いつかの無垢を抱きしめる



いつまでも泣いていられない
歩き出さなきゃ

そんな歌い出しから始まる女性アーティストの曲を初めて聞いたのは、梅雨入りした6月初旬のある午後のことだ。流しっぱなしだったラジオ番組から流れてきたメッセージ性の強いメロディー。私は思わず洗濯物を畳む手を止めて、曲をじっくりと聞く。
新しい私へと進むために
そんな歌詞が胸に残った。



それから数日後。

「成宮先生、髪切ってる!!」
「可愛いー!」
「似合ってますね」

生徒たちが口々にそんな称賛の声をかけてくれるものだから、私は思わず首筋あたりで短く切り揃えた髪の毛先を触って微笑む。若いって素直だ。微笑ましい。

「随分切ったなぁ」

私の姿を目にした長尾先生まで驚いた様子を見せた。
美容院に行って、ばっさりと短く切ってボブカットにしてからの初お披露目。緊張していたけれど、評判は上々な様子で胸を撫で下ろす。イメチェンは成功したらしい。微妙な反応だったらどうしようかと思っていた。

「そういえば高3のコンクール予選の前にも髪切って気合い入れてたよなぁ」

白髪混じりの髪を撫でつけながら、長尾先生がそんなことを言い出すものだから、私はひくりと頬を痙攣らせる。まさかその時と同じ理由で髪を切りました、なんて言えるはずもない。

「みんなが全国行けるように願掛けしたの」
「成宮先生、そんなに身体張らなくても…」

長尾先生の言葉を借りて、髪を切った理由を誤魔化してみた。すると生徒たちの態度はちょっと微妙な反応に変化する。まあ確かにそんなこと言われてしまってはプレッシャーを感じるのだろう。私も、ハハハ、と苦笑いを浮かべた。


思い浮かべるのは、髪を切って帰宅した私の姿を目にして、言葉もなく絶句していた鳴の顔。しばらくの間そうしていた彼は、それから頭を掻いて大きな溜め息を吐いた。

「…あのさあ」
「はい」
「こんなことまであの時を繰り返さなくてもいいんじゃない?」

その言葉を聞いて初めて私は、一度目の失恋時にもバッサリ髪を切ったことを悟ったのだ。

「…似合ってない?」
「似合ってる。可愛い」

そこは断言してくれるらしい。思わず苦笑。
そうしているうちに鳴の腕が私の身体を抱きしめた。こうしてふたりで抱き合うことにも慣れたこの頃。そのうち彼の指先が私の首筋を這って、毛先に触れるものだからその擽ったさに思わず私は目を閉じる。

「…まあ首にキス出来るからいいか」
「不埒」
「キスされるの好きでしょ?」

そんな風に言われてしまうと反論できない。別に欲求不満というわけでもないけれど、鳴とするキスは幸せを感じられるから好きだった。まあ鳴以外とするキスを知らないから案外この行為自体幸福に満ちたものなのかもしれないけれど…。


「成宮先生がこれだけ身体張ったんだから、お前達気合い入れろよ」

長尾先生が生徒達に喝を入れる言葉で、回想から我に返る。コンクールの予選まであと一ヶ月半。部内でのオーディションを経てコンクール出場メンバーも決定している。並行して野球部の応援の為のヒッティングマーチの練習。夏休みに入ってすぐの7月下旬には予選に向けての最終追い込みである夏合宿も予定されている。やるべきことは山積みだ。でも忙しい方が、正直よかった。余計なことを考えなくて済む。鳴が「ゆっくりでいい」と言ってくれたから、私は私なりに前に進もうとしていた。今までの後ろ向きな気持ちで鳴と一緒にいるんじゃない。彼を好きになろうと努力してる。
……それでも、胸に巣食う不安がなくなったとはいえないのが、現実なんだけど。
その不安の正体は、一也のことじゃない。
勿論、鳴のことだ。
彼はまだ私になにか隠している気がする。時折見せる不機嫌な態度も、揺らめく機嫌の波も、私にまだ"なにか"あるの知らせてくるのだ。それにあの物置部屋に仕舞い込まれていた日記の存在が、私の心に強く語りかけてくる。あれを読めば、私たちの9年間がわかるのだ。鳴が私に語って聞かせてくれた過去の話の真偽も、全部。
…疑っているわけではないけれど。
でもなんとなく思う。
私の知らない事実が、まだ眠っている。
私たちの間に何があったのか。
それを知っているのは、今のところ鳴とあの日記だけだった。


