ピアノ線の下、眠っている



これから存分に意識してよね、と。
成宮がそう私に宣戦布告した夜。
私は彼が二階の寝室に上がったことを確認してから、こっそりと客間を出て化粧を落としお風呂に入ったのだけれど、…やっぱり頭を占めるのは成宮の表情、言葉、そして指先へのキス。思い出して真っ赤になってそしてつい長風呂になって逆上せてしまった。客間に戻って布団に潜り込んでもなかなか寝付けない。

成宮はやっぱり私の想いに気付いていた。
一也が、好きな「私」を知ってる。

思い返してみれば、思い当たる節はあったのだ。
"ここ"で目覚めて、成宮と再会して話をした時。私が一也のことを聞けば、「やっぱりね」といった様子で怒って苛々していた。
それにその直後、成宮が(何故か)わざわざ呼びだした一也と再会した瞬間。私が彼の一言で涙を零せば、「一也の言葉では泣くんだ」と悲しそうな顔。
そして一也を見送った時。
私の手を握って、泣きそうな顔をして、行かないでって…そんな想いを瞳で訴えていた成宮。
あの行動は全部、「17歳の私」が一也のことを好きだと知っていたからだ。
そう考えれば全部辻褄が合う。

彼が私の想いを知ったのはいつだったのか…それはわからないけれど…「私」が一也のことを好きだって知っていたのに、それでも一緒にいてくれるのは成宮にとって「それまでの私」がそれだけ大事だったからだ。

もういっかい俺に惚れさせるだけだから

成宮らしいその言葉の通り、私はこれまでの10年間でそんな彼を好きになって……そして結婚したんだ。
そう思い知らされた。



結局、布団で横になっても碌な睡眠を取れず、私は4時過ぎに客間を出た。そして薄暗いリビングのソファーに横になってスマートフォンをぼんやりと眺める。チカチカした発色の光を見ていると、なんとなく後ろめたい気分になった。

昨日一也から届いたメールに返信する気にはまだなれず、かと言って他のアプリを開く気にもならない。
そういえば…私が知っている会員制のコミュニティーサイト。今はもうそんなに利用者がいないのだという。高校生の時あんなに流行っていたのに。プロフィールを書いて、日記をつけたり、あとはそれぞれ好きなコミュニティーに参加して仲間をつくったり…。みんな夢中だった。
だけど今は、短文を呟いたり、あとは自身で撮った写真を投稿したりする「ソーシャルネットワークアプリ」が主流なのだという。
私のスマートフォンの中にも勿論それらのアプリは入っていて一度確認したことがあるのだけれど、どうやら見る専用として利用していたらしく自分の投稿は一切残ってなかった。

スマートフォンの中身には、人柄が出る。
それは多分学生時代の折りたたみ携帯よりも尚更顕著だ。

私の指先は、タッチパネルの画面を行ったり来たりする。ここで"目覚めて"から、使ったアプリといえば成宮に教えてもらったラインと電話の機能ぐらいだった。
他のアプリには「今までの私」の軌跡が残っているのでなかなか触れることが出来ない。
私は私なのに、それでも「空白の期間を生きてきた私」はどこか他人だ。
嫌悪感があるわけではないけれど。
……私は知るのが怖かった。
そんな風に考えていたのに、昨日自分から無理にこじ開けてしまった過去への扉。
その代償が、成宮から贈られた指先へのキス。
嗚呼、結局また、堂々巡りだ。
私はいつまで経ってもあと一歩が踏み出せない。今いるところから歩き出せない。

一度スマートフォンを胸元に置き、天井を見つめ、そしてゆっくりと目蓋を下ろした。
これからどうするべきなのか。
成宮と向かい合うべきだ、と理性が言う。
でも一也への想いは捨てられない、と感情が言う。私は今その狭間にいるのだ。
そしてどちらの道を選ぶにしても、過去を知らなくては歩き出せない。
浅くなった呼吸を元に戻すように何度か深呼吸を繰り返し、そして私はもう一度スマートフォンを手に取った。
指を走らせ、写真アプリをタッチする。

以前、一度それを開いたことがあったのだけれど、綺麗に分けられたフォルダの中に成宮専用のものがあり、それを見た瞬間に、私は怖くなってすぐにアプリを閉じてしまっていた。まだ早かったのだと思う。
今もまだ、そのフォルダを見る勇気はない。
昨夜の彼の真剣な瞳が脳裏を過ぎる。
だからまず、私は当たり障りないであろうフォルダを選んだ。食事の写真や、庭のガーデニングの写真。指をスライドさせて、次々に確認していく。
それを見終わると、次はピアノ教室関連のフォルダだ。
発表会の時の写真だろうか。着飾った子供たちと一緒に映った私の姿。しっかり「先生」の顔をしている。すこし気恥ずかしい。
青道の生徒たちと映った写真もあった。これもしっかりフォルダ分けされている。我ながら本当に几帳面だ。
成宮のフォルダ以外のものを片っ端から見ていき、そうして最後に残ったものは「友達」と名前が付けられたものだった。
意を決してそのフォルダを開く。目に飛び込んできたのは、なんてことない普通のツーショットやスリーショット、大勢で映った写真も。みんなお化粧しているから最初は誰が誰だかという感じだったけれど、よくよく見れば吹奏楽部で苦楽を共にしたメンバーと映ったものもある。その中の、とある一枚の写真を見つけて指が止まった。

