何かを失うのに最適な日



高2の秋大決勝の後にさ、診察受けた病院で旭とたまたま会ったんだよ

旭もそん時、部活で怪我してて

それからリハビリとかで顔合わせるようになって、よく話すようになった

付き合い始めたのは、高3の夏大が終わって引退してから



でも俺はずっと

それこそ高1のころから

旭のことが




---好きだった。
もう何度その言葉を心の中で呟いただろう。午前中に晴れていた空は、午後になるにつれて雲行きが怪しくなり今は窓を小雨が叩いている。
薄暗いリビング。
帰宅してすぐに取り込んだ洗濯物はソファーに山積みで、私はそれに手をつけることもなくただ膝に乗せた青道の卒業アルバムの表紙をぼんやりと眺めていた。

どれぐらいそうしていたのだろう。
我に返ったのは、玄関の扉が開く音が耳に届いたからだ。それでも身体は動かない。くしゃくしゃに丸まったティッシュペーパーの山を片付ける気にもならない。ただ私は、その時をジッと息を殺して待っていた。

「ただいま〜……っ、て、紗南…?」

リビングのドアを開けて中に足を踏み入れた成宮の驚いた声。パチンと部屋の電気が点灯する音。慌てて私の側に駆け寄った成宮の足音。その全てが遠い。

「なにがあったの」

肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。怖い声。真剣な表情。吸い込まれそうなほどのブルーが私をジッと見つめている。その途端。もう枯れ果てたと思った涙が、ぶわり、と溢れ出して頬を伝った。

「……、一也と、会った」
「ッ、ば、」
「………」
「馬鹿じゃないの…?!」

言われると思ってたけど。
やっぱりそんな風に直接叱咤されると、辛い。成宮から顔を逸らして唇を噛んだ。そんな私を、成宮は強い力で抱きしめる。私は彼の肩に顔を埋め、嗚咽を漏らして、更に泣いた。


ずっと知りたかった「過去」は、はっきりと言ってしまえばとても単純な話だった。
私の願いが、叶うことはなかった。
ただそれだけだ。
一也への想いを私が一也自身に伝える前に、彼は立花さんと付き合い始めた。
結局私はずっと前に失恋していたんだ。
それを今、思い知らされただけ。

(…本当は…)

ずっと前から気付いてた。
だってそうじゃないと「今」に繋がることはないのだから。
だから、きっとそうなのだろう、と。
そんな覚悟を持って一也に会いに行ったというのに。それなのに。

「……馬鹿だなぁ」

私のことを抱きしめながら、成宮はさっきと同じ言葉を私に贈る。だけど、そのトーンはとても優しくて。成宮の手が私の頭を撫でる。私は鼻をすすった。

「紗南は結局、おんなじこと繰り返してる」
「うん」
「俺はこうなることが一番嫌だったのに」
「……ごめん」

私が謝れば、成宮の口から「変なところで行動力あるよね」という苦笑交じりの言葉が続いた。
私は小さく「うん」と頷く。
そんな少し落ち着いた様子に安堵したのか、ゆっくりと離される身体。また顔を覗き込まれて、見つめられる。成宮の指先が、私の頬を流れる涙をそっと拭った。

「一也に全部聞いたの?今までのこと……これからのことも?」
「……うん」
「…そんなに泣くほどショックだった?」

成宮の問いに、思わず黙り込んだ。

一也からその「事実」を聞いた時。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は鋭いナイフが刺さったかのような衝撃を受けた。それは確かだ。だけどその気持ちを、ただずっと私の傍にいてくれて、私を想ってくれていた成宮に、吐露していいものかと悩む。

「全部話して」

成宮の掌が私の顔を包み込んだ。
コツン、と触れる額同士。
彼の息遣いが近い。私はそっと目を伏せる。丹念に塗ったマスカラが落ちて貧相になった睫毛が震える。
ゆっくりと、唇を開いた。

「本当は私ずっとわかってたの。一也のことは好きだったけど、付き合ってる未来が想像できなかった。野球よりも私を、大事に、してる…一也なんて…ッ」
「うん」
「……だから、失恋したことに、納得は、してる」
「うん」
「でも、私以外の、誰かが、一也の傍にいる、姿、なんて、見たくないし…ッ「結婚してたんだね、おめでとう」なんてまだ言えない…っごめん、なるみや…」
「それでいいよ」
「……ッ」
「いまはまだそれでいいよ」

