04


「えっ凛くんああいう漫画すきなの!?」
「……なんだ、知ってんのか。女が読むもんじゃねぇだろ」
「高校生が読むもんでもないよ……!」
「おい今ガキ扱いしたろ」

今日も乗客を乗せ、秋空の下平和に電車が揺れている。糸師凛と名字名前が共に通学、通勤をするようになってあっという間に二週間が経った。最初は何を話すべきかと悩んでいた名前も随分と凛に慣れ、今ではのんびりと雑談をしながら毎朝を過ごしている。基本的に毎回名前が話を振っていて、いまの話題は好きな漫画について。自分で聞いたくせに、サッカーで忙しそうな凛からは出てきたとしてもメジャーどころのタイトルか、「読まねぇ」という返答が来ると思っていた彼女は、ドラゴンヘッドとシガテラなんていう予想だにしない回答に目を丸くしていた。

「や、違う違う! けっこう昔の漫画でしょあれ、高校生から名前が出ると思わなかったからびっくりしただけ」

背の高い凛にじろりと睨まれた名前は慌てて首を振る。実際彼女は「高校一年生が読むには早い」と思っていたので凛を子供扱いしていることになるのだが、それがバレたら確実に彼の機嫌を損ねてしまうとわかっていたので急いで取り繕った。

「俺もお前が知ってると思わなかった」
「あー、わたしはお兄ちゃんが読んでてさ! あのひといろんな漫画持ってたからよく借りて読んでたの。けっこうわたしお兄ちゃんっ子で」
「……そうか」
「そういえば凛くんは兄弟とかいるの? 一人っ子?」
「…………兄がいる」
「そうなんだぁ!凛くんのお兄ちゃんかぁー、きっとかっこいいんだろうねぇ」
「…………」

軽い調子で名前は言う。しかしその言葉に凛はむっつりと黙り込んでしまった。おかしいな、と思い彼女は彼を見上げる。すると凛が眉間に皺を寄せ、ひどい顔をしていたので名前はすぐに自分が地雷を踏んだことに気づいた。……理由はわからないけれど、凛くんにお兄さんの話題はNGらしい。そう察した彼女は慌てて話題を変える。

「あ、あーっそうだドラゴンヘッドって映画もあったよねー! 映画、凛くん映画とかもよく見るの!? 何が好きとかある!?」
「……シャイニング」
「ねぇだからさっきから回答が高校生と思えないんだけど君本当に16歳? 人生何周かしてる?」

わたしもあの映画は好きだけどさー、なんて笑う名前を凛はじっと見る。彼女は何か面白い話を、と一生懸命シャイニングの好きな箇所を上げていたが、凛はゆっくりと口を開いてそれを遮った。

「……聞かねぇのか」
「えっ何を?」
「……兄貴のこと」
「んっ!? わたしが聞いていい話なら聞くけど」
「…………」
「(黙るんかい)」

思わず心の中で名前はツッコミを入れるが、まあ多感な時期だもんな……と流してやる。そして少しの沈黙のあと、凛はぽつりぽつりと話し始めた。

「……兄貴はいまスペインでサッカーをやってる」
「えっスペイン!? ガチのやつじゃん! ていうかそっか、凛くんもユースチームで活躍してるもんね」

名前はサッカーに明るくないし、自分が毎日顔を合わせている凛やその兄が将来日本のサッカー界を担う人物であるということなんて全く知りもしなければ調べてもいなかった。そのため突然スケールの大きい話をされて完全に面食らっている。しかし兄の話をしている際の凛がそんな彼女の驚きに気づけるはずもなく、そのまま苦々しげに続けた。

「……俺は……アイツを倒すために、サッカーをしてる」
「…………」

若い……。名前は凛の言葉に目をぱちくりさせた。若い。若すぎる。言葉も熱も全てが若すぎる、と名前は思った。これが高校生か……ともはや眩しかった。漫画でしか聞かないようなセリフを堂々と言い放たれて、名前は若干の気恥しささえ覚える。改めて、こんなキラキラした子の前で泥酔による醜態を晒したことが情けなくて死にそうになった。しかし黙っているわけにもいかないので、うっすらと感じる胸焼けを押し殺して彼女は静かに言った。

