王子は今夜も跪かない


礼ちゃんと夕食を食べて帰宅した翌日。目覚めた時まず初めに感じたのは、寝過ぎたような…そんな感覚だった。枕元に置いておいたスマートフォンで時間を確認すれば、やっぱりいつもより一時間ほど遅い時間。
ピアノ教室もなく、青道に行く日でもない。鳴もいない。どうやら気の緩みから寝過ごしたらしい。やってしまった、と思うと同時に、画面に表示されていた着信履歴の表示。御幸一也。時間は深夜12時頃。

「この時間は寝てるってば…」

なんて言葉を呟くほどには、少し呆れてしまった。多分電話をかけてきた理由は、昨晩私が送ったメールの件だろう。でももしかしたら何か急用かもしれない。指先が画面の上でうろうろといったりきたり。

「…まあ、出なくても着信残せばいいか」

そんな考えに行き着くのは、一也の中の私の評判を気にしなくてもいい、と思えたからだ。なんだかそう考えるだけで、私が無意識に背負っていた肩の荷が降りた気がする。過度な期待もなく、いまはただ自然体で一也と向かい合える。そんな風に思うのだ。
私は着信履歴から一也の名前をタップした。呼び出し音が流れるのを確認して、スマートフォンを右耳にあてる。六回ほど、メロディーが繰り返した後、ぶつり、と音を立てて電話が繋がった。

『………もしもし』
「…一也?」
『…あー…紗南か…』
「ごめん、寝てた?」
『……うん、でもいいよ。ちょうど起きる時間』

寝起きの低い声。
電波に乗って、一也の声が私の耳に届く。言葉を交わすのは、あの日以来のことだけれど案外すらすらと口が動いた。

「朝からごめんね。着信残ってたから折り返したんだけど」
『ああ……昨日のメール。なんだよ、聞きたいことって』
「鳴のこと」

私がそう言えば、一也は一瞬言葉に詰まった。何か変なことでも言っただろうか。首を傾げる。するとすぐにその疑問の答えが一也から返ってきた。

『鳴って呼んでるんだな』

礼ちゃんにも昨晩指摘された事実。…そんなに気になることだろか。たかが名前呼びじゃないか。一也の笑みを浮かべて揶揄うような口調に、私は思わずムッとした。

「なに」
『いや、仲良くやってるみたいで安心した』
「おかげさまで」

ちょっと刺々しい言葉になるのは仕方ない気がする。幸い、一也はあまり気にしていないらしい。「それで鳴のことで聞きたいことって何?」との言葉が続いた。私は少し考え込んで口を開く。
まだ鳴が私に何か隠していることがある気がすること、一也なら知っているかと思って話がしたかったことを簡潔に説明する。
一也は私の話を聞いて画面越しに、うーん、と首を捻ったようだった。

『なんでそんな風に思うんだよ』
「日記が隠されてた」
『日記?』
「高3の時から私が書いてた日記。2月24日まで書きかけの今年の分まで2階の物置部屋に仕舞われたの」
『…鳴が紗南のこと混乱させたくないから隠したんだろ?』
「……そうかなぁ」
『俺はそう思うけどな』

一也に聞いても求めていた答えは手に入りそうにないとわかり、思わず落胆。肩を落とす。するとその間に、電話越しの一也は不自然な沈黙。話しかけても応答がないから多分マイクをオフにしたんだろう。
…そこで、ようやく一也の隣にいるであろう存在に気がついた。
そうですよね。結婚されてるんですもんね。昨晩も感じた怒りに似た感情が胸を熱くする。私のそんな思いを知ってか知らずか。しばらくして、一也が私の名前を呼んだ。

「…なに…?」
『今日、鳴は?』
「昨日から名古屋。明日帰ってくるよ」
『…ああ…そっか。…紗南は今日なんか用事ある?』
「特に用事ないけど…なに?」
『……旭ならなんとなく心当たりあるらしいんだけど。…会ってみる?』

突然の提案に、私は思わず息を止めた。
…今、かなり重大な選択を迫られている気がする。それをさらりと私に突きつけてくるものだから、一也って相変わらずだなぁと顔を顰めた。だから、ちょっとばかりの仕返しのつもりで聞き返す。

「…会った方がいいと思う?」
『旭は紗南と会いたがってる』
「その言い方はずるい」

一也っていっつもそうだ。眉間に皺が寄った。相変わらず私の胸の内には怒りの火種が燻っている。
…でも、そうだよね。「私」の人生に立花さんは存在しないけれど、「今までの私」と立花さんは友人だった。彼女の人生にとって私は多分大切な存在で…その事実は消せない。いつまでも、逃げていられない。

