あの夏の名前をしらない



成宮と一也。
それぞれから電話があった夜。
その二日後の木曜日。私は早朝から2階の寝室の隣---成宮曰く物置部屋にいた。確かに物置部屋と言われるだけあって、この部屋だけ他の部屋とは違い少し空気が淀んでいるように感じる。閉ざされたカーテンを開けて朝日を取り込めば、キラキラとした埃が舞った。ついでに窓を開けて換気する。

「えっと…」

物置部屋の中は雑然としていた。
段ボールが詰まれ、それぞれに『鳴』『紗南』と油性ペンで書かれた名前。一応は仕分けされているらしい。それぞれ開けて確認すれば、成宮の箱には球団のノベルティグッズだったり、CM契約している企業の試供品だったりが詰め込まれていた。一方、私の箱にはそれこそ小学生の時に読んでいた本、使っていた文房具など懐かしさしか感じないものばかり。両親が実家を売ってしまった時に多分自分のもの一式をこの家に持ってきたのだろうと察する。

「懐かしい…!」

なんて声を上げてみたものの、すぐにそんなことしている場合じゃないと首を振る。一也との約束は10時。それまでに調べておきたいことがあった。
本当はもっと早くこうするべきだったと思うけれど、成宮が家にいる間には出来なかったことだ。
青道高校の卒業アルバム。
私は今それを探している。

"彼女"の名前を知りたかった。
「過去」に繋がる扉。
今知っているのは、"彼女"が高2の時に一也と優子と同じクラスだったこと。それから陸上部だったことだ。そして「今」現在、"彼女"と私は、多分友達。なんでこんなにも 彼女"のことが気になるのか。それは単に「勘」という言葉でしか言い表せない。成宮の反応、一也の反応。そして私自身が「私」に見せる夢。その全てが"彼女"がそうだと言っている。
彼女が、扉。
騒めく心には見知らぬふりを通した。

私はとりあえず自分の名前の書かれた段ボールを片っ端から開けていく。三つ目に手をつけた箱。それを開いた瞬間、「あ、」と声が漏れた。

「あった」

背表紙には『青道高校 卒業アルバム』の金文字。
校名に結びつくような濃紺の表紙。思わず震える指先で撫でる。
高校の時に使っていた教科書と一緒に仕舞い込まれていたそれ。私はゆっくりと引っ張り上げた。
手元に置いてしまったらもう後には戻れない。
はやる気持ちを抑えきれずに表紙を捲った。
まず真先に目に飛び込んできたのは見慣れた校舎の写真、校章。
次のページを捲れば、先生たちの集合写真。
長尾先生や、礼ちゃん、そして片岡先生や太田先生。私をじっと見つめるように写っている。懐かしい。
だけど感傷に浸っている時間もない。私は次のページ、次のページ、と少し厚い紙を左から右へ捲りあげる。
そして、3-Bのページで手が止まった。
まず真先に目に留まったのは、一也の顔写真だ。みんながだいたい笑顔を浮かべているなかで…相変わらず愛想のかけらもないというか、真顔でこちらをじっと見つめるように写っている。
それから視線を右に移せば、一也と同じ野球部だった倉持くんの顔を見つけた。ふたりは三年間同じクラスだったのか。これもまた腐れ縁。なんだかんだと仲が良かったしなぁと思わず笑みが溢れる。
それから…倉持くん写真の近くに18歳の私の写真もあった。

「3年で同じクラスだったんだ…」

1年生、2年生の2年間。一也と同じクラスになれず4月に人知れず落ち込んでいたことを思い出す。写真の枠に収まった私は、水色の背景の中でなかなかいい笑顔を浮かべていた。
そして、