「そっか……。わたしはお兄さんのことも知らないし、二人に何があったのかわからないけど、とにかく凛くんのことを応援してるね」
「……」

凛は無言でこくりと頷く。そんな彼に名前は「機嫌直ったかなぁ」などと呑気に考えていた。しかし実際のところ、その程度ではない。凛は、名前が自分が兄をよく思っていないことをすぐに察した点、深入りしないようにした点、話をしたら穏やかに受け止め肯定した点に相当な好感を抱いていた。この男、プラスの感情に表情筋が働かないのでそれらが全く出ていないのである。

「そういえばこの日曜日は前に言ってた試合だったよね! 行けないけど応援してるからね」
「……ああ」

凛から自分への好感度が跳ね上がっていることなどつゆ知らず、名前はにこにこと彼を見上げながらそう言った。この試合は前回名前が凛に誘われ、なんの用事もないくせに断ったものである。ちなみに嘘をついた後ろめたさから彼女は改めて別の予定を入れたのだが、それこそそんな事情を知らない凛は純粋に名前が自分の試合の日にちを覚えていたことをさらに好ましく思っていた。糸師凛16歳、元来の思い込みの強さから一度スイッチが入ってしまうとほとんどオートで親密度が上がってしまうらしい。
そんなタイミングで、電車がゆっくりと名前の会社の最寄り駅へ到着した。

「じゃあ、今日もありがとうね凛くん! 今日は金曜日だから、えっと……また来週!」
「ああ」
「サッカー頑張ってね、体に気をつけて〜!」

そう言って名前は凛に向かってひらひらと手を振り、電車を降りた。それに対してただ頷く彼に、彼女は「本当にクールな子だなぁ」なんて思いながらホームを歩く。すぐに電車の扉は閉まり、次の駅に向けて発車した。遠ざかっていく車輪音を聞きながら、名前は凛について考える。

変わった子だよな、と彼女は心の中で呟いた。でもそれ以上に熱心で、一生懸命な、かわいい子だとひとつ息をつく。早起きは苦手なはずだった。早めの電車に乗るくらいなら満員電車に揺られたほうがマシだとすら思っていた。けれども事情が事情だとはいえ、本来よりも規則正しい生活をすることをそこまで苦としない自分に驚いていた。それはひとえに、凛との時間が名前の中でも心躍るものとなりつつあるからだった。

よくないよなぁ、あんな若い子に。彼女はそう思いながらスマートフォンを手に取る。エスカレーターに乗りながら、アプリをひとつ起動した。それは二週間前、凛からハンドクリームをもらい、彼の中に燻る好意めいた感情に気づいた際に慌てて入れたマッチングアプリだった。

『昨日話してたお店、日曜日18時で予約しておきました! ようやく金曜日ですね、今日も仕事頑張りましょうね』

届いたメッセージを名前はぼうっと眺める。二つ年上、年収600万、有名大学卒。悪くない相手だとプロフィールを見ながら改めて自分にそう言い聞かせた。凛の試合観戦を断った彼女は、その日この男と夕飯を共にする予定を入れたのである。

条件だけで恋愛ができたらどれだけ楽なんだろう。いやそもそも結婚に恋愛感情は必要なんだろうか。そんなことを考えているうちにエスカレーターは降り口に辿りついてしまったので、返信は会社に着いてからにしようとスマートフォンをカバンに仕舞った。

◇◆◇

そして日曜日。名前はいつもより少しのんびり起きて溜まっていた家事を片付け、ゆっくりと出かける準備を始めた。髪の毛を巻き、丁寧に化粧をし、清楚で可愛らしいワンピースを選び小ぶりなアクセサリーを身につける。鏡を見て、いつもより満足な仕上がりに少しだけ笑顔を作った。

これから会う人がいいひとだったらいいなと思いながら靴を履いて家を出る。せっかく綺麗にしても会うのはアタリかハズレかもわからないマッチングアプリの男だと思うとなんだか虚しい気持ちになった。扉の向こうの風は少し冷たい。秋も深まり、人肌恋しい季節になってきて嫌だなぁ、とため息をつく。
今日試合だったはずの凛は、無事に勝てたのだろうか。そんなことを考えながら彼女は駅までの道のりを歩いた。サッカーの試合ってけっこう早い時間に終わりそうだから普通に今日行けたよな、ちょっと行きたかったな、なんて思って、ぶんぶんとその思考を振り切るように頭を振る。これではなんのためにマッチングアプリを入れたのかわからないじゃないか。
そう思いながら歩みを進め、視界に駅を捉えたとき。

