あまいだけの女の子



9月に入り、鳴が所属する球団の優勝マジックが点灯した。とはいえ、マジックとは他球団の勝敗によっては消えたり点いたりするものらしい。それに試合日程を終えて例えその時点で1位であってもその後のクライマックスシリーズで無事に勝利を掴まなくてはいけないわけで…。日本シリーズに進出して初めてリーグ優勝になるのか、リーグ1位の時点で優勝同等とみなすのか…そういう細かいところを鳴と決めてなかったな、と考えるのは…成宮家から帰ってきた夜に鳴と交わした約束が頭にあるからだ。

…リーグ優勝したら、……考えてくれる?

穏やかだけど、どこか熱を孕んでいた鳴の言葉。頷いた私。
…期限は決まった。
あとは"その時"を待つだけだ。

そんなことを考えながら、私は見慣れた校門に掲げられた『青道祭』という達筆な文字の看板を見上げていた。
今日は、毎年9月の下旬に行われる青道高校の文化祭一日目である。



「紗南ー!」

記憶の中の懐かしい声。私はその瞬間、胸に熱い想いが流れ込んでくるのを感じた。視界に水分の膜が張って、じんわりと滲む。それを誤魔化すように掌で拭い、私は声のした方に振り返った。

「ゆっこ、久しぶり」
「ほんと久しぶり!」

ベビーカーを押しながら、私に駆け寄ったのは優子だ。相変わらず太陽に照らされた向日葵のような明るさを併せ持った彼女。変わってない。お化粧に隠されたその下の素顔が、フッと想い出と重なる。
結婚して旦那さんの仕事の関係で地方に住んでいる優子が9月後半の連休を利用して自分の実家に帰るから会いたい、と。そんな連絡をもらった時。私は嬉しくて、でも怖くて。どうしようかなと悩む気持ちがあった。でもそんな私の背中を押してくれたのは…勿論鳴だ。


「自分のこと話してもいいかなって思ったら、話せばいいんじゃない?」
「…うん…」
「…なにが怖いの?」
「……ゆっこに、27歳の私の方が良かったって思われること…かな」

そんな会話を交わしたのは、昨晩のこと。
それはもうずっと私が考えていたことで…優子に対してだけ思うことじゃない。私の人生に関わってきた全ての人に対して思う。私にこの人生は"役不足"だって思われたらどうしよう。…鳴に、今までの私の方が良かったって思われたらどうしようって。ふいを突いて時折、そんな考えが自分を支配する。ネガティブに考えてしまう自分がいるんだ。
だけど、私のそんな後ろ向きな想いを察したのか、鳴はちょっと困ったような顔をして、それからぎゅっと私のことを抱きしめてくれた。

「少し違うかもしれないけどさ、…俺だって今までの自分がまたふとした拍子に現れて…それで紗南が傷ついたり悲しんだりするのは…嫌だなって思う」
「…でも、私は今までの鳴を含めて今の鳴が好きだよ…?」
「……ね?つまり紗南が考えてることもそういうことなんじゃないの?俺は勿論だけど、みんな紗南が好きだよ。それは紗南が知らない十年間があるからじゃなくて、紗南の本質に心惹かれるから。過去は…振り返ってみれば、「こういうことがあった」っていう出来事でしかない。…俺たちは今を生きよう。そう決めたでしょ?」
「…うん…」
「旭さんとだってもう一度友達になれたんだから、大丈夫」

鳴の言葉はいつだって私の力になる。やっぱり、大人だなぁって思うんだ。…勿論、彼の子供の面も知っているけれど。でも今ではすっかりその一面も形を潜めている。「優しいだけの彼」が「それだけじゃない」って知っているからこそ、その言葉には説得力があるんだろうな。そんなことを…私の頭を撫でる鳴の掌の温もりを感じながら、考えていた。



「それにしても暑いよね」

ふ、っと。いつか夢に見た日と同じ台詞。意識を回想から浮上させた私は思わずフフッと笑う。優子がそんな私に対して「なに?」と首を傾げた。

「…ううん、優子は変わらないなぁと思って」
「えー、なにそれ!紗南だって変わらないよ?あ、でも髪型は変わったか。随分思い切って切っちゃったんだね」
「うん、今年暑かったから」
「いいじゃん、イメチェン」

…ああ、やっぱり鳴のいう通りだ。過去は、「こういうことがあった」っていう出来事でしかない。それは確かに私の人生の所々に埋まっているけれど、でもそんな私の人生は「私」という根幹があってこそ。そして地続きの「今」に繋がっている。そんな風に、思う。

「…可愛いね、翔太くん」
「ありがと、ようやく1歳だよ。いやぁこの1年地獄だったな〜」

地獄なんて物騒な言葉を使うわりに、優子がベビーカーですやすやと眠る息子の翔太くんを見つめる瞳はとても慈愛に満ちている。それが気恥ずかしくもあり羨ましくもあり、そして愛しいと思った。

