誰のせいにして泣く?



聴き慣れない目覚まし時計のアラームの音が耳に届き、私の意識は夢の世界から浮かび上がった。目を覚ます。
重たい目蓋を何度か瞬きさせる。
……なんだか鈍い。どうしてだろう…腫れてる…?と考えを巡らせたところでハッとした。
昨日のことを思い出したのだ。
一也と会ったこと。
帰宅してから散々泣いたこと。
そして同時に、自分の腰に巻きつくようにして、抱きしめる存在に気づく。

「……なる…、……めい…」

つい昨日までの呼び方を口に出してしまいそうになったけれど、直ぐに新しい呼び名を呟いた。…慣れるまでしばらくかかりそうだ。意識していかないと。

(…それにしても…)

なにもなかったとはいえ、男の人と一晩こうして同じベッドで眠ることがこんなにもドキドキすることだったなんて。高校生の私には刺激が強すぎる。背中に感じる成宮の逞しい胸板とか、腕の太さ。暖かさ。改めて意識すると、頬に熱が集まる。首筋に感じる微かな寝息。鳴が後ろにいるのだ。それを意識しただけで、胸の鼓動が早まった。
このままじゃ、心臓がもたない。

「……起きないと…」

もぞり、と身体を動かして鳴の腕の中から抜け出そうとしたのだけれど。

「……もう起きるの?」

耳元で低音が囁いた。びくりと身体が跳ね上がる。あっという間に反転。気づけば私の顔は鳴の胸に押し付けられるように対面で抱きしめられていた。思わず息を呑む。彼の顎が私の頭に乗る。大きな掌が、髪を撫でた。

「…め、い…起きてたの…?」
「んー?」
「………ねぇ…」
「…ふふ」

私の問いかけに鳴は起きているのか寝ぼけているのかわからない返答だ。寝言のようにも聞こえる。ただひとつわかるのは、彼が随分嬉しそうなこと。そして私を抱きしめる腕に力が篭るものだから…うん、これは、起きてるな。どうやらまだしばらくこうしていなくてはいけないらしい。強要ではないだろうけれど…鳴がそれを望んでいることが伝わってくる。顔は見えないけれど、何だか楽しそうな雰囲気。

「鳴」
「なに?」
「…なんでもない」

昨日はありがとう、というのは何だか違う気がした。勝手に一也に会いに行って、これまでの鳴の気遣いを全部無駄にしてしまったのは私自身だ。それでも、恋に敗れた情けない私の側に優しく寄り添ってくれた昨晩の彼を思い出して胸が暖かくなる。

「紗南」

不意に名前を呼ばれて、私は顔をあげた。
ようやく鳴と視線が交わる。豊かな睫毛に縁取られた猫みたいなアーモンド型の瞳。透き通るようなブルーがジッと私を見つめている。言葉にできない感情が身を包んだ。

「…ぷっ」
「…?」
「目、すげぇ腫れてる」
「!?…笑わないでよ…」

自覚はあったけれど、笑われるほどなのか。
恥ずかしくなって思わず鳴から視線を外して、また彼の胸に顔を埋める。すると、するりと鳴の掌が私の頭から頬へと伝い、指先で顔を持ち上げられた。

「ごめん、つい。紗南が可愛くて」
「…可愛くないよ」
「可愛いよ。俺には紗南が一番可愛い」

そんな言葉と共に、鳴の唇が私の腫れた目蓋にそっと触れる。突然のことに息が止まった。私への確認も何もない流れるような行動。唖然としているうちに、彼の視線はゆっくりと下へ。そして…。

「…んっ、」 

ゆっくりと重なる唇。すぐに離れるかと思ったのに、そのうちぬるりとした感触が僅かに空いた唇の隙間から入り込んでくるものだから、驚いた。びくりと身体が大きく跳ねる。嫌悪感というよりは羞恥心から思わず成宮から逃げ出そうとするものの、腰に回った右腕が私の体をがっちりと押さえ込んでそれを許してくれない。