「名前?」
「えっ」

突然前方から聞き慣れた声に名前を呼ばれ、彼女は驚いて立ち止まった。……前から凛が近づいてくる。

「り、凛くん! 試合は!?」
「んなもんとっくに終わった。4-0で勝った、俺が全部決めた」
「えっなにそれすごい、かっこいい」
「別に普通だろ」

普通じゃないでしょそれ、と思いながらも名前はそう返すことができなかった。遅れて、自分が凛になんと呼ばれたかを認識してしまったのである。……初めて、名前を呼ばれた気がする。気づいてしまうとぼっと顔が熱くなった。いや、だめだだめだ。これから婚活だというのになに高校生に顔を赤らめているんだ、と名前は心の中で自分に叫ぶ。

「お前はこれから出かけんのか」
「あ、う、うんっ」
「……飲みにでも行く気か」
「いや! お酒は控えています! 今日もそんなに飲む気はありません! あっ」
「そんなにっつーことは飲む気じゃねぇか」
「あ、相手に合わせてちょっと口をつけるくらいで、以前凛くんにご迷惑おかけした際のようなことにはならない予定で……」
「……男か」

予定です、そう言おうとした瞬間、冷たく遮られて名前は固まった。明らかにその声は怒気をはらんでいる。うっ、と詰まった名前に凛は舌打ちをした。そして忌々しげに問いを続ける。

「……元カレか」
「違う! それは断じて違う!!」
「じゃあ早速他にいいやつができたってか」
「いや、いいやつっていうか……」

ごにょごにょと歯切れが悪くなる名前を凛は黙って睨んだ。10歳以上年下であるというのに、名前はその圧に耐えかねて口を開く。

「……こ、婚活しようと思いまして」
「あ? いらねぇだろそんなもん」
「いるよ! 毎日会社と家の往復でこちとら全然出会いがないの、このままじゃ確実に婚期を逃すの!」
「いいじゃねぇか別に」
「いやだよ!!!」

思わず名前は大きな声を出す。そんな彼女に凛はさらにムッとしたが、一度反撃したことで名前もなんだかボルテージが上がってしまったようでそのまま反撃を始めてしまった。

「凛くんはかっこいいしモテるだろうしそもそも若いから簡単にそう言いますけどねぇ、こっちはアラサーなのよ! 彼氏に振られたてで手札のないアラサー! そりゃあマッチングアプリも始めようってなりますよ!!」
「……マッチングアプリで男漁りか」
「ちょっとその言い方やめてくんない!? まだ会うの一人目なんだけど」
「一人目ってことはこれから先他にもいろんな男に会うつもりだろーが」

どんどん機嫌が悪くなる凛にそう返され、名前はむむむと眉間にシワを寄せる。確かに同時並行でやり取りをしている男は何人かいるし、今日の相手が微妙だったら来週ご飯に行くつもりの相手もいた。けれども名前は目の前の高校生にうっかり抱きそうになっている恋慕の情を捨てて同年代の男性とごく真っ当な恋愛をしたかっただけで、自分の年齢から結婚を意識することもごくごく自然だったので、男漁りだなんて言われたことでかなりカチンときていた。同時に、高校生相手に腹を立てるなんて大人気ないとも考える。そしてひとつ息をついた後、彼女は凛を見上げて口を開いた。

「……だとしても別に凛くんには関係ないよね。じゃ、わたし行くから」
「おい」
「男漁りするようなバカな女だって思うなら別に明日から一緒に電車も乗ってくれなくていい」
「っ、」

じゃあね、と名前は凛に言い放ち彼を横切って駅へと足を進めようとする。しかしその瞬間、ぱしっと腕を掴まれてしまった。

「……なに」
「行くな」
「いやムリです、遅れたくないので。男漁りをしてしている身としては、今回のお相手は稀に見る優良物件なので逃す手はないんです」
「優良物件ってなんだ。金か」
「まあそれもそうですね」
「……5年待て。俺がそいつの10倍稼いでやる」
「はあ?」

いったい何を言っているんだ、と名前が凛を振り返った瞬間。彼はぐいっと彼女の腕を引いて無理やり口付けた。太陽が沈み始めたとはいえまだ明るい空の下、少ないながらも人通りのある道の往来で。一瞬名前は固まるも、次の瞬間凛の胸を突き飛ばそうとする。彼もそれを想定していたのか、ただの女の力では彼をよろめかせることすらできなかったが、凛は口付けをやめて舌打ちをした。

