革命前夜の嘘のこと


…もう一度、いちからやり直したいな。
優しい鳴に会いたい。

「今までの私」がそう強く願ったから、「私」はここで目覚めたんだろうか。そんな考えが頭からこびりついて離れない。



ド ファ ミ ファ ラ ド ファ

指の腹で鍵盤をポーン、と押す。ゆったりとしたメロディー。この曲を弾くのは、随分久しぶりだった。小学生の時に発表会で披露した「トロイメライ」。シューマン作曲のそのメロディーは皆どこかで一度耳にしたことがあるだろう名曲だ。ドイツ語で夢心地との意味をもつタイトル。
なんとなくいまの「私」の心情を表現したくて、予定していた全てのレッスンを終え最後の生徒さんを見送った後、---私はひとりグランドピアノと向き合った。

優しくも儚いその旋律に、自分の想いを乗せる。

昨晩触れた失われた十年間は、それこそ一也の結婚を知った時よりも大きな衝撃を受けた。「私」が目覚めた時、この世界が十年後だと理解した時から、ずっと私の傍にいて献身的に「私」を支えてくれた鳴の、大きな闇に触れた気がする。考えれば考えるほど、「今までの私」の苦悩が「私」の中に流れ込んでくる感覚。

「今までの私」は確かに鳴を愛していた。
私も、今、その情動に足を突っ込んでいるから、その気持ちが、よく理解る。
どれだけ、幸せだったのだろう。
どれだけ、悩んだのだろう。
そして、鳴を想って、どれだけ、泣いたのだろう。

指が、止まる。
ぼたり、と鍵盤に、滴が落ちた。
「私」もまた昨日から、ずっと、泣きっぱなしだ。どんなに抑え込もうと努力しても駄目で、ふとした拍子に書き記されていた日記の文が脳裏にチラつく。
そしてその度に強い衝動に駆られるのだ。
…いま、「私」が出来ること。
それは、


「……それ、なんで弾いてるの?」

突然掛けられた声に、私は顔を上げた。玄関に続く部屋の扉。開け放たれていたそこに立つ、彼の名前を呟く。

「………鳴」

いつ帰ってきたんだろう。全然気づかなかった。そもそも、今日、本当にこの家に帰ってきてくれるかも定かではなかったから、驚きと同時に安堵する。
鳴は確かに其処にいた。抑揚のない青い瞳が私をジッと見つめている。

「トロイメライ。紗南もよく弾いてた。……俺と、喧嘩した後」

やっぱり変わってないね、と。自傷気味に呟いたその言葉は、昨晩のそれと似ていたけれど、でもやはり違う。彼もまた苦悩の夜を過ごしたのかもしれない。そんな想いが、胸を占める。私は鍵盤蓋を閉め、椅子から立ち上がった。そして微動だにしない鳴と対面し、彼のその端正な顔を見上げる。

「おかえり」
「……ただいま」

もっと劇的な再会になることも考えていたけれど、現実は至って普通だった。普段通りの私たちの会話。ただ少しぎこちなさはあるけれど…それでも、昨晩触れた彼の怒気はなりを潜めている。いつもの鳴だ。
でも、私は知ってる。もう知ってるよ。
その優しい仮面の下に隠した、貴方の劣情を知っている。
そんなことを考えているとふいに、鳴の腕が、私の身体を強く抱きしめた。
首筋に彼の熱い息がかかる。

「……昨日は、ごめん」

謝るぐらいなら、と思う。きっと今まで同じようなことを繰り返してきたのだろう。
私は押しつけられた鳴の胸板で唇を噛み締めた。そしてゆっくりとその閉ざされた一線の、封を解く。

「今までの私にも、いつもこうしてたの?」
「………」
「一也に嫉妬して、私のこと怒って、それで謝って……その繰り返し……?」
「……ッ、」

鳴が、私の耳元で息を飲む音。離される身体。彼の瞳が、私を見下ろす。

「なんで、それ、誰に聞いたの」
「……"私"に聞いた」

こっちにきて、と。鳴の手を引く。廊下に置きっぱなしの彼のスポーツバックを素通りして、ふたりでリビングへ。鳴は、真ん中のローテブルに置かれたダンボールの箱を見た瞬間、私の手を強く握った。

「なんで、これ」
「昨日全部読んだ」
「…なんで…」
「貴方のことが知りたくて」

鳴は目に見えて、狼狽えている。
サラサラと彼の仮面が砂上になって、剥がれ落ちていくのがわかった。優しさだけの彼は、もういない。私の目の前にいるのは、裸の王様。
怯えた様で、私の隣に立っている。

