あなたの形をおしえてよ



一也と旭さんと別れ、私は自宅に戻った。
お昼を食べて、家事を済まし、庭仕事に精を出す。花開いた紫陽花を鋏で切り取り、台所と玄関に飾った。それだけでパッと場が明るくなるから、花は不思議だ。
陽が落ちる前に、朝干した洗濯物を取り込み、畳んだそれを二階の寝室へ持っていく。
鳴と一緒に寝るようになったタイミングで客間に下ろした私用のチェストは元あった寝室の押し入れに戻った。来客用の布団も、もう出番はない。これが本来の形。あるべき姿。なんだかここまで到達した自分を褒めてあげたい。そんな満足感を改めて感じながら、私は一階に降りた。
そのまま台所で夕食作り。今日は簡単にうどんにしようと決めていた。野菜室の半端に残った野菜たちをまとめて茹で、味噌で味付け。ひとり分だけを作って、ひとりでそれを食す。
夕食後は、明日のピアノ教室の準備。生徒さんひとりひとりのノートに目を通し、予習していく。
この子には次の新しい課題曲を用意しないと、だとか、あの子は先週つっかえて上手く弾けなかった箇所を上手く指捌きできるようになっているかな、とか。青道の生徒達も可愛いけれど、ピアノ教室の生徒達も皆が愛おしい。

「…私、幸せだ」

改めて、実感する。
きっとそれは一也と旭さんと話をしたから。本当の意味で過去にケリをつけて、前を向いているから。だからこんなにも、必死に過ごしてきた今の日常が、愛おしい。

鳴がまだ私に話してくれていないことがあるのは、事実。でも多分きっと、…一也が言ったように私に過度な負担を強いない為に敢えて教えてくれなかっただけなのだ。そう思う。だって鳴はいつだって優しい。私のことを一番に考えてくれている。
…一也と旭さんみたいな夫婦になりたい。今、心からそんな風に思うんだ。

鳴の声が聞きたいな、と。
お風呂あがりにふとそんなことを思っていると、以心伝心。握っていたスマートフォンが鳴からの着信を告げた。慌てて指をスライドさせて応答する。

『随分早いね』

応答した鳴は少し驚いた様子だった。

「ちょうど電話しようと思ってたの」
『…なんかあった?』
「ううん、ただ…鳴の声が聞きたくて」

素直に今の気持ちを告げれば、鳴は一瞬押し黙った。それから、『そんなこと言われたらすぐ帰りたくなるだろ』と僅かに拗ねた口ぶり。なんとなく電話越しで唇を尖らせた表情をしているのが目に浮かぶ。照れてる。なんだか嬉しかった。

「試合勝ったね。おめでとう」
『見てたの?』
「うん、見てたよ」

名古屋での試合は、衛星放送の専門チャンネルの中継でしっかりと見届けた。昨日に引き続き連勝。鳴の言葉も心なしか明るい。私も嬉しくなってくる。

『明日、夕方にはそっち着くと思う』
「うん。わかった」
『随分機嫌いいね。今日はなにしてたの?』
「午前中に一也と会ったんだけど、お昼には家に戻ってきたし、そのあとは家の仕事して庭仕事して…」
『………ちょっと待って』

鳴の声が、私の言葉を遮った。

『一也と会ったの?』

その低い声を聞いた瞬間、鳥肌が立ち、肝が冷えた。
…これは、まずい。瞬時に脳味噌が警告を告げる。何か言わなくてはいけない。だけど役立たずの私の口は、縫いとめられたかのように動かない。私たちの間に不気味な沈黙。

『…ねえ、紗南』

答えてよ、と。氷のように冷たい鳴の声が耳に届く。
瞬時に思い出すのは、夢にまで見た"あの時の成宮"だ。壇上の王様が私を見下ろす。青い瞳が私をジッと見つめている。ぐにゃりと歪んだ口端。不機嫌な表情。
---いい加減気付けよ!!!
記憶の中の成宮が、私を糾弾する。