「わかった。会う」

私は大きな決心を胸に、頷くのだった。




一也と立花さんと会うことになった場所は、以前一也と対面した喫茶店。今日は待ち合わせの時間より早く到着したので、先に店に入店する。出迎えてくれた店員さんに「お好きなお席へどうぞ」と声をかけられたので、自然と足は前回と同じ窓際の席の方へと向いていた。
突然決まった再会に、お洒落をしている暇もなく。かなりラフな格好をしてきてしまった。ボーダー柄のカットソーにジーンズ。前回の花柄ワンピースとは程遠い。でも、多分これでいい。スマートフォンを鞄から取り出して、一也に「先に来店している」という旨のメールを送信。
それからしばらく経ってから、店の扉が開くベルの音。視界の端にチラリと映った茶色い髪。思わず顔を伏せる。
テーブルの上でギュッと両手を固く握ってその時を待った。

「紗南」

名前を呼ばれて、顔を上げる。目に飛び込んできたのは、一也……と、その隣に立つ立花さんの姿。写真でしか見たことなかった彼女が、そこにいた。実物はハッと目が覚めるようなほど美人だ。一也と並んでいるとまさに美男美女という雰囲気。ギシリ、と胸が軋む。

「…紗南」

立花さんの黒曜石のような瞳が潤んで、私を見下ろす。言葉が出てこず、私も彼女の顔をジッと見つめた。

「……はじめまして、御幸旭です」

彼女はそう言って私に頭を下げる。なんだかその一言で、この人は信頼するにあたる人物だと私の本能が告げた。だから私も、「はじめまして。成宮紗南です」と会釈する。そんな私たちの初対面を終え、一也と…旭さんは、テーブルを挟んで私の向かいのソファーに腰を下ろした。

「なんか頼んだ?」
「まだ。待ってた」
「そっか」

三人でメニューを覗き込む。お昼時にはまだ早い時間。今日もドリンクだけにした。一也はコーヒー、私はクリームメロンソーダ、旭さんはオレンジジュースだ。注文を終え、飲み物が届くまでの間。お互い何から話そうかと思案する沈黙が訪れる。その間を破ったのは、やはり一也だった。

「で、鳴の話だっけ」
「うん」

私は小さく頷いて、旭さんをチラリと見た。

「旭さんなら心当たりあるって聞いたんだけど…」

特に意識することなく、するりと口が紡いだ言葉はフランク。元同級生だし敬語は変かなと思ったのだ。特にそれに対して制止されなかったから、多分問題ないのだろう。旭さんはそんな私の言葉に、目を縁取る豊かな睫毛を何度か瞬きさせた。それから、ゆっくりと口を開く。

「前、紗南と電話した時…二月の中旬だったかな…?その時にね、キャンプ前に成宮くんと喧嘩したって聞いたの」
「……やっぱり」

多分なんとなくそうじゃないかと思っていた。電話で謝ったでしょ、の言葉も、まだ怒ってる?の言葉も。久しぶりに顔を合わせるのは緊張する、と私が認めた文字も。全部その事実を指していた。

「その…隠してあった日記は読んだ?」
「……まだ。なんとなく気が進まなくて」

知りたいという欲求と、例え自分の物でも日記を盗み見るのは気が引けるという僅かな理性。そのふたつが鬩ぎ合っている。誰かに尋ねて、それで答えが手に入るなら…出来れば今後も日記は読みたくない。旭さんはそんな私の想いを察してくれたのか、「そうだよね」と苦笑を浮かべた。
…柔らかい雰囲気。キリリとした見た目と少しアンバランスなそれ。なんとなく、危うい。そんな感情を抱かせる不思議な女性だ。「私」の友人にはいないタイプの人。だけど心惹かれる。初めてこうして言葉を交わしたというのに、違和感はあまりない。本当に私たちは友人だったんだなって、理解る。

「喧嘩した理由は話してくれなかったんだけど……」
「うん」
「でも紗南は、ちょっと前から成宮くんとのことで悩んでたみたい」
「悩んでた?」

鸚鵡返しに尋ねた。旭さんは頷き、それから考える素振りを見せる。そのタイミングで店員さんが私たちのもとにそれぞれ頼んだドリンクを運んできたものだから、私は受け取ってすぐにメロンソーダの上に浮かんでいるバニラのアイスクリームをスプーンで掬う。口の中に広がる甘さ。美味しい。
旭さんはそんな私に微笑む。…ちょっと子供っぽかっただろうか。スプーンから手を離した。