「ゆっこの結婚式だ」

ウェディングドレスをきた優子と、パーティードレスを着た私のツーショット写真。
今の私には、親友の結婚式に出た記憶もない。寂しい。悲しい。そんな感情が胸を締め付ける。ふいに過ぎ去った10年が襲いかかってきて、どうしようもなく立ち止まり、動けなくなってしまう。だけど、知らなくちゃいけないのだ。私はまた写真をスライドさせることに専念した。
私と仲良さげに写っている人たちの中には、見知らぬ顔も多い。大学に入ってから出来た友人だろうか。
そしてある程度見進めていくうちに、ふとある人物に目が留まった。

「……このひと、」

見たことがあるような、ないような。
綺麗な顔をした黒髪の女性。彼女だけが写っている写真もあったし、私とのツーショットも何枚か存在していた。

「誰だっけ…」

私の記憶に引っかかるということは、17年間の間に知り合った人物なのだと思うけれど。明確な正解は見当たらなかった。成宮なら知っているかな、と何故かそんなことを考える。礼ちゃんと私が今でも仲がいいということも知っていたし、件の人物と一緒に撮った写真の日付は半年前。成宮が把握している気がした。
それにしても。

「……どっかで、見たような…?」

見知らぬ女性を見て、胸が騒めくのは何故だろうか。
その時、もうこれ以上触れてくれるなとでも言うように、スマートフォンの画面が急に切り替わったいつも設定しているアラームが5時を告げる。私はそれを止めて、スマートフォンをローテーブルに置いた。今日はここまでだ。今更眠気が襲ってきたので目を閉じる。私はただ欲に素直に従うように、その波に身を委ねた。





「それにしても暑いよね」

優子の言葉にふと我に返った。目前に広がっているのは、見知ったグラウンドに白い屋根のテントの列だ。5月の晴天の下、行われた青道高校の体育祭。いつか見た夢のように、私は透明人間よろしくただそこに突っ立っていた。放送部が次の競技に参加する生徒を招集するアナウンスを掛ける声が耳に届く。たぶんこれは…高2の時の記憶だ。その証拠に、目の前に体育座りで優子と話している当時の私の背中のゼッケンは、2-Dの文字。私と優子はクラスが違ったので、競技の合間はテントで待機せず校舎の日陰に腰を下ろしてお喋りに興じていた。

「暑い」
「やっぱり9月にやった方がよくない?」
「文化祭あるじゃん。それに9月もまあまあ暑いよ」
「確かに」

中身のない会話。優子とはいつもそんなやりとりを交わしていた気がする。高校で知り合った彼女とは付き合いこそ短いけれど、部活を通してなかなかに濃い時間を過ごしてきた。
優子は明るくて結構大雑把だ。感性で生きてるところがある。私とは正反対。だけどそんな優子の隣にいるのは、とても心地よかった。

「御幸くん障害物競走出るって」
「うん」

この時、私が一也のことを好きだと知っているのは優子だけで---そして彼女は一也と同じクラスだったからか---時折教室内の彼の様子を教えてくれていた。私は俯き、地面の砂利をガリガリと小枝で穿りながら優子の言葉に適当な相槌をうっている。

「紗南はさ」
「うん」
「御幸くんに告白しないの?」

優子の突然の問い掛けに、私の手がピタリと止まった。ふたりを眺めていた私も思わず息を呑んだ。優子はいつだって突然だった。私は黙りこんで、考える素振りを見せる。そして優子の方にゆっくりと首をもたげた。

「いまはまだ、そんな勇気ない」
「私はお似合いだと思うけどね」
「うーん…」
「2-Bの女子はさ、御幸くんの性格とか人柄知ってるから。だから本気で御幸くんのこと好きだって子はいないよ。でもさ、他のクラスの子とか上級生も下級生も御幸くんのこと好きな子いっぱいいるじゃん。紗南がもたもたしてると誰かに取られちゃうかもしれないんだよ?」
「それは十分わかってるってば」