『一也と、会ったの?』

怒りに満ちた問い。
私は震える唇で小さく答えを紡いだ。

「…会った」
『…………なんでそんな勝手なことするんだよ。どっちから会いたいって言った?ねぇ、紗南、お前から言ったの?一也に会いたいって、そう言ったんだろ!?』

一也だけじゃないよ、旭さんもいたよ。きっかけは私からだったけど、旭さんが私に会いたいって言ったから会ったんだよ。
そんな言葉はついぞ口から出ることはなかった。鳴の怒声が、耳にこびりついて、離れない。

『……やっぱり、変わってないな。なにひとつ、変わってない。……もういい。切るよ』

私が黙り込んでいるうちに、鳴が強制的に通話を終了させた。ツーツーと無機質な音がその事実を告げる。
待って、違うの。違う。なんで話聞いてくれないの。なんでそんなに怒ってるの。
震える指先で、着信履歴から鳴の携帯に電話をかけ直す。けれど呼び出し音は鳴らない。『この電話は…』という抑揚のないアナウンス。

「…電源切られた…」

力なく呟く。
霞む視界。スマートフォンの画面に、ぼとり、と落ちるのは涙の滴。
なんで、なんで。

---やっぱり、変わってないな。
なにひとつ、変わってない。

なにが変わってないの。なんで一也に会っただけでそんなに怒るの。鳴の言葉を反芻しながら、様々な疑問が脳裏に浮かび上がる。…変わってないのは、そっちじゃないか。先程の様相は、まるで昔の成宮だった。今の鳴じゃない。いつだって私のそばにいてくれて、大丈夫だって頭を撫でてくれて、優しさに溺れさせてくれた彼じゃない。

「…なんで、」

混乱した思考のまま、私は立ち上がる。そのまま二階に続く階段を駆け上がった。寝室の隣、物置部屋の扉を勢いよく開ける。電気をつけ、探すのはあの日記が仕舞い込まれていた段ボール。
…見たくないなんて、言ってられない。
今見なくちゃダメだ。
私たちはこのままじゃ駄目になる。
そんな強い意志を持って、箱の蓋に手をかけた。私を突き動かすのは、悲しみなのか怒りなのか探究心なのか混乱なのか困惑なのか、はたまた鳴に対する愛なのか。…それは理解らない。水の中、ぐちゃぐちゃに溶けた絵具みたいな心情で、背表紙に一番古い西暦が刻まれた皮張りの日記を取り出した。
表紙を捲る。
1ページ目。


ふと思い立って今年から日記をつけることにした。4月にはついに高校生三年生になるし、心機一転。書き続けられるか不安だけど。まあゆるく続けていくことにする。
今年の目標
・全国にいく
・一也に告白する



初日の文を読んだだけで、ウッと胸になにかが詰まった感覚になった。…恥ずかしい。いや、でも、読むしかない。ページを次々と捲る。書き続けられるかと不安だと書いていたわりに、どのページにもしっかりと文字が並んでいる。やっぱり筆マメなんだよな、と我ながら感心した。
高2の1月から記されているわけだから……このあたりだろうか、と真ん中あたりのページまで飛ばし読み。
鳴が以前語ったことが嘘でなければ…夏にはこの日記に鳴が登場する筈だ。
パラパラと読み進めていくうちに、ふとあるページにデカデカと書かれた一文が目に入った。



ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である
ウィリアム・ジェームズ



その日のページには、その文章だけだ。ただそれより前の日付のページを読むことで、なんとなくその一文を書いた時の私の心情を悟った。



一也と立花さんが付き合ってるって噂が流れてる。嫌だ。夏大の予選間近なのに、一也が、そんなことにうつつを抜かすわけないって信じたい。でも、教室でのふたりの姿を見ると、噂が本当のような気がしてくる。今日も昼休みゆっこたちのクラスに逃げ込んだ。