「そのまま食べてて」
「でも、」
「なんか紗南はやっぱり変わらないなぁと思って」
「…そう?」
「うん。それで…ね。紗南から断片的にしか聞いてないからハッキリしたことは私もわからないんだけど…悩んでたっていうのは…子供の、こととか」
「こども」

初めてその言葉に触れたような、そんな素っ頓狂な声が出てしまった。今度は私が瞬きする番だ。だってまったくそんな話、いまの鳴と私の間には存在していなかったから。
……でも、そうか。
子供。
結婚しているのだから、当然次はそういう話になってくるんだろう。
旭さんはチラリと一也の方を見た。
多分「今までの私」と旭さんの間の仲だけで交わされていた話。女同士のここだけの話。それを彼女は今から話そうとしているのだ。
一也は私たちの話の邪魔にならないように静かに珈琲を飲んでいる。素知らぬふりをしているだけで、胸中ではなにを考えているかわからないけれど。それでも多分この場はオフレコと認識してくれているはずだ。むやみやたらに他人に色々話すタイプではない、と。私が一番理解して居る。ずっと彼を見てきた私がそう思うのだ。
私は、大丈夫、という意味を込めて旭さんに向かって頷いて見せた。彼女はそれを認識してから、話しはじめる。

「成宮くんは早く子供が欲しかったの。でも紗南は……親になるのが怖いって言ってた」
「そう、なんだ…」
「それに青道の仕事が凄く楽しかったみたい。長尾先生があと2年で定年だからそのあとの音楽教諭にって話も貰ったって」

旭さんが教えてくれる事実のひとつひとつが、私の胸をざらりと撫でた。
そのどれもが、初耳。鳴が教えてくれなかったこと。旭さんが嘘ついているとは、思えない。
つまり、鳴が、私にあえて伝えなかった事実。
これが、鳴の隠していることなんだろうか。私は、ストローでバニラが溶けたメロンソーダを飲みながら考え込む。
そんな私の思いを察したのか、一也がふいに口を開いた。

「そりゃあそんな話急に17歳の紗南にしても混乱するだけだろ」
「それはそうだけど…一也はなにか鳴から聞いてないの?」
「…俺は別に。あいつ紗南と付き合い始めてから、俺が紗南と関わるの嫌がってたから。話をするのもNG。だから何にも聞いてない」
「そうなの?」
「言っただろ。結婚式以来紗南とは会ってなかったし、連絡も取ってなかった」
「……なんで…?」

結婚するまでは四人で会うこともあったと以前この喫茶店で聞いたのだから、それまでは少なくとも幼馴染の延長線で友人関係を続けていたはずだ。それなのに、急にどうして。だって結婚式の時には私たちそれぞれ楽しそうな笑顔で写真に写っていたじゃないか。

「紗南がそう望んだから」

一也のその言葉は、答えにしてはとても不明瞭だった。つまり一也には私と関係を続けたいという気持ちがあったけれども、それを私は拒否していたということなんだろうか。

「結婚式の後に俺がメールしたら、「もう御幸とは会わない」って返信があった。それって紗南の意思だろ。今までの紗南は…もう俺のことなんてとっくに吹っ切れてたし、ちゃんと鳴を愛してた。少なくとも俺はそう思ってる。…今の紗南だって、鳴とちゃんと今までの10年間のこと含めて向き合いたいからこうして旭とも会ってくれたんだろ?」

一也が随分饒舌に語った。
私は思わず旭さんとチラリと見る。それに気づいた一也は「俺信用ねぇな」と苦笑を零した。そうです、信用ないんです。心の中で毒ついていると、旭さんは苦笑を浮かべて一也を励ますように肩にそっと手を添えた。その動作があまりにも自然で(ああ、夫婦なんだな)ってそこで実感するのだ。
もう胸の水面に小石を投げ込まれることもない。
だって寄り添って座る目の前のふたりは、あまりにもお似合いだから。

「…私も、鳴と…一也達みたいな夫婦になりたいな」

ポツリと零していた言葉。
それを聞いて、一也も旭さんも目を見開いて驚いた様子。
…変なこと言っただろうか。首を傾げる。と、同時に、旭さんの掌が私の手を強く握った。