「成宮先生」

各パート練後、コンクールメンバーは音楽室での合奏、それ以外の部員は個人練習を経て、部活動が終了。そのタイミングで雪平さんに声を掛けられた。トランペットパートのことで少し話をした後、彼女は少し言いにくそうな表情を見せ、それから「相談があるんですけど」という言葉で切りだす。なんとなくその様子に部活の話ではないと察した。

「私、今日帰るまで少し余裕があるから、話していく?」
「……お願いします」

神妙な顔をして頷いた雪平さん。「楽器を片付けたら職員室に顔を出してね」と伝え、ひとまずそこで彼女とは別れた。

「今日は随分のんびりだな。旦那はいいのか?」
「主人は遠征でいま名古屋なので。それに今日、高島先生とご飯食べにいくんです。野球部が終わるまで職員室で待ってます」
「ああ、そうか」

基本的に鳴が家にいる日は慌ただしく学校を出て帰宅の途につく私だけれど、それ以外の日はわりと自由にさせてもらっていた。鳴は、色々と世話を焼いたり過度な心配をすることもあるけれど、極端に私の行動を制限することもない。まあ出掛ける相手なんて、今のところ礼ちゃんしかいないとわかっているから彼も不安に感じることなんてないんだろう。
長尾先生と他愛もない話をしながら、薄暗い廊下を歩いた。先生は「相変わらず仲いいなぁ」と私と礼ちゃんの仲をそんな風に形容して、目尻を細める。それから鼻歌。先生が口遊むメロディが暗闇に溶けた。

「野球部は来週夏合宿か」
「そういえばそんな時期ですね」

合宿といっても普段から寮生活の野球部は吹奏楽部と違ってどこかの施設を借り切って行うわけではない。普段通りグラウンドでの練習。ただその内容はとてつもなく過酷だと私が在校している時から噂されていた。一也も一年生の時は、休み時間に机に突っ伏していたなぁ、と思い出す。
こんな風に今でも一也のことを思い出すことがあって、そしてその度に胸が締め付けられるように痛む。だけどその痛みは徐々に緩和されているように思うし、アルバムを見たあの日のように大号泣することも減った。
私は一也への想いを、髪の毛と一緒に、ばっさりと断ち切ったのだ。もう、悩まない。そんな風に自分に言い聞かせている。

職員室へと戻り、同じように部活の指導や業務で残られている先生達に挨拶。長尾先生にインスタントコーヒーを淹れて、私は紅茶だ。ふたりでホッとひと息つく。
部活の話を中心に雑談を交わして、しばらく経った時。ガラリ、と職員室の扉が開いた。

「あ、雪平さん」
「失礼します」

帰り支度をした雪平さんが、こちらに会釈する。私は長尾先生に断ってから席を立った。そのまま雪平さんとともに職員室隣の相談室へ向かう。真っ暗な部屋の電気をつけて、入室。机とパイプ椅子が置かれた簡素な部屋だ。雪平さんとはテーブルを挟んで向かい合って座った。

「それで、相談って?」

時間も時間だから勿体ぶっていても仕方ないだろ、と私の方からズバリ尋ねる。雪平さんはちょっと迷った素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。

「私、ずっと野球部の先輩に片想いしてるって…前、先生に相談したじゃないですか」
「……うん」

初耳だったが、「今までの私」との整合性を考えて反射的に頷いていた。その先輩が以前彼女が言っていた"野球馬鹿"なんだろうなぁと察する。

「卒業前に、告白しようと思ったんですけど…なんか、いざその時になると無理で。とりあえず連絡先だけ交換したんです」
「うん」
「先輩、大学行っても野球続けるって言ってたから、じゃあ試合出る時は教えてください、応援、行きますからって、言って…」
「…うん」
「そしたら、先輩も、嬉しいって、言ってくれたんです。だから、……今は、無理でも、いつか…私にもチャンスあるかなって…先輩も、私のこと、少しは気にして、くれてるのかなって…思ってた、んです、けど」