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一也とヒッティングマーチの打ち合わせ。
立花さんのことを聞いてみる。
はぐらかされた。
……そんなの、好きって言ってるようなものでしょ。一也はいつも肝心なことを言ってくれない。


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……最悪だ。
消えていなくなりたい。
一也なんて、
御幸なんて、大っ嫌い。


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ゆっこたちが、立花さんを呼び出したことで、なんで私が怒られなきゃいけないんだ。だいたい"ただのクラスメイト"の御幸が怒る義理なんてないでしょ。だったらハッキリ付き合ってるって言えばいいのに。私のこと「大事な幼馴染。それ以上でもそれ以下でもない」って言ったみたいにさ、言えばいいのに。




そこまで読んで、なんとなく察する。
格言が書かれたページの日付は、8月の後半。
……一也の、引退後だ。
多分、この日、一也と立花さんが付き合い始めたか……私がその事実を知ったに違いない。古ぼけたページに指を這わせると、なんだかボコボコしている気がする。多分涙の後。
ページを捲る。
数日、空白が続き、そして、その名前は突然姿を現した。



成宮から電話があった。



その単語が目に飛び込んできた時、私は慌てて手を止める。そしてそのページを食い入るように見つめた。



成宮から電話があった。
何故だか知らないけど、御幸と立花さんのことを聞かれて…そして、…私は、大丈夫なのかって聞かれた。
余計なお世話だ。
おいそがしいのにわざわざどうも、って言って切った。



どうやら鳴の言っていたことは本当らしい。それにしても私は随分鳴のことを毛嫌いしているような、書き方。まあ、あの頃の彼のことを思い出すと、そうなるのも仕方ないような気がする。
それから日付を進めるたびに、成宮、という単語が目につくようになった。




成宮から電話。
引退して時間を持て余してるらしい。
最近よくかかってくる。
残念ながら私は今月末の文化祭もあるし、来月に至っては全国だ。忙しい。受験勉強もある。そう言えば、文化祭行ってもいい?って聞かれた。断ると煩そうだったから、勝手にすれば、と言って電話を切った。


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文化祭初日。
本当に成宮が来た。
ふたりだけで少し話をする。
髪切ったんだ、似合ってるって言われた。そういうこと言わなさそうだからびっくり。吹部の演奏を聴いて、そして帰っていった。
なにしに来たんだ。
ゆっこたちに成宮のことを問い詰められる。
私たちを形容する言葉が見当たらない。
犬猿の仲?


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ドラフト。
成宮も御幸も東京の球団に決まった。
取材で忙しいだろうに、夜、成宮から電話があった。私の受験が終わったら、会おう、と言われる。
多分社交辞令だ。
すぐに忘れるだろうと思ったから早く話を終わらせたくて「いいよ」と言った。
成宮は自分で言ったくせに、私の答えに驚いていた。


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立花さんと話をした。
つい強がって「気になってる人がいる」と言ってしまったけれど、別に好きな人なんていない。……でも、なんでだろう。その時、成宮の姿が思い浮かんだ。


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大学に合格した。
一応成宮にメール。直ぐに電話がかかってきた。クリスマス前に会うことになった。
……これって、一応、デートになるんだろうか。新しい洋服買いにいかなきゃ。


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約束の日。
成宮と会った。
ふたりでランチ食べて、映画を見た。
成宮は意外にも箸の持ち方が綺麗だ。映画はアクションが好きって言ってたけど、私が見たいって言った恋愛映画にしてくれた。途中寝るかなって思ったけど、成宮は寝なかった。終わった後、作中の当て馬の男がいいヤツ過ぎて可哀想とか言ってたから、なんだかんだ集中して見てくれていたらしい。
私が成宮にちょっと似てたねって言ったら、拗ねた。その顔が可愛いと思った。

夕食も一緒に食べた。
帰りは家まで送ってくれた。
……なんだか変な感じだった。
一也と立花さんのことを聞かれる。別にもう私はなんとも思ってないって言ったら、成宮は、ちょっと変な顔をして、それから私の手を握った。