「鳴は、これを読んだ…?」
「……読んでない。…ずっと、日記を書いてるのは知ってたけど……俺は、読めない。読みたくない」
「読んで」

強い口調で、私は及び腰の彼に立ち向かった。どうしても譲れない。
それに私は、鳴がこの日記を読んでいない事実を聞いて少し安心していた。それはまだ私たちの関係が修復出来るであろう可能性を示唆しているから。だから、私は、ハッキリとした「私」の意思を伝える。

「鳴がこれを読んでくれないと、私たちはずっとこのままだよ。これ以上先には進めない」
「…このままでいい!」
「私は嫌だ。そんなの今までの繰り返しじゃない。なんにも変わらない。なんで、「私」がこうしてここにいるのか、鳴は考えたことあるの!?」

つい声が大きくなった。鳴を思わず睨みつけるように見つめる。彼は私の言葉に、うっ、と口を閉ざした。それだけで、理解る。……多分、鳴もずっと考えていたに違いない。誰よりも、この現実を後悔しているのは鳴なのだ。

「……神様が、やり直せって、言ってる」
「…うん」

非現実的なことが起きてしまったのだから、それぐらい抽象的な言葉でしか語れないのは仕方がない。実際、私もそう思う。
「今までの私」が願ったから、こうなってしまったかは定かではないけれども。
「私」の時計の秒針が、早送りになったのは変えられない事実。戻ることはできない。前に進むしかない。
「今までの私」はもう戻ってこない。

「私もそう思うよ」

だから、今の「私」が、出来ることはただひとつ。それは鳴と「今までの私」の架け橋になることだ。そして、彼の固く閉じたパンドラの筐を、こじ開けること。
それだけ。

「……読んでる時、隣にいて」
「うん」

鳴は腹を括ったようだった。提示した条件に私が頷いたからか、少し安堵の表情を見せる。それから私たちは、ふたりで並んでソファーに腰を下ろした。
一冊目の日記帳を鳴に手渡す。
鳴は、震える指先でその表紙を開いた。
視線を落とし、文字を追っていく。
数ページ読み進めて、手を止めた。

「一也のことばっかりじゃん」

氷のような冷たい声。
私は鳴の手をぎゅっと握りしめる。

「それはこの一冊だけだよ。お願い、読んで。辛いなら8月まで飛ばしていいから」

8月という言葉に勿論思い当たる節がある鳴は、うん、と小さく頷いた。
17歳の私が一也のことを好きだったのは事実。勿論それは鳴も承知のこと。…それが鳴の不安を駆り立てるのであれば、いま無理にそれに対して向き合う必要はないと思う。重要なものは、残りの9年間に記されているのだから。
鳴の左手がページを捲る。
成宮から電話があった、のページで指が止まった。

懐かしそうに、その時のことを思い出しているのか、鳴は目を細める。

「紗南、俺のこと嫌いだったでしょ」
「…そうだね。酷いこといっぱい言われたし」
「……俺はさ」
「うん」
「一也のことが好きな紗南が嫌いだった」
「……うん」

---17歳の紗南は嫌いだったよ
初日に言われた言葉の答え合わせ。
私は、頷く。そうなのだろうな、とこの日記を読んで察していた。
それほどまでに、彼が抱く私への愛が私の文章の節々からも滲み出ていたから。

鳴はそしてまた、ページをめくり始めた。自分の名前が登場するたびに、その部分を何度も読み返している。特に長かったのは、クリスマス前にふたりで会った日のページだ。付き合い始めた日。
じっくりと読んだ後、表紙を閉じた。
それから、二冊目、三冊目、とどんどん読み進めていく。私はただ黙ったまま鳴の隣にいた。

四冊目。プロポーズ。
五冊目。結婚に向けて着々と準備を進めていく私たち。
六冊目。ついに入籍。そして結婚式。一也との決別。
七冊目、八冊目。穏やかな結婚生活。
九冊目、子供のことで悩んだ一年。
そして、十冊目。

鳴の指先が、止まった。
茫然と見下ろすページには、やはりその一文が書き記されていた。

…もう一度、いちからやり直したいな。
優しい鳴に会いたい。

ぼたり、と。
彼の涙が紙に滲みをつくる。
場違いな感想かもしれないけれど、頬を伝って流れ落ちる鳴の涙はサファイアから零れ落ちる宝石の欠片みたいだった。とても美しい。美しくて、儚くて、悲しみに溢れている。
私は思わず彼の手をぎゅっと握りしめた。

「…紗南、ごめん」

鳴が呟いたのは「私」の名前だけど、そうじゃない。その謝罪の言葉は「今までの私」に向けられたものだ。消えてしまってもう戻ってこない、もうひとりの、私。
そんな私が願って叶った現実の代償は、計り知れないほど大きい。「私」は十年という年月を失い、鳴は誰よりも自分を愛してくれていた存在を失った。
私たちの中にそれぞれぽっかりと空いた大きな穴。
後悔するな、という方が酷な話だ。