雪平さんの言葉が、どんどん細切れになって、そして消え入りそうな声で残酷な事実を告げた。

「……先輩、大学で、彼女出来た、んですって…」

思わず、息が、止まった。
目の前の彼女の気持ちが痛いほど理解る。思わず手を伸ばし、テーブルの上で硬く結ばれた雪平さんの手を包み込んだ。

「雪平さん…」
「先生、ごめんなさい」
「え…?」
「相談乗ってくれてたのに、私、なんにも、行動出来なくて、結局…結局…っ」

私の手の甲に、ぼたり、と雪平さんの涙が落ちた。私の涙腺もそれに比例して熱くなる。
どこかで聞いた話だ。
自分の想いを告げる前に、恋が儚くちった。無念としかいいようがない。告げていたら良かった、この気持ちを伝えていたら何か変わっていたかもしれない。そんな後悔が胸を占める。その気持ちは、よくわかる。私には、よく、わかるのだ。

「…雪平さん」
「………」
「辛い、よね」

そんなありきたりな言葉しか、私の唇は紡ぐことが出来ないけれど。

「…貴方のそばにいてくれる人はいるの…?気持ちを、理解してくれる人」

私には、鳴がいてくれた。大丈夫、ゆっくりでいいよ、と。彼の暖かい掌が私の髪を撫でてくれた。一度目の時はきっと優子たちがいてくれたはず。望んでいた人から貰えなかった愛を、私は他の誰かから受け取り、そしてその存在が、自分自身を強くする。
雪平さんにもそんな存在に思い当たる節があるのか、私の問いに対して静かに頷いた。私は言葉を続ける。

「その人とたくさんお話して。辛い気持ちも、嬉しかったことも、全部。そうしたらね、少しは気持ちが晴れるの。それから楽しいことをしよう。音楽を聴いて、演奏して、映画を見たり、本を読んだり。……その先輩のこと、無理に忘れなくてもいいんだよ。痛みさえ、貴方の一部にしていくの。いい思い出に、していくの」

自分の紡ぐ言葉が、私のひび割れた気持ちに染み渡る感覚。

「ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である」
「……え?」
「昔の人の格言」

私が鳴に教えたという言葉が、もう一度私の元へと戻ってきて、そして私の口から雪平さんへと贈られる。……ああ、やっと理解できた。私、多分、ようやく一也を想い出に出来る準備が出来た気がする。

「あと王道だけど、髪を切るのもいいかも」
「……そうですね。先生の新しい、髪型、とっても素敵です」

雪平さんは、涙で潤んだその瞳をうっすらと細め、私に向かって微笑んだ。その表情にはまだ多分先輩への想いが滲み出ているけれど。それでも、きっと、雪平さんは大丈夫。大丈夫だよ、という気持ちを込めて、彼女の掌をぎゅっと握りしめた。



話し込んでいるうちに、礼ちゃんと待ち合わせの約束をしていた時間に近くなっていたものだから、雪平さんを送っていくついでに私も青道の校舎を出た。野球部の練習は既に終わっており、夕食を経て、多分自主練の時間だろう。礼ちゃんには野球部の寮の方まで行くね、と連絡済みだ。

「ごめんね、遅くなっちゃって」
「大丈夫です。家近いですから。こちらこそ話聞いてもらってありがとうございました」
「いいの、いいの」

寮の周辺に近づけば、次第に聞こえて来るバットのスイング音。野球部の子たちは、相変わらず練習熱心だ。明かりも届かない暗闇で一心不乱に己の技量と向き合っている。私たちも負けていられないね、と。そんな風にコンクールへの想いを改めて強く意識していた時、