「17歳の私」に言い聞かせるような優しいおまじない。
私はまた成宮の肩に顔を埋めて、とにかく泣いた。声が枯れて、身体中の水分が枯渇するんじゃないかってぐらい。
成宮に抱きしめられながら、一也を想って…ただ泣いた。





それから。
散々泣いて泣いて泣きたくした私に、成宮はうどんを作ってくれた。
ふたり並んで、リビングのラグの上に腰を下ろしてテレビを見ながら、麺を啜る。

「成宮は、」
「なに?」
「……どうしてそんなに私に優しいの?」

出汁が洋服に飛ばないように気をつけながら、今までずっと思っていたことをこの際だから聞いてみた。
自分じゃない誰かを想って、勝手に失恋してた女を、どうしてあんなにも愛しげに抱きしめてくれたのだろうか。甲斐甲斐しく世話を焼いて、どうしてこんなにもずっと傍にいてくれるのだろうか。
私だったら、多分とっくに愛想を尽かしてる。「私」の知ってる成宮も、多分そんな人間だったはずだ。それなのに「今」の成宮は、まるで別人のようにただただ慈悲深い。
テレビから流れる夕方のニュース番組をじっと見つめていた成宮は、視線を外して考え込む仕草を見せた。それから少し顔を動かして、私をジッと見つめる。

「前にも言ったけど、俺は紗南が好きだから。一也のことが好きだった紗南のことも全部ひっくるめて愛してるんだよ」

揺るぎない言葉。
---愛してる。
電話越しで聞いたその言葉を、今度はきちんと目を見て、私に贈る。
この間と違うのは、つい零れ落ちた言葉なんかではなくて、それが成宮の意思だということだ。
私は返す言葉を持ち合わせていない。
申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ち。
急に切り替えられるほど私の気持ちは単純じゃない。
だけど、今はただ、成宮のその言葉だけが私にとって救いだった。



夕食を食べ終わった後。
ふたりで食器を片付け、それから洗濯物を畳んだ。成宮はその間もずっと私の傍にいてくれる。ひととおり家事が済んだら、先にお風呂に入るように言われたので素直に従った。
その時、「そのワンピース可愛いね」と。
リビングを出て行く私にそんな声をかけた成宮に対して、ただ小さく「ありがとう」と返すことしかできなかった。


朝、気合を入れて施したお化粧も、もうすっかり涙と共に流れ落ち、ティッシュペーパーに拭き取られた後だったけれど、念のため洗面台でクレンジング。それが終わってから服を脱いで、浴室へ。
熱い湯船に身体を沈める。
自然と大きな息が漏れた。

「………」

天井を見上げる。
張り付いた水滴がぽつりぽつりと今にも落ちてきそうだった。
それを眺めていると、ふいに一也の声が私の脳裏に蘇る。


大事な俺の幼なじみ
昔も今も、それは変わらない


(…幼なじみ…)

思い出して胸が冷たく固まって、ぼろり、と涙が溢れ返る。
一也の傍にいることが「私」にとっての誇りだった。それなのに。

一也は私の傍にいてくれなかった。
もうずっと、ずっと、わかってたことじゃないか。嗚咽が漏れ、それを抑え込むように唇を噛む。思い知らされただけだ。
一也が教えてくれた「真実」を再度確認するかのように心のうちでなぞる。

一也たちが付き合い始めたのは夏が終わってから。私と立花さんが友達になったのは、冬。その頃に私は成宮と付き合い始めた。
成宮と一也はそれぞれプロへ、そして私と立花さんが大学へ進学してからは、時々四人で会うこともあったのだという。
5年前。
私と成宮の結婚式には一也と勿論立花さんも出席した。それきりどうしてだか私は一也と会うことはなかったけれど、立花さんとはよく会っていたらしい。……"親友"だったから。
一也と立花さんが結婚したのは、去年。
結婚式はまだ挙げてない。
………今、立花さんは妊娠していて。
もうすぐ一也の子供が産まれる。

それを聞いた時。
私は頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。
子供。
一也の子供が、産まれる。