「ふ…ッんん…」

くぐもった声。口端から漏れるそれはまるで自分のじゃないみたい。…これって、所謂…ディープキスっていうものだよね…?なんて思っている間に、ゆっくりと離れる鳴の唇。最後に赤い舌が名残惜しそうに私の下唇を舐めた。それがあまりにも生々しくて、私の頬は火がついたように熱くなる。

「………嫌だった?」

行動しておいてそれはない。鳴は私をジッと見つめてそんなことを聞くのだ。しかも捨てられた子犬みたいに目をうるうると潤ませて…!……これは、絶対、確信犯だろう、なんて思ってしまう。

「い、嫌じゃ…ないけど……急には…びっくりする…」
「嫌じゃないんだ?」
「だって……夫婦、だし…」

いつまでも甘えているわけにはいかない。そんな風に思うのだ。
「昨日」までの私とお別れしなくては。新しい「私」を鳴とともに生きていかなくては。昨日、そういう風に心に決めたのだから。そんな私の決意を知ってか知らずか成宮は、私の顔をジッと見つめ、そしてフッと笑みを溢した。

「やっぱり紗南は何にも変わってないね」
「え…?」
「…ううん、こっちの話」

鳴はそう言うと、もう一度私の唇に軽いキスを贈った。それで一応満足したらしい。腰に回っていた腕の力が弱まる。そのまま起き上がった彼に続くように私も上半身を起こした。「お手をどうぞ」なんてまるで王子様みたいな台詞でベッドから降りるのもエスコート。…鳴は、なんだかとても、楽しそうだ。理由はよくわからない。だから「どうして?」と尋ねてみる。すると彼は腕組みをしたまましばらく考え込む素振りを見せて、それからゆっくりとその唇を開いた。

「俺はずっと待ってたから」
「……?」
「紗南が俺と向き合ってくれること」

ようやく俺を見てくれるの?
俺を、好きになってくれる?

昨晩聞いた、鳴の切実な願い。
「今までの私」が、「私」になって3ヶ月。たった3ヶ月だ。それでも彼にとっては途方もない日々だったに違いない。鳴に強いてきた苦痛。それを考えると胸が痛む。…これから、私に出来ること。私にしか出来ないこと。どうすればいいんだろうか。そんなことを考えながら、鳴と寄り添って寝室を出て階段を降り、リビングへ。
鳴は私の隣で相変わらず上機嫌だ。
調整と練習で昼前には家を出るけれど、夕方には帰ってくるから夕飯は一緒に食べよう。そんな彼の提案に頷く。

「ねぇ、久しぶりに朝食作ってあげる」
「え…、でも…」
「大丈夫。ホットケーキなら包丁使わないから」
「…ホットケーキ…」
「なに?」
「…ううん、なんでもない」

あの成宮とホットケーキなんて、随分とミスマッチだ。つい昨日までの呼び名で呼んでしまい、ちょっとだけ笑みが溢れた。私の傍にいてくれる彼はもう私の知ってる"成宮"じゃない。ずっと自分自身に言い聞かせてきた事実が、「過去」から踏み出せずに躊躇していた私にようやく染み渡る。私にとっての"鳴"を、これからどんどん見つけていくのだろう。少しずつ、少しずつ。

「よく作ってくれてたの?」
「時々ね。多分紗南よりも上手に作れるよ」
「本当かなぁ」

ホットケーキに随分自信があるらしい。リビングで待ってて、との言葉に甘えて私はソファーに腰を下ろした。キッチンに姿を消した成宮の背を見送って、テレビをつける。朝のニュース番組を見ることにも慣れた。しばらく暑い日が続くでしょう。お天気コーナーで告げられる週間予報。ふいに昨日訪れた喫茶店に差し込む強い光を思い出す。振り払うように首を振った。天気予報の次はエンタメコーナー。若い女性アナウンサーが目まぐるしく芸能界のニュースを伝えていく。知らない芸能人の話ばかりだ。