「俺と付き合って。一生のお願い」

告白された。
それだけでも驚きだったのに、一生だなんて、そんな大袈裟な言い方するから、私は思わず「ずっと一緒にいてくれるの?」って聞いた。多分成宮のことだ。付き合ったって直ぐ飽きる。女の子なんて成宮の周りにたくさんいるんだから。そんな風に考えてたら、仰々しい顔して「ずっと一緒にいる」って私の手を強く握りしめながら頷いたから、私は思わず泣きそうになった。

私は、多分、成宮のこと好きになる。
そんな風に思う。




一冊目の日記を閉じた。
二冊目に突入する。まるで映画のストーリーを追っているようだった。ページを捲る指が、止まらない。


年明け。
成宮と初詣。たまたま神社で御幸と立花さんに会った。御幸は私たちの姿を見て凄く驚いた顔をした。 
付き合ってるのか、と聞かれたから、そうだ、と頷いたら変な顔された。そんなに意外だろうか。
成宮と御幸が話している間に、立花さんと話をする。
成宮のこと、「前、言ってた気になってるひと?」って聞かれたので頷いた。
立花さんは都内の大学にスポーツ推薦で合格しているらしい。お互い気の抜けた正月になるねと話をする。
立花さんと連絡先を交換した。
御幸たちと別れた後、お昼ご飯。
成宮の誕生日が近いことが判明する。全然知らなかった。プレゼント買うよって言ったら、「名前で呼んで。それがプレゼントでいい」って言われる。随分無欲だ。
鳴って呼ぶことになった。
帰りはまた自宅まで送ってくれた。
別れ際、キスした。
勿論ファーストキスだ。
レモンの味はしなかった。
でも鳴の唇は、柔らかかったな。


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鳴、入寮する。
しばらく会えないのがよっぽど寂しいらしい。私が、会いたいな、と言えば少し機嫌が治った。なんとなく鳴の扱い方がわかってきた気がする。
私も大学入学の準備でバタバタと忙しい毎日。でも楽しみだ。


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卒業式。
御幸と話す。
ずっと私の気持ちに気づいてたけど知らん振りしてきたことを謝罪された。
私は旭に断ってから御幸を一発殴った。スッキリした。
これで多分元どおり。
私たちは幼馴染に戻った。

夜、鳴から電話。
稲実も今日卒業式だったらしい。
キャンプから帰ってきて早々大変だ。
早く会いたいと言われた。
私も鳴に会いたい。



二冊目、三冊目、四冊目は主に大学生活と、そしてやっぱり鳴のことで埋め尽くされていた。時折一也や旭さんの名前も見かける。優子をはじめとする青道吹奏楽部の友人たちの名前、多分大学時代の友人の名前。鳴と行った洋食屋さんでのアルバイトの日々も書き記されている。日記には、私の青春が詰まっていた。
再び私の指が動きを止めたのは、四冊目、大学三年生の12月のページ。



鳴にプロポーズされた。



その一文に、ハッと息が止まる。



青道の教師になんてなって欲しくない。
俺だけを見て欲しい。
俺だけを支えて欲しい。
紗南の人生を俺に頂戴。

鳴は、そう言った。

私だって鳴とずっと一緒にいたい。
でも、正直悩む。
青道は私にとって大切な思い出の場所で、長尾先生も私なら吹部を任せられるって言ってくれてる。私も、挑戦したい。今度は私が生徒たちを全国へと導いてあげたい。

私が直ぐに頷かなかったから、鳴は怒った。
そんなに一也のことが大事?って聞かれた。なんでそこで御幸が出てくるのか私にはわからない。
せっかく久しぶりのデートだったのに喧嘩別れになった。




私は四冊目を読み終わるとすぐに五冊目、大学三年生の1月のページを開いた。




鳴と初詣。前から約束していた成宮家への挨拶もあったし、予定通り会うことにした。
成宮家に行く前に、ふたりで話をする。
プロポーズを受けることを、鳴に伝えた。
鳴はすごく喜んでいた。
それだけで、私の答えが間違ってないって思える。鳴と別々の人生なんて、もう私には考えられない。