何度もその事実を頭の中で呟いた。
その度に熱い涙がぼたりぼたりと私の頬から流れ落ちては、湯船に消えるのだ。



お風呂から上がった私の姿を見た成宮は、多分また泣いたことを察したのだろう。でも赤い目に触れることはなかった。それから彼もすぐに入浴する為に浴室へ。
成宮がいないリビングで私は何をするでもなくぼおっと過ごした。青道の卒業アルバムはローテーブルに置いたまま。手を伸ばす気にはなれない。
三十分ほどした後、成宮が戻ってきた。
「気でも紛らわそうか」という彼からの提案でふたりで映画を見ることになる。
今はディスクを持っていなくてもテレビとインターネットが繋がっていれば、動画配信サービスなどに登録されている映画であれば好きなものを観れるのだという。
成宮が手慣れた手つきで選んだアクション映画をソファーにふたりで腰掛けて鑑賞する。アクションものはあまり見たことがなかったけれど、なかなか面白かった。余計なことを考えずに済む。これが恋愛映画だったら、私の涙腺は多分また決壊していただろう。
これもまた、成宮の気遣い。
成宮が選んだ映画は、どうやらシリーズものらしく時折よくわからない台詞だったり意味あり気なシーンが挿入されていて理解できないところもあった。その度に「これ伏線なんだけど、」と彼の注釈と説明が入る。 

「…私も、よくこういう映画観てたの?」
「んー、俺が好きだから一緒に見ることもあったけどそんなに好きじゃなかったんじゃない?よく観てたのはヒューマンドラマとか、あとは恋愛系かな」
「そうなんだ」
「音楽がテーマの映画は細かいところが気になってあんまり好きじゃないって言ってた」
「……あー…」

思い当たる節は「私」にもある。
同族嫌悪とはまた違うかもしれないけれど、なんとなく見る気がしないというのだろうか。そういう感性は変わってないのだろう。
そんな会話をポツリポツリと交わしながら、飛躍的に進化しているCG映像をぼんやりと眺めていた。
ふいに、成宮が私の方に身体を傾ける。彼の柔らかい髪が私の首筋を擽った。

「紗南」

成宮はただジッと映画を見つめながら、なんでもないことのような口ぶりで私の名前を呼んだ。

「俺はずっと紗南の傍にいるよ」

部屋中に鳴り響く銃声に掻き消されることなく、その誓いは私の耳に届いた。
その真っ直ぐな言葉に、うん、と頷く。

それが多分一也と成宮の違い。
最初は頑なだった心が、ゆっくりと解されていく感覚。

どうしてここにいるの?って聞かれても、嫌いだと思ってたって言われても、私が人知れず一也のことを想っていると知っていても。
それでも私の傍にいてくれた成宮。

私は、自分の太腿に置かれていた彼の右掌に自分の手を重ねた。
暖かい。
成宮がピクリと動くのがわかる。

今まで私の心はずっと過去に囚われていたけれど、今日一也に会ったのは「今」と向き合いたかったからだ。
過去を知っているうえで私のことを愛してるって言ってくれる成宮と、向かい合いたいって思ったからだ。

成宮を好きになりたい。
私も心から、彼を、愛してるって言いたい。

「め、い」

その声は思ったよりも小さく、そしてすごく震えていた。そんな私の声に、成宮は一瞬、息を詰まらせる。

「鳴」

確かめるように、馴染ませるように、もう一度。
それは確かに意思を持っていた。
成宮が、鳴が、私の頬に左手を伸ばす。熱を孕んだ指先が、耳の付け根から顎にかけての曲線を撫でた。潤んだ青色が、ただジッと私を見つめている。

「ようやく俺を見てくれるの?」
「…うん」
「俺を、好きになってくれる?」
「……好きに、なりたい」

ヤケクソなんかじゃない。
心からそう思う。
今度は、今度こそは。
誰かの---鳴の、隣に立ちたいと思った。


ふたりで見つめあっているうちに、気付いたら映画はエンドロールに突入していた。劇中に流れていた曲が代わる代わる耳に入ってくる。鳴の指先が、私の唇にそっと触れた。びくり、と。思わず肩が強張る。そんな反応に、鳴は少し困ったような表情。私は思わず(しまった)と自己嫌悪に陥った。
口では前向きなことを表明しても、まだ早い、と身体が反応する。