「……いた」

"彼女"だ。
整った顔立ちに綺麗な黒髪。少し涼しげな目元。意思の強そうな瞳がこちらをじっと見つめている。和風美人。そんな言葉が似合う綺麗な子だった。

立花 旭 

写真の下にはそんな名前の印字。
私はその文字を頭に叩き込む。

「たちばな、あさひ…」

そして、馴染むように何度も口に出して呟いた。


彼女の名前を覚えた私は、とりあえず当初の目的は達成。ということでひとまず卒業アルバムをもって一階に降りる。このままアルバムを眺めていると懐かしさに浸って一也との約束の時間に遅れてしまう気がした。彼は今日もナイターの試合に出場予定で、球場に向かう前に私と会う段取りをつけてくれたのだ。一也から誘ってきた話とはいえ、わざわざ時間をつくってくれたのだから、遅刻だけは避けたい。

とりあえず卒業アルバムをリビングのローテーブルへと置き、簡単な朝食をつくってお腹を満たし、朝の家事を素早く済ませる。
着ていく服は昨日から決めていた。手持ちのワードローブの中で一番可愛い花柄のワンピース。フォーマル過ぎずかといってカジュアル過ぎず。

「我ながら気合入っている」

と呟いてしまうほどには、お化粧もきちんと念入りに施す。
こんな私の姿を見たら、成宮はなんというだろう。まるでデートに行くみたいだね、とまた悲しげな表情をするかもしれない。
罪悪感がないわけじゃない。
でもせめてこれぐらい許してほしいと思う。あの当時、一也と出掛けることなんて出来なかった。そして今日が最後かもしれないのだ。本当はずっと、わかってた。

私は今日、「過去」にケリをつけにいく。
そして、見て見ぬふりをしてきた「真実」を手にするんだ。

そんな決意を胸に、私は成宮の家を出た。



一也が待ち合わせ場所に指定したのは、私たちの地元にほど近い駅近くの喫茶店だった。最寄り駅に降り立った私は一也から送られてきた地図の画像を頼りに、駅前の商店街の片隅にあるその店を目指す。無事店の前まで辿り着き、彼に電話を掛けたら既に店の中にいるらしい。私は木製の扉をソッと開けた。チリンチリンとベルが来客を知らせる。所謂「純喫茶」風の店内は少し薄暗かった。窓から差す陽射しが強く外の風景が白く感じるからだろうか。コントラストで余計に暗く感じる。私が目をこらしてきょろきょろと店内を見渡せば、窓の近くのソファー席に座っていた一也の姿が真先に目に入った。

「紗南」
「ごめん、少し遅くなった」
「いや俺も今来たとこ」

そんな会話を交わしながら、テーブルを挟んで一也の対面に腰を下ろす。
すぐに店員さんがお水を運んできた。

「なにか頼んだ?」
「まだ」
「…そう。飲み物だけにしようかな」
「俺もそうするよ」

そうしてメニューの中から、私はメロンソーダを選び、一也はアイスコーヒーを選んだ。珈琲を頼む一也が随分大人びて見える。反面私のチョイスはとても子供だ。無理してでも珈琲を頼めば良かった…。なんて考えが手にとるようにわかるのか、一也はニヤニヤと私を見つめている。思わず唇を尖らせた。

「…なに」
「いや〜相変わらずメロンソーダ好きだなと思って」
「好きだよ」
「いつもメロンソーダかジンジャーエールだったもんな」
「…うん」

一也の言葉に頷く。
いつも、というけれど。
ふたりでよく出掛けたのは中学生までの話だ。

私の相槌に一也の言葉は続かず、私たちは頼んだものがそれぞれの手元に届くまでただジッと待っていた。店内は多分近所に住んでいるおじいちゃんやおばさま達の井戸端会議でそれなりに繁盛している。誰も一也と私のことなど気にしていなかった。側から見たらカップルに見えるだろうか。そんな馬鹿みたいな考えが頭を過り、すぐに首を振る。
それにしても一也はプライベートで出掛ける時の成宮のように帽子を被ったり眼鏡を掛けたり(一也の場合はいつも眼鏡だからこの場合は外したり、だろうか)なんて軽い変装をするわけでもなく、ただあるがままの格好でそこにいた。高校生の時と対して変わっていない。相変わらずそういうところは無頓着なんだろうか。それでも誰にも気づかれない。成宮曰く一也もかなり人気選手の筈なのだけど。
そんな疑問を手元に届いたメロンソーダを飲みながら一也にぶつけてみたら、彼は「俺は結構気付かれねぇよ?」と笑った。