「雪平!」

聴き慣れない男の子の声が、隣を歩く雪平さんの名前を呼んだ。私たちは足を止める。薄暗い中、ジャージ姿がこちらに駆け寄ってきた。

「いま帰り?」
「……うん」

手に握り締められたバット。それだけで、まあ、野球部の子だとわかる。当然のことながら私はその顔に見覚えがない。常勤の講師とは違い、吹奏楽部の子たち以外とは接点がないから当然だ。そして彼もまた、私の存在に僅かながら疑問を抱いたらしい。それを察した雪平さんが先回りして口を開いた。

「吹部の外部講師の成宮先生だよ。ほら…前言ってた…」
「あーっ!成宮の!!!」

成宮の、とはつまり「あの成宮鳴の嫁」という意味だろうことは容易に察することが出来た。夜の闇に彼の目が輝いている。高校球児からしてみたら、プロ野球選手は憧れの存在だろう。途端に彼の背筋が伸びて姿勢が良くなるから微笑ましい。私はなんにも凄くないよ、と思いながら苦笑を浮かべる。

「吹部も随分遅くまで練習してんだな」
「今日はたまたま…先生と話してたから」
「……こんな時間に帰るなんて危ないだろ。俺、途中まで一緒にいくよ」
「え、いいよ、自主練中でしょ?」
「帰り走るから大丈夫」
「でも…」
「雪平さん、送ってもらったら?」

私はどのみち途中で彼女と別れなくちゃいけなかった。男の子が付き添ってくれるなら夜道も安心だ。結局、彼の提案にしぶっていた雪平さんも私の言葉が背を押すことになったのか、ふたりは私に別れを告げて帰路についた。適度な距離を保ってふたり並んで歩き、どんどん小さくなっていく背中。その姿を見送りながら、なるほどなぁ、と思う。

(もしかしたら、彼が雪平さんにとっての"鳴"なのかもしれないな)

そんな考えはただの邪心で、本当はただの同級生かもしれないけれど。なんとなくそんなことを考えるのだ。




「紗南ちゃん、お待たせ」

雪平さん達と別れて暫くしてから、礼ちゃんと合流した。礼ちゃんは短くなった私の髪型を見て、少しばかり目を見開く。色々と思うところがあるのだろう。彼女もまた昔を知るうちのひとりだ。ただ「短いのも素敵ね」という言葉。…少し気を使わせてしまったかもしれない。合流した私たちはそのまま礼ちゃんの車に乗せてもらって、青道から少し離れたイタリアンのお店へ向かう。外食するにしても、あまり学校関係の方(生徒や保護者)の目がないところを選ばなきゃいけないらしい。なかなか大変だ。礼ちゃんが連れてきてくれたお店は、リーズナブルながら個室もあるお洒落な場所だった。少し遅い時間だからか、店内にはカップルの姿が多い。
私たち女子会はジュースで乾杯だ。
お洒落なノンアルコールカクテルを頼んで、ちびり、とグラスを傾ける。料理は適当に礼ちゃんが頼んでくれた。美味しい料理に舌鼓をうつ。

「それで」

そんな風に礼ちゃんが切り出したのは、前菜のサラダがテーブルに届いた時だった。

「御幸くんのこと聞いたのよね…?」
「うん。…1ヶ月ぐらい前かな。一也と会って直接聞いたの」
「そう…」

なんでもない風を装って、私は答えた。事前に説明していたとはいえ、礼ちゃんの表情は冴えない。私のことを心配している。当然だ。私は心配しないでという意味を込めて、微笑む。

「立花さんってどんな子なの?」
「…そうね…」

私の問いに、礼ちゃんはしばらく考え込んだ。それから言葉を選ぶように口を開く。

「綺麗な子よ。背筋が真っ直ぐ伸びてて、いつも前を向いてた。意思の強そうな眼が印象的で…でもあんまり自己主張するタイプじゃなかったかな。英語は得意だったわ」
「そうなんだ」
「成宮君はなんて言ってたの?」
「鳴は…私がショックを受けると思って、一也達のことは教えてくれないの」