「…紗南が、玄関で初めて今の俺と会った時に俺のこと"成宮"って言ったでしょ」

今度は「私」の話だ。
うん、と頷く。

「ふざけんなって思ったよ。喧嘩したぐらいで…17歳のフリして、逃げて、俺に嫌がらせしてるのかって。だからちょうど一也が旭さんの体調悪くなってキャンプからこっちに戻ってること知ってたし…、確かめるために呼び出したら…、俺のことは"成宮"って呼ぶのに、一也のことは"一也"なんだもん。…そこで本当に紗南の中身が17歳ってわかった」
「…うん」
「……それで、さ。ようやく俺は理解したんだよね。今までの紗南がちゃんと俺のこと愛してくれてたって。一也に恋してる17歳の紗南の瞳をみたらわかった。……だから俺は……どんな手を使ってでも、俺のことを愛してくれてた紗南を取り戻そうと思ったの」
「…だから、あんなに優しかったの?」

もう一度惚れさせるだけだ、という言葉を思い出す。指先に落とされた唇。優しいキス。あの瞬間から鳴を意識したのは、確かだ。でもそれ以前から彼はずっと私に優しかった。

「……それも、あるけど。でもやっぱり一番は、俺もやり直したかったから。…紗南を疑って怒るばっかりじゃなくて、紗南のこと信じたかったし…優しくしたかった」

失ってはじめて、鳴は、自分の犯した罪を知ったのだろう。そしてあの日から今日までずっと贖罪を抱えて私の傍にいてくれた。
私は、そっと彼の頬に手を伸ばす。
鳴の言葉は続く。

「俺のこと軽蔑した?」
「…難儀な人だなぁ、とは思うよ」
「…うん」
「でも、嫌いになんて、なれない」

多分「今までの私」もきっとそうだったのだと思う。そんな鳴と一緒に歩む決意を持って、私は彼と結婚した。
日記を読んだ今の鳴なら、きっとそれを理解してくれているはずだ。

「じゃあ、好き?」

小さく震える声。怯えたようなそれ。
…これは、いま、間違いなく「私」に向かって問うている。それがわかる。

「すき」

甘酸っぱい答えを小さく呟いた。

「……うん」

「私」の決意を尋ね返されることはない。鳴がジッと私の顔を見つめている。ジワジワと口端が緩んでいくものだから、ああ嬉しいんだな、と実感する。それがとても愛らしかった。

「鳴。私、昨日、一也と会ったって言ったけど」
「…うん」
「旭さんもいたの。三人で会ったんだよ」
「……会ったの?旭さんと?」

鳴は予想していなかった出来事に目を見開いた。私は苦笑を浮かべる。

「そう。……私は、もう一也のことなんとも思ってないよ。だから旭さんとも会えたの。…それはね、鳴。貴方がずっと私の傍にいてくれたからだよ。きっとそれが10年前との違い。他の誰でもない鳴が居てくれたから、私は立ち直れたの」
「そっか」

多分だけれど…鳴が、ずっと心の中で一也への気持ちを疑っていたのは、あの当時吹っ切れていく私を傍で見ることがなかったからじゃないだろうか、と思うのだ。日記に書いてあったように、私は告白の時点で一也と旭さんのことをなんとも思っていない、と鳴に伝えている。それは多分本当のことだろう。あの当時の私にはたくさんの友達がいた。吹部の仲間がいた。彼女たちに支えられながら、私は既に立ち直っていたんだ。
……でも、きっと、それが鳴にとって不安の種だったんだろうと思う。
劣等感。ひけ目。自己否定。敗北感。
それらの言葉は全て、マウンド上の王様には似つかわしくない言葉だけれど。でも鳴だってただの男の子でただの高校生で、ただの"野球バカ"だったのだ。
そこでふと思い出す。

「今までの私がね、青道の生徒さんのひとりに高校時代の鳴のこと…話したことがあるみたいなの。馴れ初め。それで…私は言ったんだって。"野球バカ"だけど辛い時に傍に居てくれたって」
「…"野球バカ"」
「気になるのそっち?」

苦笑する。
違うよ、鳴。そうじゃない。
私は言葉を続けた。

「鳴が文化祭に来てくれたことも、掛けてきてくれた電話も、私の中では…それがきっと"傍にいてくれた"ってことになるんだよ。貴方が寄り添ってくれたって思ってたんだよ」

鳴はそんな私の言葉を聞いて、また少し泣いた。

鳴と向き合いたい。
疑心に満ちて真っ暗だった鳴の心が、ゆっくりとゆっくりと春の鼓動を再び刻むように。私はそれだけを願っていた。
だって自分の心は既に新しい色に塗られて動きはじめている。
美しいカナリアカラー。
それは、鳴の色だ。