「そうなんだ」
「まあ、そうは言ってもファンにはよく気付かれるけどな。でも前に「声掛けられるの嫌い」ってテレビで言ったらそれっきりめっきり減った」
「…相変わらずだね。成宮とは正反対」
「鳴が特別なんじゃねぇの?あいつファンサ用にいっつも油性ペン2本は常備してるし」
「…ふふ、成宮らしい」
「チヤホヤされるの好きだからなぁ」

それからしばらくは、成宮の話が続いた。お互いの一番の共通の話題と言えばそれだけだったからだ。私は今一也がどこに住んでいるのかも知らないし、野球以外で何に興味があるのかも知らない。
10年前は学生という立場もあり、部活を離れれば勉強の話が出来たのだけれど。今はそういうわけにもいかない。
思えば私たちは青道高校に進んでから、ふたりっきりで過ごすことなど殆どなかった。小学生の時は、中学生の時は、一体どんな話をしていただろうか。そんなことを考えていた私に、一也は少し神妙な顔つきであることを指摘した。

「それにしても、いつまで鳴のこと成宮って呼ぶつもりだよ」
「………ごめん、つい癖で」
「まあわかるけど」
「…私は…なる……彼のことなんて呼んでたの?」
「鳴」
「…鳴」

一也の言葉を繰り返すように呟いた。

「名前で呼んでやると喜ぶよ。鳴はほんとお前にベタ惚れだったしな」
「…ベタ惚れ…」
「アイツは自覚してないけど、多分ずっと紗南のこと好きだったと思う。それこそ最初から」

一也の言葉に、
(成宮本人はそんなこと一言も言ってなかったけど…)
なんて心の中で一也に対して反論してみるものの、だからこそ"無自覚"なのかもしれないとも思う。第三者から見える景色もあるのだ。
それにしても一也がそんな風に鳴の気持ちを察しているなんて意外だった。
誰が誰を好きとか。
そんなことにあの頃興味があるようには見えなかったからだ。
でも…成宮のことをそういう風に語るのであれば、一也自身も…。
思わず唾をのんでごくりと喉を動かした。

「一也は、」
「なに?」
「一也は、私のことどう思ってたの?」

メロンソーダのグラスを握る掌に力が入る。それはずっと彼に尋ねたかったこと。テーブルの木目に視線を落とす。
この際だから聞いてしまいたかったのだ。
一也の顔は見れない。ただじっと彼の言葉を待つ。

「大事な俺の幼なじみ」
「………」
「昔も今も、それは変わらない」
「……うん」

一也の声には迷いがなかった。
心臓がぎゅうっと絞られる感覚。
思い出すのは、秋大の決勝のあの日。タクシーに乗り込む前、倉持くんと前園くんに私のことを「俺の幼なじみ」と紹介した時のこと。結局、10年経っても私たちの関係は変わっていないのだ。

「わたし…、わたしは…」


「私」は一也が好き

その一言が口に出ることはなかった。
一也が私の手に彼の大きな掌を重ねたからだ。手の甲に感じるじんわりとした熱と、内側に感じるグラスの冷たさ。まさか一也の方から私に触れてくれるなんて思いもよらず、肩がピクリと震えた。
心臓の音が煩い。
ようやく顔を上げて、私は彼の顔を見た。
高校時代と対して変化のないデザインの眼鏡。そのレンズ越しに色素の薄い瞳がこちらをジッと見つめている。

「その言葉は聞けない」

淡々、と。
淡々と一也は私にそう言った。
一瞬、私の頭は真っ白になる。
聞けないってどういう意味?
そんな疑問が表情に出ていたのか、一也は小さな溜息を吐いてからゆっくりと口を開いた。

「今、紗南は鳴の"奥さん"だろ」
「わか、ってるよ…?!でも、わたしの…「私」の気持ちを無視しないでよ…!!」

カッとなり、つい声が大きくなる。
でもこれが「17歳の私」の本音だった。
成宮と結婚してるから、なんて。
その立場は「今までの私」が選んできたものだ。「私」じゃない。