そしてここ数日ずっと考えていたことを、鳴に伝えた。
ピアノ教室を自宅で開きたい。
社会との繋がりをなくしたくない。
私も仕事をしたい。
そんな私の想いを聞いて、鳴はちょっと悩んでいたけれど、最終的には頷いてくれた。

鳴は早速、結婚する、と成宮家で宣言した。気が早い。でもおとうさんとおかあさんはとても喜んでくれた。早く孫の顔が見たいだって。こっちも気が早い。

帰宅してから、パパとママにも報告。パパは鳴の職業に少しの不安を吐露したけれど、大学はキチンと卒業するし、教員免許も必ず取得すると伝えたら、わかった、と頷いてくれた。

私、鳴と結婚するんだ。



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教育実習が始まった。
とにかく覚えることが多い。
でも長尾先生や礼ちゃん、色んな先生がフォローしてくれる。嬉しい。頑張らなくちゃ。


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礼ちゃんに結婚の話をした。
実習中にする話ではないけれど、礼ちゃんは喜んでくれた。良かった。

長尾先生にも、伝えた。
驚きつつも喜んでくれたけど…やっぱり、残念だ、と言われた。
私もそう思う。
長尾先生から、自分が定年を迎えるまで吹部の外部講師をやらないか、という提案を受ける。そして長尾先生の定年後は、是非私が青道の音楽教師に、とも。校長先生も承知のことらしい。
嬉しかった。


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鳴に青道の仕事の話をする。
喧嘩になった。
……なんでそんなに青道のこと嫌がるのか、私にはわからない。


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鳴は私にとても優しいけど、御幸と青道の話をすると機嫌が悪くなる。
まだ私が御幸のことを好きだとも思っているんだろうか。
私が愛してるのは、鳴なのにね。
なんだかうまくいかない。


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結婚式場の予約をした。
時期は来年の12月。
入籍はその前に済ませようという話になった。鳴は早く入籍したがってる。
私は逃げないんだからそんなに焦ることないのに。

相変わらず鳴とは喧嘩したり、仲直りしたりを繰り返している。これがマリッジブルーっていうやつなんだろうか。

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ふたりで住む家を決めた。
ピアノ教室のことと青道での仕事を考えて、国分寺に近い街にした。実家からは少し遠いけど、同じ都内だし、あんまり心配していない。なにより街の雰囲気が好きだった。駅前には老舗の飲食店が並んでいるし、商店街もある。昔からやっていそうなラーメン屋さんもあった。
古い一軒家。リフォームしてもらうことも決めた。全て鳴がお金を出した。さすが都のプリンス。稼いでる額が違う。
着実に結婚に向けて準備が進んでいる。
鳴の機嫌はいい。
良かった。



日記は六冊目に突入する。


無事大学の卒業式を迎えた。
謝恩会までの時間を利用して、鳴と婚姻届を市役所に出しに行った。役所の人に袴姿を驚かれるが、おめでとうございます、の言葉に嬉しくなった。

今日から私は、成宮紗南だ。


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今シーズンが終わり、引越し。
それと同時に鳴は退寮。稲実時代から合わせると約7年の彼の寮生活は終わりを告げた。
今日から鳴とのふたり暮らしが始まる。
楽しみで仕方ない。


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ついに待ち望んだ結婚式。
凄くたくさんのひとたちが、私たちを祝福してくれた。カルロスくんが酔っ払って裸になろうとしたから稲実の人たちが全力で止めていた。相変わらずだ。
そうそう、相変わらずといえば。鳴と高校時代バッテリーを組んでいた原田さんと樹くんの新郎友人スピーチ。樹くんが大号泣。鳴は私の隣で爆笑していた。楽しそうでなにより。
新婦友人スピーチでは、ゆっこたちがサプライズで演奏を披露。感動で涙が止まらなかった。長尾先生も泣いていた。鬼の目にも涙。
そして、お見送りの時。
ブーケを御幸と一緒に参列してくれた旭に渡した。
「次は旭の番だね」といえば、旭は泣いて頷いていた。
「早く結婚しなよ」と御幸に発破をかけておいた。御幸は「言われなくても」って言い返してきたから、多分そのうちいい報告が聞けるかもしれない。楽しみだ。