私が苦笑を浮かべれば、礼ちゃんはふとフォークを握って動かしていた右手を止めた。それから急にふふっと口端に笑みを浮かべる。

「鳴って呼んでるの?」
「…うん。変かなぁ」
「変じゃないわよ。成宮君喜んでたでしょう?」
「そうだね。そう呼ぶようになってからは…機嫌いいことが増えたかな」
「良かった」
「…礼ちゃん」
「なに?」
「…「私」は鳴とのこと、礼ちゃんによく話してた?」

サラダを食べながら、合間にそんな質問をしてみた。

「どうしたの、急に」
「…実は…」

私から隠すように日記が2階の物置部屋に仕舞われていたこと。「私」が目覚める前日のページを読んで、私たちの間に何かあったことを悟ったこと。鳴がまだ何か私に隠していることがあるような気がすること。それを礼ちゃんに全て伝える。礼ちゃんは、うーん、と首を捻る。

「成宮君とのことはよく話してくれてたけど、…でも心当たりがないわね。何かあったら話してくれてたはずだし…考えすぎってことはないの?」
「…それは、ないかな」
「……そうよね。それは紗南ちゃんが一番よくわかってるもんね」

結局求めていた答えは得られなかった。そこまで期待してはいなかったけれど、少し肩を落とす。礼ちゃんは「お役に立てなくてごめんね」と眉を下げた。

「大丈夫。ごめんね、急に変なこと聞いて」
「ううん。私が知ってることはいくらでも教えるし、必ず紗南ちゃんの力になるから」
「…ありがとう。今でもじゅうぶん礼ちゃんに助けてもらってるよ」

礼ちゃんが居なかったら、青道の仕事を続けることは出来なかっただろう。本当に心強い味方だ。感謝を込めて、もう一度乾杯。お互いのグラスをカチンと合わせる。それからは特に深刻な話をするわけでもなく、ただふたりで美味しいイタリアンを堪能した。

楽しい時間で心を、美味しい料理でお腹を満たして、帰宅。礼ちゃんが車で自宅まで送ってくれた。
家の中に入り、電気をつける。
お風呂を沸かしている間に、テレビをつけた。夜のニュース番組で野球の試合結果をチェックする。鳴の登板はなかったけれど、チームは勝利したようで思わず手を叩いた。

「……あ、」

一也のチームも勝ったらしい。一瞬マスク姿の彼が映る。そこで、ふと、思ったのだ。

「……一也なら、知ってるかな…」

鳴とは仕事がらよく会うと言っていたし、もしかしたら鳴が一也に相談しているかもしれない。そんな考えに至る。
兎に角私は、胸を占める靄を晴らしたかった。一也の結婚を知った私に怖いものはない。そんな風に、思うのだ。
迅る気持ちを抑え、私は鞄からスマートフォンを取り出す。すっかり慣れた操作で、メール作成画面を呼び出した。
宛先に御幸一也の名前。
本文には、聞きたいことがあるから話をしたいという旨を打ち込んだ。素っ気ない文章のまま、送信ボタンを押す。
高校生の時の私は、いつも一也によく見られたくて、メールを長く続けたくて、いろいろ考えた文章をなんだかんだ理由をつけて、彼に送っていた。
でも今、一也に対してそんなことをする義理もない。これぐらい許してほしいと思う。

「これって、怒りに違い感情なのかな」

一也にこんな感情を抱いている自分に驚いた。…多分、着実に前へ進んでいる気がする。そうでなきゃ困る。
---鳴と向き合いたい。
ただその感情だけが、今の私を突き動かすのだ。鳴のことをもっと知りたい。そのためなら、もうしばらく会いたくないと思っていた一也にさえ連絡がとれる。
それはつまり。
私にとって鳴がとても大事な存在になりつつあるということ。

私は、ふいに鳴のキスの感触を思い出して、指で自分の唇をなぞった。

「会いたいな」

早く私を抱きしめてほしい。
ひとりの家は、寂しすぎる。

「鳴…」

スマートフォンを胸に抱えて、私は夫の名前を小さく小さく呟くのだった。