「紗南」

一也が私の名前を呼ぶ。
落ち着かせるような声音。
それでも私の昂った気持ちは、とめられない。目の前に座る一也の姿がじんわりとぼやける。両目に張った薄い膜がゆらゆらと揺れた。

傍から見たら私たちは別れ話でもしているカップルに見えるだろうか。近くに座っていた井戸端会議のおば様達がコソコソと顔を寄せ合って私たちをチラチラ見ているのが分かる。それでも私は止まらなかった。もうここまで来てしまったら止まれない。
覚悟をしてきたのだ。

「私たちの間に、なにがあったの」

その質問を以前成宮にぶつけた時、彼はそれを知れば私が辛いだけだと言った。

「なにもなかったよ」
「…なにも?」
「"なにも"なかった」

そう言って苦笑交じりに微笑む一也が、嘘をついているようには感じられない。

私と一也の間には、"なにも"なかった。
"なにか"あったのは、私と成宮だ。
彼との会話を必死に思い出す。
成宮は夏が終わってから私に連絡を取るようになったと言っていた。
秋を経て、付き合うようになったのは冬。

---あの時は、紗南にとって目標がそれしかなかったから目が本気だったね

ふいに思い出す成宮の言葉。
夏が終わって「一也を応援する」という青道に入学した最大の目的は達成されたわけだから、その言葉の通り当時の私はただ純粋に吹奏楽部に取り組んでいたのだろうと推測できる。
でも。
少なくとも「17歳の私」は、ドラフトが終わる頃に一也に告白するつもりだったのだ。
それなのに私は高3の夏以降成宮と会うようになって、

---最終的には俺を信じたよ。俺を好きになってくれた。

成宮が言ったその言葉が本当なら。
きっと彼と会うことにした時にはもう私の気持ちに変化があったのだ。
私たちの間には"なにも"なかった。
そうなると、答えはひとつ。

「……立花さんと一也の間には…?」
「………」
「なにがあったの?」

一也と"誰か"の間には"なにか"があった。

パンドラの箱がゆっくりと開かれる音がする。本当は最初から理解ってた。ずっと見てみるフリをしてきただけ。

「…立花のこと、「今」の紗南はどれぐらい知ってんの?」
「名前と陸上部だったこと。あとは3年生で私達と同じクラスだったこと。今日卒業アルバム見てきたから」
「そっか」

一也は、私の言葉にゆっくりと頷いた。未だに私の手と一也の手は重なったまま。彼の真剣な表情から目を離すことが出来ない。

「俺は、」

一也の眼鏡越しの瞳が、昔を懐かしむようにそっと細まった。

「俺は立花と3年間同じクラスだった」
「……うん」
「紗南と立花が仲良くなったのは、多分高3の冬だと思う。その辺りは詳しく知らないけど…今でも時々ふたりで会ってるのは知ってる」
「私と立花さんは、友達…?」
「親友だよ」

---親友。
その言葉は、どこか遠い。
だって「私」は、親友の名前を今日知ったのだ。
それにここに至るまで、その親友から連絡ひとつなかった。
どうして?
考えられるのは、ひとつ。
成宮と一也が根回ししていたに違いない。
私と立花さんが会うことで、露呈する「過去」がある。
成宮が必死に、私に隠していた「過去」。
それは、

「一也と、立花さんは、今でもよく会ってるの…?」
「会ってる」
「………」
「立花は……、旭は、」

一也の唇が、真実を紡ぐ。
カランカラン、と。喫茶店のベルがなる。
その音が妙に耳に残った。

いつだって私の一番は一也で、一也の一番は野球で。でも私は誰よりも一也の一番近い場所にいた。ずっと見守ってた。
甲子園に行きたい、と。甲子園に連れてってやろうか、と。
約束した。

聞こえてたよ、お前のトランペット。
甲子園でも頼むな

約束、したのに。


「今は御幸旭。俺の奥さん」


私はあの夏、どういう気持ちで一也を見つめていたんだろう。