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鳴に「一也ともう会わないで」と言われた。
結婚式の翌日にあんまりだ。いくら御幸が大事な幼馴染だって言っても聞いてくれない。聞く耳をもたない。すごく頑固。
…鳴はまだ私が御幸のことを心のどこかで好きだと思っているらしい。
一体何年前の話をしているんだろう。
正直呆れた。
でも鳴が私を信じてくれるなら、と昨日御幸がくれた祝福メールに「もう会わない」と返信した。メール本文を鳴に見せれば、少し安心したらしい。
ごめんね、と抱きしめられながら謝られた。
…難儀な人だと思う。
御幸と会えないのは少し寂しいけれど、旭とは会ってもいいらしい。
それは、安心した。




私はしばらくそのページの文章を何度も何度も繰り返し読んだ。
昨日一也が教えてくれた事実と重なる過去。
彼は昨日、自分と私が会わなかったのは私の意思だと言った。それは確かにそうだけれど、でも事実は少し違った。
…きっかけは、鳴だ。
鳴が私に一也と会うなと言った。
だから私は一也にメールした。

私は息を整えるように、何度も、呼吸を繰り返す。
日記を読み進めるたびに、私の中の優しい鳴の姿が霞む。
どんどんあの頃の成宮の姿に戻っていく。
…難儀な人。
その一文は、その当時の私が随分悩んで書き記したんだろうか。
筆圧が他の文に比べて弱かった。
指先でその文字をなぞる。

六冊目を閉じた。
七冊目、勇気を持って表紙を開く。
だが予想に反してその中身には穏やかな日々が綴られていた。
鳴との結婚生活、ピアノ教室、青道での指導の日々。幸せという単語がよく登場するものだから、その当時の私は本当に満ち足りた生活を送っていたんだろうと察する。
八冊目も同様だった。
そして、九冊目。…去年の、1月。
どんどん「今」に近づいていく。





お正月。
恒例になった成宮家への挨拶。
ついに子供のことを言われてしまった。
…お義父さんもお義母さんもずっと我慢してたんだろう。
無理にとは言わないけれど、と病院を勧められる。
まさか私が親になる勇気がないからピル飲んでるなんて言えるわけない。
鳴は黙り込んでいた。

帰宅してから、子供のことで鳴と喧嘩。
鳴の気持ちはよくわかる。子供を望んでくれているのは嬉しい。
でも今の私はピアノ教室と青道の子供達で手一杯だ。
そう伝えれば、「俺のこと愛してないんだ」と言われた。
そんなわけない。
ちゃんと愛してる。
でも、それとこれとは別問題だ。
そう思うけど…私が間違っているんだろうか。


ーーー


相変わらず子供の話は平行線のままだ。
ついに鳴が、青道の仕事は今年でやめろとまで言い出した。
…最近、顔を合わせても鳴とは喧嘩ばかり。
ちょっと疲れたな。


ーーー


旭と会う。
鳴とのことを相談する。
結婚したら結婚したで色々大変だね、と旭に苦笑された。
本当にその通りだ。
だけどついに旭もそんな既婚者の仲間入り。
御幸がとうとう腹を括ってプロポーズしたらしい。
ようやく。
久しぶりにおめでたい話を聞いた。
自分のことのように嬉しい。


ーーー


嬉しい話題は続く。
ゆっこが出産。ママになったと連絡があった。
男の子だという。写真を送ってもらった。すごく可愛い。
…赤ちゃんの写真を見たり話を聞いたりすると…親になるのもそんなに悪いものじゃないかもって思える。
シーズンオフに入ったら鳴に話してみようかな。


