もいた。だからこそまずいと蓋をした。自分は目の前にいる彼より十も離れた大人なのだ。
タイミングよく電車が来て、ホームにぬるい風が吹く。ゴォオという騒音の中、名前はひとり決意した。……婚活しよう。ちゃんとした同年代の男の人を見つけよう。このままだと傷心の勢いのまま、高校生の子供にハマってしまいかねない。
そんな名前の思いなどつゆ知らず、凛は今日も風が運ぶ名前のシャンプーの香りに少しだけ胸を高鳴らせていた。たかだかハンドクリームひとつであんなに喜ぶ彼女にどうにも調子を狂わされる自分がいて、そしてそれが嫌ではなくて。
扉が開く。電車に乗り込む。その際人の流れに押されて名前は凛にぶつかり、慌ててごめんねと彼を見上げた。凛は別にと気にせず進む。
十歳の年の差は、どれほど重いものなのか。車内に乗り込み肩が触れ合うその距離で、二人はそれぞれ吊り革を握った。