「…キスは、まだしない」
「………ごめん」
「俺はしたいけどね。でももう少し、紗南の気持ちが落ち着いてからの方がいいでしょ」
「……うん」
「…だからさ」
「うん」
「……今日は、一緒に寝てもいい?」

なにもしないから、と。
鳴は私の耳元で囁いた。途端に、私の頬はボッと火のついたように真っ赤になる。
それは、キス並に、ハードルが高いと思うのは私だけだろうか。

「……なんにもしない…?」

それでも、これも第一歩。
---ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である
鳴がいつか教示した格言を思い出し、私は彼の顔をじっと見つめて尋ねた。

「〜〜〜ッ」
「……?」
「…それ、ほんと、反則」

一瞬、頬をかすめる柔らかな感触。それが鳴の唇だと気付いたのは、私が彼のその熱い胸板に押し付けられるように抱きしめられた後だ。ドクドク、と。彼の心臓の音が聞こえる。

「……ごめん、前言撤回」
「………」
「キスさせて」

切望するその声の熱さに、私の脳味噌は溶けた。身体全体、何もかもが熱い。鳴の胸に顔を埋めたまま、コクン、と頷けば。
彼の左手が私の顎を掬い上げた。顔を持ち上げられ、じっと見つめられる。その透き通るような青い瞳の奥に私の姿が見えた。
茹で蛸みたいに、真っ赤な顔。
恥ずかしくなって思わず目を閉じる。
しかし、ハッと気付いた。
これではまるで期待して自分から強請るような、そんな形になってしまったのではないだろうか。
それを自覚して目を開いて口を開こうとした。だけど、待って、という言葉は形にすらならない。
グロスも何も塗っていない唇に、ふにっとした柔らかい感触。
---キスされてる。
私、鳴とキスしてる。
ずっと憧れてたファーストキス。レモンの味もしなければ、夢見てた相手ではないけれど。
その瞬間私の胸には燈が灯る。
時間にしたらきっとほんの数秒。
それでも、私にはうんと長く感じられた。

「………」
「………」

唇が離れた感触に、私はゆっくりと目を開く。鳴は私の顔を、私は鳴の顔を。私達はしばらく無言でただ見つめあった。

「…どうだった?」
「……それ聞いちゃうの?」

鳴の言葉に思わずそんな言葉で聞き返せば、鳴は「あああ」と呻き声を漏らし頭を掻く。逸らされた顔。色素の薄い髪の毛の隙間から見える彼の耳はほんのりと赤い。

「……ほんっと、なんで俺ってこんな余裕ないんだろ」

そんな姿が可愛い、なんて。27歳の彼に伝えたら鳴は怒るだろうか。

「……もう寝る?」
「…うん」

私が頷けば、立ち上がるように促された。テレビを消して、ふたりでリビングを出る。寄り添って、2階への階段を上がった。今朝、物置部屋で卒業アルバムを探した時には想像もしなかった結末だ。
向かう先は、"初日"以来の「私たち」の寝室。
あの時に感じた一抹の不安だとか嫌悪感。それをもうこの胸に抱くとこはない。
ただ少しの羞恥心。
鳴が寝室の扉を開け、先に私を通した。
そして敷いてあった掛け布団をめくりあげる。ネイビーブルーのカバーと対比して、ダブルベットの白が眩しい。
私はおずおずとベッドに腰掛け、そしてゴロンと横になった。
鳴は部屋の電気を消して、私の横に寝転がる。途端に恥ずかしくなって身体を横向きにすれば、後ろから腰に回される彼の太い腕。僅かな息遣いが耳元を擽った。

「…、紗南」
「……なあに」
「ありがとう」

私はただその言葉に小さく「うん」と頷いて、ゆっくりと目蓋を下ろした。
背中に感じる温もりが、とても心強く、そしてやっぱり羞恥心を煽るのだけど。
それでも。

(これが、"しあわせ"って気持ちなのかな)

じわじわと、じわじわと。
私の中の一也への想いが塗り替えられていく。そんな、感覚。
新しい「私」が、鳴によってつくられていく。

予感がするのだ。
胸を焦がすほどの、予感。

今はまだ。
まだ、春の鼓動を知らないけれど。
「私」はこれからこの人に恋をしていく。

そんな想いを胸に抱えながら微睡みながら、夢の中の甘いミルクの海に沈んでいくのだった。