「あ、」

なんとなく目についたトピックス。
それは私が球場に足を運んだ日に始球式を務めた若いアイドルの女の子の話題だった。新曲が出ますなんて言葉と共に流れるミュージックビデオ。
ぼろり、と気づけば頬に一筋の涙が伝った。

「ダメ、だめ…駄目だよ…」

自分に言い聞かせる。なんで、こんなことで。また大きく首を振る。ローテーブルに置いてあるティッシュボックスに手を伸ばし、ティッシュペーパーで顔を拭う。フッと目に入るテーブルの上の青い冊子。昨晩から置きっぱなしだったそれ。息が止まる。…見ちゃいけない。理性が叫んで、私を思い止まらせる。だけど、震える指先は溢れ出る感情に従うように---青道の卒業アルバムに伸びていた。

昨日初めて捲った分厚い表紙。
アルバムの中に閉じ込められた私と一也と…立花さん。そこに鳴はいない。
私たちの間になにがあったのか。ひとつひとつの過去を私は知らない。
そして、事実は変えられない。事実も覆られない。
過ぎ去った青春の日々。胸を突き刺す痛み。……ねぇ、私はこんな痛みを二度も経験したの?
自分自身に問いかける。だけど当然ながらその答えが返ってくることはなかった。
代わりに、ページを捲る指。
クラス写真。部活動ごとに撮った集合写真。校内行事の写真。体育祭、文化祭、修学旅行。修学旅行に野球部の姿はないけれど…それ以外の写真の中から、目が一也を探す。
幸いだったのは、アルバムに掲載された写真の中に一也と立花さんが一緒に写っているものがなかったことだ。それに冊子の中の私はどの写真を見ても楽しそうで、まさに青春真っ只中の女子高生という感じ。
ホッと息を吐く。
涙も、溢れることはない。
……案外、大丈夫だ。
心配は杞憂だったのかもしれない。
最後のページに指を伸ばし、きっと寄せ書きが書かれているであろう裏表紙がチラリと視界に入ったその時だった。

「……なにしてんの?」

低い声に、思わず肩がビクリと揺れる。咄嗟にアルバムを閉じて振り返れば、パンケーキの乗ったお皿を両手に持った鳴の姿。整った眉を僅かに寄せて、深い青が私を見つめている。纏った雰囲気が、なんだか不穏だ。直感が告げている。…怒ってるんだろうか。でも、なんで…?

「な、んでもない」
「…そう?」

鳴の感情の起伏が、未だによくわからなかった。だって彼が私に知って欲しくなかった事実はもう露呈して、これ以上鳴が隠していることなんてないはずだ。それなのに、なんで、そんな目で私を見るんだろう。

「朝ご飯食べよ」
「…うん」

鳴は自ら話題を変えるように、私の目の前にお皿を置いた。そして空いた手をこちらに差し出す。…アルバムを渡せ、と。暗に言っているのだろう。言葉はないけれど、察する。

「二階の部屋に片付けておくから」
「……うん」
「さ、食べよ!」

私が素直に冊子を手渡したからか、それ以上鳴の機嫌が悪くなることはなかった。彼はそのままアルバムを私が座る反対側の方へと無造作に起き、そして私の隣に座る。ふたりで並んでパンケーキを食べた。確かに彼が作ったそれはふっくらとしていて美味しい。上手いと自分で言うだけのことはある。

「美味しい」
「でしょ!」

一通り家事が出来て、パンケーキを焼くのが得意で、優しくて、私にキスをする鳴。全部私の知らない彼の姿。もぐもぐと咀嚼しながら考えるのは、これからの私たちのこと。知っていかなくてはいけない、九年間のこと。私は鳴がどんな色が好きかってことも、どんな音楽を聴くのかってことも、なにも知らない。映画は昨日アクションものをよく見るって言ってた。……考えてみれば、「目覚めて」から、私の心の中はいつだって自分のことと一也のことでいっぱいで、少しも鳴のことを気にかけたことなんてなかった。だから、今日から始めるのだ。