それから私たちはたくさんの話をした。
ピアノ教室も、青道の仕事をするのも本当はずっと嫌だった。一也のこと好きな紗南のこともひっくるめて愛してるなんて、嘘。やっぱり俺のことだけを見てほしい。俺のことだけ考えて、ずっと傍にいてほしい。
今までずっと抱え込んでいた、彼の本当の気持ち。私は否定することなくそれを全て受け入れる。

「でもさ」

ふいに鳴がそう言った。

「…なんでだろうね。今でもそう思うけど、やっぱりちょっと違う」
「……私はね」
「なに?」
「鳴と向き合いたい」
「…うん」
「自分本意で、我儘で、嫉妬ばっかりの、そんな丸裸の鳴を、いま、私は、愛しいって思うよ。…すごく、好きだなって感じてる」
「……悪趣味だね」

鳴はそう言ったけど。
でも涙に滲んだ青い瞳を細めて照れたように笑う彼のその微笑みは、私が今まで17年間見てきたものの中で、一番美しかった。



落ち着いてから、ふたりで家を出た。
夕飯を食べに私が昔アルバイトしていた洋食屋さんへ。鳴は泣いた目を誤魔化すように、夜だというのにサングラスをかけていくと譲らないものだから少し笑ってしまった。まあ仕方ない。格好いい成宮鳴のイメージも大事。
洋食屋さんのご主人は相変わらず暖かく迎えてくれた。初めて来たときはなんとも感じなかった場所も、日記を読んだ後だと違って見えるから不思議だ。
今回は私がハンバーグ、鳴がオムライスを食べた。

それから。
鳴の運転する車で、私の実家があった場所に向かった私たち。行きたいと言い出したのは私だ。鳴はちょっと渋ったけど、それでも頷いてくれた。心配してくれているんだと思う。だってこの四ヶ月間、私は実家のことを見て見ぬ振りしてきた。…心のどこかで認めたくなかったんだと思う。現実を見るのが、嫌だった。でも今なら、大丈夫。

近くのコインパーキングに車を停めて、私たちは其処を目指して歩いた。

「…この道、よくふたりで歩いた」

鳴が私の手を強く握りしめて教えてくれる。
相変わらず明るい東京の夜空。きっとその当時も同じ空だったはずだ。「今」と「昔」が重なっていく。私たちが歩んできた道が、「今」に繋がっている。そう感じるのだ。「今までの私」はもういないけれど、でも鳴の中から彼女が消えたわけじゃない。私の中からも、勿論そうだ。

「……」
「……大丈夫?」

その家を見た時、やっぱり少し心が軋んだ。隣に立つ鳴が私の顔を覗き込む。私は小さく、うん、と頷いた。
私が住んでいた家。変わっていない。でも外壁にある標識は一ノ瀬じゃないし、家屋の隣の駐車スペースには見覚えのない車が停まっている。家の中から漏れる光。楽しそうな家族団欒の影が、見えた。

「大丈夫」

「私」の帰ってくる場所はもうここじゃない。
自分の家がある。
成宮の家。鳴の隣。
今ようやく、私は17歳の自分にお別れを告げるの。


車に戻る道すがら、私は鳴にある質問をした。

「どこで初めて私とキスしたの?」

鳴はその突然の問いに驚いたようで、サングラス越しの目を少し見開いている。それから、近所の公園、という答えが返ってきた。私にはその場所になんとなく心当たりがあった。幼い頃、一也とよく遊んだ場所だ。それだけで、ああやっぱり、と腑に落ちる。
あの頃の私は既に前を向いていた。
そして鳴だけを見ていたのだ。それが理解できる。
今から行こう、と彼の手を引っ張った。

少し大きな公園。ブランコや滑り台の遊具も、砂場もある。サッカーや野球が出来そうな広いグラウンドも。懐かしい。ここに足を踏み入れるのは子供の頃以来だ。
昼間は賑やかな其処は、シン、と鎮まっていた。
私たちは、そんな夜の公園で向かいあって立つ。

「鳴」

愛しい彼の名前を唇が紡ぐ。
鳴はただ黙って私を見つめていた。

「ここから、私たちやり直そう」

日記を読んで、「私」が決めたこと。
「今までの私」の想いも含めて、「私自身」が決めたこと。

「鳴の人生を私に頂戴」

鳴がハッと息を呑む。
これが「私」の覚悟だ。
ゆっくりと彼の頬に手を伸ばす。両掌で鳴の頬を優しく包み込んだ。
踵が地面から離れ、爪先立ち。

初めて私から鳴に贈るキス。
鳴の唇は、やっぱり柔らかかった。



私たちが歩んできた過去も、起きてしまった事実も変えることは出来ないけれど。

「私」は「私」のまま、成宮鳴と向き合っていく。
ようやく同じスタートラインに立って、そして、新しい「私たち」だけの道を歩いていくのだ。