「絶対なれる」
「…うん」

旭さんの力強い言葉が、私の意思にそっと寄り添う。
その言葉を聞いてなんとなく私は…「今までの私」と彼女が仲が良かった理由に触れた気がしたのだ。きっと大丈夫。私は、この人たちとこれから上手く付き合っていける。友人になれる気がする。そんな確信が、胸の内を占めた。


それから、一時間ほど経ってから三人で店を出た。
お会計は一也の奢りだ。財布を出そうとしたけれど、やんわり旭さんに静止された。お言葉に甘えることにする。
お昼時の商店街の一角。地元の人が買い物袋を持って行き交う中、私たちは向かい合っていた。

「そういえば紗南髪きったんだな」
「今更?」
「悪い悪い」

一也の言葉に呆れた表情を作れば、返ってくるのは軽い謝罪。
まあ対面した時に気づいていただろうけれど、そんな話をする雰囲気じゃなかったから黙っていたんだろう。

「一也って本当そういうところあるよね。旭さん一緒にいて苛々することない?大丈夫?」
「………なんか紗南が戻ってきた気がするわ…お前の素って本当はこっちだもんな」

私の辛辣な言葉に、一也の昔を懐かしむような呆れたような物言い。そんな私たちのやりとりを眺めていた旭さんはニコニコ笑っている。

「ほんと、戻ってきたみたい」
「…今までの私も、一也に対してこんな感じだったの?」
「うん。いっつも一也くんが余計なこと言うから、よく怒ってた」
「そうなんだ…」

それだけで、今までの私も大きな失恋の痛みを乗り越えて前を向いて進んでいたことを悟った。
そういえば、とふと思う。
私も対面した時に気づいていたけれど話題にしなかったことがあった。

「…何月に、生まれるの…?」

脈略のない質問だったけれど、私が旭さんのゆったりとしたワンピースの腹部あたりを指さしたので、問いの真意を理解した一也が口を開く。

「10月末が予定日。最近ようやく安定期入ったんだよな」
「うん」
「10月…」
「産まれたら、連絡してもいい?」
「うん、大丈夫」

旭さんの控えめな問いに私は大きく頷いた。その答えに、彼女は華が咲くように微笑むものだから私まで嬉しくなってくる。
もうそろそろ解散かな、と思っていたが、このタイミングで旭さんは「ちょっと紗南と二人で話してもいい?」と一也に尋ねた。一也は頷いて、そっと私たちから離れて距離をとる。言葉が聞こえないだろうことを確認してから、彼女は口を開いた。

「一也くんと紗南が元に戻ったみたいで私は嬉しい」
「…本当?」
「うん。一也くんにとって紗南はいつまでもどんなことがあっても大事な存在なんだよ」
「……うん」

私がいつか望んだ関係ではなかったけれど。
今、一也の隣にいる旭さんがそう言ってくれるのであれば、それは素直に嬉しい。私にとっても、一也は大事な存在だ。大事な幼なじみ。そんな想いを認められたようで胸を撫で下ろす。

「紗南、一也くんから話を聞いた後たくさん泣いたでしょう…?」
「…そうだね。たくさん泣いた」
「ごめんね。私はまだ早いって言って止めたんだけど、一也くん聞いてくれなくて。あれはあの人の独断で強行したことだから。…帰ってきてから一発殴っておいたから安心してね」
「…殴ったの!?」
「うん」

可憐な雰囲気の旭さんから殴るなんて不穏な単語が飛び出て、思わず大きな声が出た。当の本人はケロリとしている。案外、情熱的な人かもしれない。彼女のギャップに思わずふふふと笑みが漏れた。…ああ、今なら言える気がする。

「…旭さん」
「なに?」
「私ともう一度友達になってくれる…?」

心がそれを望んでいるのだ。
私は彼女の白くほっそりとした手に自分の掌を伸ばした。冷たい指先をそっと包み込む。旭さんは少し驚いたようだけれど、私のことをジッと見つめて…それから、言ったのだ。

「勿論。もう一度、ここからはじめようね」

旭さんの浮かべる微笑みは、例えるなら雪原の晴れ間。白と青のコントラスト。冷たさと暖かさがお互い共存しているような…そんな美しさがあった。

その笑みを見た瞬間。彼女の言葉を聞いた瞬間。私の心に降り注いでいた雨が、晴れる感覚。
…ああ、梅雨が明ける。
夏がくるのだ。
私たちの未来は、明るい。
そんなありきたりな言葉で、美しいこれからを思い浮かべた。