だけどやっぱりその時の私には勇気がなかった。

一也は、中学2年生ぐらいまで小柄でしかも生意気な性格ということもあってモテることなんて一切なかった。
だけど中3の頃に彼の背がグンと伸びて、そして青道強豪野球部のレギュラー捕手という看板を背負ってからというもの…性格は変わらないのに持ち前の顔の良さで、目に見えて女の子にきゃあきゃあ言われるようになってしまっていたのだ。
もう昔の一也じゃない。ライバルは至る所にいる。いくら幼馴染といえど、自信なんて微塵もない。心を許してくれているとは自覚しているけれど、それでもいま私が一也に告白してオッケーを貰える確証なんてどこにもなかった。

「ま、私はいつまでも紗南のこと応援してるから。当たって砕けろ!」

優子は縁起でもない言葉と共に力強く私の背を叩いた。いぢいぢしている私に一喝。実に彼女らしい。…ああ…懐かしいな…。そうだ、こんなやりとりだった。それからどうしたんだっけ。ずっとこうして喋っていた訳じゃない。そんなことを考えているうちに目の前の私と優子は立ち上がる。耳に届くのは放送部の招集の声。そうか、次は一也が出る障害物競走か。その姿を見るためにテントに戻るのだ。私はふたりの後ろ姿を追いかける。校庭に即席で引かれた白線。フィールドでは、400メートル競争が行われていた。ワァアアアと歓声があがる。目の前のふたりの足が止まる。私も思わず立ち止まり、そちらに視線を動かした。

「……あ、」

声を漏らしたのは、私だ。
ついさっきスマートフォンの中にあった写真で見た"彼女"がそこに居た。びゅんびゅん風を切るように独走し、一番でゴールテープを破ったその瞬間。後ろでひとつに纏められた艶々した黒髪のポニーテールが風に靡く。

「はやー」
「すごいね」
「あの子、同クラだよ。陸上部なんだって」
「へえ…そうなんだ。なんていう子?」
「えっとねぇ」

優子が口にした名前は、私の耳に届かなかった。







「………ッ、」
「…紗南…?」

いつかの目覚めのように。
私の意識は突然浮上した。心臓が早鐘を打っているのは、夢に見た光景のせいもあるけれど…目覚めた瞬間に成宮の顔が飛び込んできたからだ。心配そうな表情で私を覗き込んでいる成宮。状況を整理しようと私は必死に脳味噌をフル回転するのだけれど、どこか虚だ。意識がハッキリしない。

「大丈夫なの…?」
「………なるみや」
「うん」
「なるみや…」

譫言のように成宮の名を呼んだ。確かめるように手を伸ばす。私の指先が彼の頬に触れる。成宮もまた、私の顔の輪郭に触れた。ゆっくりと、ゆっくりと。凪に戻る自意識。吸い込まれそうな成宮の深い群青色の瞳を見つめながら、呼吸を繰り返す。
そうしてどれぐらい経っただろう。ようやく落ち着きを取り戻した時。今更自分が置かれた状況が見えてくる。
私は、成宮に、膝枕されていたのだ。

「っ?!?!?!」
「まっ、て!!急に動くな!」

それに気づくと同時に勢いよく起き上がり、成宮から離れようとしたものの。彼の方が一枚上手だ。起こした上半身を後ろからがっしりと抱きしめられた。鍛えられた上半身に、腰に回った太い腕。力強さで縫い止められて、私は身動きもとれない。

「ななな、なんで…」
「起きてきたらソファーで寝てたから。膝枕ぐらいいいかなと思って。しょっちゅうやってたし」
「……わ、たしは、知らない…よ…びっくり、した……!」
「ごめん。でも言ったでしょ。"存分に意識して"って」
「〜〜〜ッ、」

後ろからの熱い抱擁に加えて、耳元で囁かれる成宮の低音に私の頭はパンクしそうだった。ドッドッと心臓がまた早鐘をうち、身体の先端まで血潮が巡る。喉がカラカラに乾いた。

「"意識"した?」

その言葉に頬がカァアアッと熱くなる。昨日から成宮は随分意地悪だ。私が返す言葉もなく黙り込んでいると、彼はクスクスと笑った。

「また昔の夢でも見たの?」
「…うん」

成宮の問いに頷く。彼の腕は相変わらず私の身体を包み込んで離さない。近い距離。成宮の匂いがする。シャンプーやボディソープ、同じものを使っているはずなのに私の匂いとは少し違うそれ。ドキドキが収まらない。成宮はそんな私のことなどお構いなしといった様子で、私の髪を弄りながら「ふーん」と相槌を打った。