ーーー


子供のことを前向きに考えたい、と鳴に伝えた。
鳴は大喜び。
まだ考えるって段階なのに、男の子だったら絶対野球やらせるんだってはしゃいでいる。
何だか微笑ましい。
鳴が幸せならそれでいい。
私はそれだけで満足だ。




大晦日のページはそんな文章で締められていた。
九冊目を閉じる。
そしてついに、十冊目。
背表紙には今年の西暦。
隠されていた「今までの私」と、「私」がついに重なるのだ。
しばらく悩むようにウロウロしていた指先が、革表紙をなぞる。
そして、ついに私は、決意を持ってその表紙を開いた。




子供のことを考え始めたけれど、周囲にはあまり言い触らさないことにした。
授かりものだと思うし、周りに過度な期待を持たせたくない。
相変わらずお義母さんからは子供の件で電話がかかってくる。
不妊治療で評判の良い病院を知っているらしい。
とりあえず今はピルを飲むのをやめて自然に任せようと思っているので、お義母さんの話は聞くに留まっている。
それに関しては鳴も理解を示してくれた。
あまり口煩いようならお義母さんに鳴からやんわりとやめるように伝えてくれるらしい。頼りになる旦那さんだ。


ーーー


生理がきた。
…まあ、そう簡単に妊娠できるわけないよね。
少し落ち込む。鳴も落ち込んでいた。
ふたりで夕飯の時にビールを飲んだ。たまにはそういう日もあっていい。


ーーー


キャンプ前日。
明日から鳴は沖縄。
夕飯を食べた後、改まった態度で鳴が「話がある」と切り出した。

今シーズン無事に終えることが出来たら、来年はアメリカに行きたい。
メジャーに挑戦したい。

鳴はそう言った。
子供のことを考え始めたのに、なんで急にそんなこと言うのか私には理解できない。親になること自体不安なのに、もし今年中に妊娠したらどうするつもりなのか。向こうで出産、向こうで子育てなんて私には出来ない。私は日本に居たい。ピアノ教室も青道の仕事もある。アメリカなんて行きたくない。
そう言ったら、鳴は、大激怒。
久々に大喧嘩だ。

俺だけを見て、俺だけを支えるって約束したから、結婚したんだろ!
鳴はそう言うけど。
私はそんな約束したつもりはない。
私が鳴と結婚したのは、鳴と一緒にいたいと思ったからだ。
そんな雁字搦めの愛情なんて求めてない。
終いには、一也がいるから日本に居たいんだろ、なんて鳴が言い出すから。
私たちの9年間ってなんだったの?
涙と一緒にそんな言葉が零れ落ちていた。

なんで鳴は私のこと信じてくれないんだろう。


ーーー


朝起きたら、鳴は既に家を出ていた。
結局顔を見ずにしばらくのお別れになってしまった。
悲しい。


ーーー


鳴から謝罪の電話があった。
…結局いつも最後は許してしまう私が悪いんだろうか。
もう私達の関係を修復することも、鳴の疑心を振り払うことも、不可能な気がしている。
…もう一度、いちからやり直したいな。
優しい鳴に会いたい。
怒鳴り声じゃない、鳴のあの優しい声で私の名前を呼んで欲しい。


ーーー


明日、鳴が帰ってくる。
電話でも謝罪はあったけれど、やっぱり久しぶりに顔を合わせるのは緊張する。
鳴はこれ以上私に何を求めてるんだろう。
私は、鳴のことをちゃんと愛しているのに。




私は、日記を閉じた。
ただ呆然と、部屋の天井を仰ぐ。
自然と頬に涙が伝っていた。

---やっぱり、変わってないな。
なにひとつ、変わってない。

電話越しの鳴の声を思い出す。
変わってないのは、私じゃない。
貴方だよ、鳴。

「…難儀な人…」

指でなぞった自分の文字を消えそうな声で、呟いた。