「……いてぇな」
「な、に……すんの、こんな、道の真ん中で」
「部屋ん中ならいいのか」
「いいわけないでしょ、凛くんキミ自分の年齢わかってる? 大人をからかうのもたいがいにしなさい」
「これがからかわれてんだと思うならお前バカだろ」
「っ、からかってるんじゃないなら余計にだめ。わたしは君のこと子供としか見れな……」
「嘘つけ」
「っ、」

名前が吐き出す言葉を凛は遮り、両の手で頬を包んで無理やり上を向かす。再び近づいてくる唇に、名前は慌てて手で自分の口元を覆い隠した。

「だめ! 高校生とキスなんてできるわけな、」
「三回目だ」
「は?」
「……もうしてる。お前を家まで送った時に二回」
「……えっ、」

突然明かされた衝撃の事実に名前は固まる。そんな彼女に向けて、凛は淡々と告げた。

「二回目は俺からだったけど、最初はお前からだ」
「……ウソでしょ」
「こんな嘘つくわけねぇだろ」
「…………」

ウソでしょ、と名前はもう一度心の中で呟く。全く覚えていない。本当に覚えていないのだ。いくらかっこいいからって高校生に自分からキスするなんてあるか? と自問した。しかしいくら考えたところで記憶が無いのだからわかるわけがない。そのうち「いやあの時絶対凛くんのこと高校生だと思ってないからありえるかも」なんて思い始めていた。実際彼女は凛を元彼と間違っていたのだが、それすらも覚えていない彼女は青ざめることしかできなかった。そして震える声で言う。

「……い、一万八千円」
「あ?」
「いま財布の中に一万八千円ならあったと思うんですけど、それで手打ちになりませんかね」
「ふざけてんのか」
「真剣です」
「ふざけてんだろ」
「……すみませんでした」

至近距離で凄まれて、名前は完全に負けてしまった。そもそもショックが大きすぎるのだ。自分が高校生相手にそんなことをしでかしたという事実に目眩がしていた。

「……あの、それ以上はしてませんか? あの、どうしたら……え、ていうか本当にキスだけですか」
「どうだろうな」
「え゙」

もちろんそれ以上は何もしていない。ただ凛の腕の中ですやすやと眠っただけである。しかしそんなことすら当然名前は覚えていないため、それをいいことに凛は続けた。

「飯食わせろ。それで許してやる」
「えっ今日!?」
「いつでもいいっつったろ、こないだ」
「い、言ったけど……」

だからって、今日!? と名前はしどろもどろになるもキスの話をされたせいで凛に勝てなくなってしまっている。なんだ、文句あんのかと言わんばかりの凛に名前はうぅ……と唸った後、観念したように小さくため息をついた。

「……じゃあ今日の相手に断りいれるから待って」
「わかった」

満足気な凛の声に名前は頭を抱える。一体全体どうしてこうなっているんだと走り回りたくなった。さようなら、優良物件。きっともう会うことはないでしょう。ほんの少し流れそうになる涙を堪えながら彼女はアポ相手にお断りのメッセージを入れる。そして半ばヤケクソで凛を見上げた。

「……で、なにが食べたいの」
「なんでもいいのか」
「まぁお詫びも兼ねさせていただくので、よっぽど高級なものじゃなければなんでも……焼肉でも……」
「なんですぐ焼肉になるんだ」
「凛くんが高校生だから」
「ガキ扱いやめろっつってんだろ」

いやガキ扱いっていうか、食べ盛りじゃん? そう名前が返そうとしたとき。凛は名前の手を取って、ずかずかと歩き出した。

「え、待っ」
「手料理」
「は!?」
「お前の手料理がいい」
「な、」

ずんずんと進み続けるその方角は、確かに彼女が今まで歩いてきた道で。

「待っ、むり、凛くんそれは無理!」
「なんでもいいって言ったのはお前だろ」
「この流れで凛くんのこと部屋に入れると思う!?」
「うるせぇ、入れろ」
「な、待っ、……ッねぇ〜〜〜〜!!!!」

もはや言葉すらまともに紡げなくなりつつある名前の制止など聞かず、凛はずんずん歩いてしまう。そんな彼に彼女は頭を痛めながら、泣きそうな声で小さく言った。

「……せめてスーパー寄らせてください」
「ん」

凛が頷き近くのスーパーがある向きへと方向転換する。そこはちゃんと聞いてくれるんかい、とツッコミたくなるのを堪えながら、名前は凛に腕を引かれてそのまま少しずつ暗くなっていく空の下を歩き続けた。