「どんな夢?」
「多分…高2の体育祭…」
「……一也出てきた?」
「出てきてはないよ。ゆっこと一也の話はしてたけど…」
「へえ」

時折見る夢は、そのどれもが「私」の過去の記憶だ。これが"記憶喪失"なら失われた10年間の記憶を夢に見て、思い出すきっかけになったりして、そしてハッピーエンド…なんていうドラマみたいな展開もあるかもしれないけれど、そうじゃないとわかってる。これは"スキップ"だ。人生の"スキップ"。27歳の私の身体の中には「私」の17年間の記憶と経験しか詰まってない。

「…そういえば、成宮」
「なに?」
「確認したいことが、あるんだけど…」

そう言いながら、私はローテーブルに置きっぱなしだった自分のスマートフォンを手に取った。そしてロック画面を解除し、写真アプリを開く。フォルダの中から"夢に出てきた彼女"と私の映った画像を選んで、その画面を成宮に見せた。

「この人知ってる…?」

写真に映った私達はお化粧をして大人になった姿。成宮は、現在の私の友好関係にも詳しい様子だったから勿論"彼女"のことも知っているのだろうと思ったのだけど。

「……知らない」

苦々しい声だけが、私の耳に届いた。彼の顔を見るために振り返ろうとしたけれど、それは叶わない。更に強く抱きしめられて、首筋に顔を埋められた。成宮の吐く息がかかって少し擽ったくて身を捩る。

「本当に…?」
「なんでそんなこと急に聞くの」
「……この子が、夢に出てきたから」
「………そう」

多分、というか絶対。
成宮は嘘をついている。それだけはわかる。これはまだ私の「知っていいこと」じゃないから?でもそれを決めるのは成宮ではない。
私は知りたいんだ。
成宮と一也。
どちらを選ぶにしても、「知らなくてはいけないこと」がある。
それは「私」の知らない10年間に眠ってる真実。
でもそれをまだ上手く言葉に出来ず、私はただただ思案するばかりだった。

知らないと言い切ってしまったのだから、きっと成宮から真実を教えてもらうことは難しいだろう。優子にも聞けない。となれば、

「一也なら、知ってる…?」

その言葉に、成宮がピクリと反応したのを私は見逃さなかった。
優子は"彼女"が同じクラスだと言っていた。つまり一也のクラスメイトだ。ふいに昨日受信した一也からのメールを思い出す。このまま返信して、"彼女"のことを聞いてしまおうかとさえ考えた。とにかく私は必死だった。

「紗南が、」

そんな私を現実に引き戻すかのように、成宮の落ち着き払った声が静かなリビングに響いた。

「どうしてそんなに過去にこだわるのか俺にはわかんないよ。どうして「今」だけじゃ駄目なの」

それは成宮の悲痛な心の叫びのように感じられた。いつかの朝。台所で蹲った私を抱きしめながら「今の俺を見て」と訴えた時と同様のそれ。私の心臓はぎゅうっと縮こまる。乾いた喉から言葉を絞り出す為にゆっくりと口を開いた。

「私は、過去を知らないと「今」と向き合えないんだよ。成宮のことも、真剣に考えたいと思ったから…だから…だから…ッ」

言葉の途中で想いが溢れて、唇を噛んだ。目尻からポロリと一筋の涙が流れ落ちて頬を濡らす。“意識して"って言ったのは成宮の方じゃないか。だから私は私なりに考えたのに。

ハッキリ言って今の私の心はとてもチグハグだった。一也との思い出に縋って、一也への想いだけを胸に抱いて、「今」を生きよう。そんな風に決意したはずだった。
それなのに。
成宮が私のことを大事な宝物みたいに扱って、そして真剣なその瞳で私のことを射抜くから、…今まで異性にそんな風に想われたことのなかった私は、すっかり成宮のことを"意識して"しまっているのだ。
我ながら、単純すぎる。
感情の波が荒立ち、次から次へと涙が溢れかえってきた。

「紗南、泣かないで」

後ろから抱きしめられていた身体が、くるりと反転。今度は真正面から成宮に抱きしめられる。骨が軋む音が聞こえてきそうなほど強い力。私は彼の肩に顔を押しつけて、嗚咽を噛み殺した。

…どれぐらいそうしていただろう。すっかり泣き止んだ頃に、目蓋の腫れた私の顔を成宮は覗き込んで…それからスッと目を細めた。

「『ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である。』」

成宮がふいにそんな言葉を暗唱する。場違いで失礼な話かもしれないが、詩人のような言葉が成宮の口から出たことに私は内心驚いていた。だけどそんな私の考えもお見通しとでも言うように、成宮は苦笑する。

「ウィリアム・ジェームズの言葉だよ。アメリカの哲学者だったかな?」
「……よく知ってるね」
「紗南が教えてくれたから。……ねえ、紗南」
「…なあに?」
「知ってることと、知らないこと。どっちが不幸だと思う?」

成宮の真剣な問いに、私は答えられなかった。