「……、あの、鳴…?」
「なに?」
「…私たちの、アルバムが見たいんだけど…」

食べ終わってお皿を片付けるためにお互い立ち上がったタイミングで、そんなことを彼に提案してみた。
すると鳴は、僅かに眉間に皺を寄せる。…怒っているわけではなさそうだけれど、どこか思い悩む表情だ。

「…まだ早いんじゃない?」
「大丈夫」
「なんで急にそんなこと…」
「鳴と私の今までのこと、知っておきたくて」
「…ふうん」

手放しで喜ばれるかと思っていたから、鳴の反応は予想外だった。

「…まあ、いいけど」

それでも色々考えた末、彼は私の願いを聞き入れてくれる気になったらしい。台所の片付けが終わってから、ふたりで二階の物置部屋へと向かう。鳴の手には青道の卒業アルバム。ついでに元あった場所へと戻す算段なんだろう。…結局、どうして彼がアルバムを見ていたことに僅かな怒気を見せたのか。…それは解らず終いだ。まあ、鳴が家を空けている隙にまた見たらいいか、という考えに落ち着いた。
昨日に引き続き、二日連続で物置部屋へと入る。部屋に積まれた段ボール箱達。

「ここは片付けないの?」

綺麗に整頓されている家の中でこの部屋だけは別だった。私も鳴も片付けが苦手というわけではないと思う。だけどこの部屋だけが、とても雑然としていた。

「一部屋ぐらい混沌としてた方がいいんだよ」
「そういうもの?」
「そういうもん。…多分だけど、この部屋は紗南にとってのガス抜きの場所なんだよね。なんだかんだうちは来客が多い家でしょ。…その点、二階は俺と紗南だけの場所だから。家の中でも家の外でもどこでもいろんなことに気を使ってた紗南にとっては、ここがセーフティーゾーン」
「…そうなんだ」

確かに思い返してみれば、モデルルームのように整頓された一階に比べると、二階はどの部屋も雑然としているような気がした。
17歳の私にとって10年後の自分はとてつもなく大人に見えていたけれど、どうやらそんな面ばかりではないらしい。27歳の自分が、初めて身近に感じた。

「で、肝心のアルバムだけど…どこに仕舞ってあったかなぁ」

結婚式のならリビングに置いてあるんだけど、なんて鳴はぶつぶつ言いながら探している。
私も微力ながら捜索に加わろう、と近くの段ボール箱に手を伸ばした。何箱か見て見るけれどそれらしい存在は見つけられない。

「…あれ」

アルバムじゃないけれど、ふと目についたのはB5サイズの革張り冊子。段ボールの中にズラリと並んでいるそれは、ざっと見て10冊ほど。背表紙には私が17歳だった年の翌年---9年前の西暦から始まり、今年の西暦までがそれぞれ刻まれている。つい今年の冊子を手に取って、パラパラと捲ってみた。

(日記、だ)

私の、日記。見慣れた自分の文字が並んでいる。

(でもなんで…)

昨年までのものが仕舞ってあるのは納得がいくけれど、今年の日記が同じように段ボールの中にあることに対して少しばかりの胸騒ぎがする。チラリ、と鳴に視線を向ければ私の方に背を向けて相変わらずアルバムを探していた。こちらの様子に気付いている様子もない。今のうちだ、と日記のページを捲って確認する。2月24日。私が此処で目覚める前日の日付だ。それ以降は予想した通り空白のページが続いている。…やっぱり、「今までの私」は、これを書き記していたのだ。


2月24日
明日、鳴が帰ってくる。
電話でも謝罪はあったけれど、やっぱり久しぶりに顔を合わせるのは緊張する。
鳴はこれ以上私に何を求めてるんだろう。
私は、鳴のことをちゃんと愛しているのに。



ーーーまだ怒ってるの?
不意に、27歳の鳴と玄関で対面した時のことを思い出した。
鳴がキャンプに行く前に何かあったんだ。こういう時に限って私の勘はよく当たる。不安で胸が騒めく。

「あった!」

鳴の言葉が耳に届き、思わず日記を閉じて段ボールに仕舞い直し慌てて箱の蓋を閉めた。振り返ってみれば何冊か分厚いアルバムを手に持った鳴の姿。幸い私の行動に気づいた様子はない。この部屋は埃っぽいからリビングでゆっくり見ようという彼の提案に頷いて、階段を下りる。ソファーに隣り合って座り、鳴からアルバムを手渡された。

「無理だと思ったら、すぐ見るのやめて」
「うん」

アルバムを見たいと言い出したのは私だ。覚悟はできている。
それに先ほど見つけた日記の文章が頭から離れない。あれ以上の衝撃が手元にある分厚い冊子の中に潜んでいるとは不思議と思えなかった。ゆっくりと表紙を開く。

「…若いね」
「そう?」
「…私の知ってる成宮だ」
「うん」

綺麗に並んでいる過去の写真。私たちのツーショットばかり。そこに映るのは、目の前の鳴よりも私の記憶の中にある姿に近い。仲睦まじげに肩を寄せ合って自撮りしたものや、どこかの旅行先で撮ったような遠景のものもある。パラパラとページを眺めている限りは、鳴が心配するほどのことはない。

「これは結婚するまでの分」
「うん」
「…結婚式のアルバムも見てみる?」
「…うん」

アルバムを一通り見終わってから、鳴がそんな提案をしてくれた。頷く。多分大丈夫、大丈夫だ。初日に胸が軋んだ結婚式の写真。でも、今なら見れる。そんな気がするんだ。

「はい」
「ありがとう」

鳴はテレビ台の隣の棚から豪華な装丁のアルバムを取り出して、私に手渡した。皮の感触を指で撫でる。ふっと息を吐いて、表紙をめくる。目に飛び込んできたウェディングドレスを着た私と、タキシード姿の鳴。大丈夫だ。

「…いい写真だね」
「でしょ」

満面の笑みの私たち。とても幸せそうだ。初日には感じなかった感情が、私の胸の内を占める。これが「私」の目指すべき姿。本当なら今でも続いていたはずの私たちの関係。

「すごい豪華な結婚式」
「まあね。ゲストも多かったし」
「そうなの?」
「ざっと100人ぐらいかな」
「すごい」

鳴のゲストは球団関係者や稲実の野球部を中心とした学生時代の友人達で、私のゲストは苦楽を共にした吹奏楽部のメンバー、大学時代の友人グループ。そして両家の親族と家族。たくさんの人たちが私たちを祝福してくれたのだろう。知っている顔ぶれもあれば、知らない人たちもいる。挙式の写真から始まり、ページが進むごとに結婚式を追体験しているような気分になった。豪華な内装の披露宴会場。会場の名前を聞けば17歳の私ですら知っている有名なホテルだった。凄いなぁなんて感心しながらページを捲る。
指が止まったのは、開いたページに印刷されたある写真が目に飛び込んできたからだ。

「……紗南」

鳴が私の名前を呼ぶのとほぼ同時に、ぼとり、と大粒の涙がページに落ちる。自分が泣いていることに気づいたのは、鳴が私の頬をティッシュペーパーで拭ったから。それでも次から次へと溢れ出る滴。

「…紗南。もうやめよう」
「………うん」

鳴の手によって閉じられたアルバム。そのまま身体を強い力で抱きしめられる。鳴の肩に顔を押し付けて、涙を止めようと必死に唇を噛み締めた。
……大丈夫だと思ってたのに。
ほんの一瞬で頭に焼き付いたさっきの写真。スーツ姿の一也とパーティードレスを着た立花さんが寄り添って、私たちと映っていた。
心が、悲鳴をあげる。
悲しみに満ちた露がぼとぼとと溢れて頬を濡らすのだ。とまらない。

「…ごめん、鳴、ごめん…」
「……ゆっくりでいいよ。ゆっくり、ふたりで、やっていこう」

大丈夫。大丈夫。
私の耳元で優しく囁く鳴の声。頭を撫でる彼の掌。私は赦しを乞うように鳴の身体に我が身を預けた。

---この時。
彼が、どんな表情をしていたかなんて、悲しみに暮れる私が知り得ることじゃない。