「あ、そういえば今年も全国行くんだって?吹部」
「うん。無事決まったの」
「良かったね〜」

優子の言う通り、先日の都大会で青道高校吹奏楽部は全国コンクールへの出場を決めた。名前を呼ばれた瞬間、ぶるり、と身体が震えた感覚を今でも鮮明に思い出す。雪平さん達をはじめ、生徒たちみんなと喜びを分かち合った。
…きっと、9年前も、そうだったんだろう。
いやぁ懐かしいなぁ、と。優子が目を細めて思い出す過去にはきっと私の姿もいるんだろう。私の記憶には刻まれてないけれど。でも誰かの記憶には、今までの私がいる。そう考えると、それだけでいい、って思えるんだ。ザワザワと騒がしい喧騒の中で、なんだか誰かが「さよなら」って。悲しくも優しく微笑んだ---そんな気が、した。




というわけで。
無事に待ち合わせを終えた優子と私はひとまず長尾先生に挨拶を済ませ、吹奏楽部の演奏の時間までぶらぶらとクラス展示を見て回ることにした。やっぱり飲食関係の出店が人気なのは何年経っても変わらないらしい。

「タピオカあるじゃん!」
「あ、ほんとだ」
「いやぁ、最近の高校生って洒落てるね」

そんな会話を交わしながら、私は人生初タピオカ体験だ。味は無難にミルクティーを選んだ。太いストローで黒々としたタピオカを味わう。

「あ、美味しい」
「え、なに、タピオカ飲んだことなかったの?東京なんていくらでもお店あるでしょ」
「うーん…あんまりそういうところには行かないんだよね」
「意外。成宮くんってそういうの好きそうなのに」
「鳴は…うーん…どうなんだろう。ラーメンとかそういう庶民的な方が好きだよ」
「へー」

初めて味わうタピオカはモチモチとした食感で美味しかった。優子曰くこれは"あたり"のタピオカらしい。コンビニで売っているようなタピオカドリンクの中には蒟蒻みたいな食感のものが多いと愚痴まじりに教えてくれたので思わず笑った。
しかしそれにしても…この飲み物は上手く飲まなければ最後にはタピオカが残ってしまうな…と思いつつも、結局ミルクティーを三分の二ほど飲み干してしまい底に溜まるタピオカ。ちょっと悪戦苦闘する。そんな私の姿に、「ねぇ、紗南」と優子が声を掛けた。

「なに?」

優子の顔を見る。

「成宮くんと、うまくやってる?」

その言葉と、あの頃感じられなかった優子の慈愛に満ちた視線。…お母さんみたいだ。そんなことを頭の片隅で、考えた。

「やってるよ。鳴、優しいから」
「……なら、いいんだけど」

もしかしたら旭さんに相談したことがあるように、私は優子にも今までの鳴とのことを話していたのかもしれない。…そりゃあ色々と心配だろう。でも、本当に、いまは大丈夫だ。うまく伝えられないけど、…でも聞けることならある。

「…ゆっこ、出産って…大変だった?」

私の質問に、優子は少し驚いたような表情を浮かべた。…でも、多分それだけで理解してくれたんだろう。途端に笑顔だ。そうか、そうか、とひとりで頷いている。

「ついに紗南も腹を括ったかぁ〜」
「…まだ考えはじめたってだけだからね…?」
「それでも大進歩じゃない?」
「そうかなぁ」

その前に、セックスという難題があるんですけどね、という話は勿論出来るはずもない。でも…リーグ優勝して欲しいなぁ、と思うぐらいには、私もその瞬間を待ち遠しく思い始めているのだろう。そんなことを考える。

「まあ、大事なのはふたりの足並み揃えることだと私は思うよ。だいたい男は覚悟を持って出すもん出して女はそれを受け止めたんだから、責任持って引っ張り出してあげるのが親の役目だよね」

前半はいいこと言ってた筈なんだけど、後半はもはやちょっと生々しくて私は思わずゴホッと咽せた。…いやあ、やっぱり母親は強い。



文化祭を優子と見て回るうちに、礼ちゃんをはじめとした野球部の面々とも顔を合わせた。「やだ、奥村くん、いまコーチしてるの?!」と優子がちょっと興奮した様子を見せたのは、鳴と髪色が似ている野球部コーチの姿を見掛けた時だ。確か私たちが3年生の時、1年生だった2つ年下の後輩---同じく青道のOBらしいことだけは知っている。現状あまり接点がなくて話したことはないけれど。アイドルとか美形な男の子が好きな優子が騒ぐぐらいだ。彼は確かに綺麗な造形の顔をしていた。
他にも見かけた姿に「片岡先生ってあんまり変わんないねぇ」とかそんな懐かしさを口にしながら、飲食ブースだけではなく、お化け屋敷とか縁日風の出店ブースとかを見て周り、あとは昇降口に設置されていた青道ミスター&ミスコンテストにもそれぞれ投票。これまだ続いてるんだ、と思うとなんだか感慨深い。
そして、それから…ああ、あとは、雪平さんを見かけた。隣にはいつか彼女を送っていった野球部の男の子。なんだかんだ楽しそうなふたりの仲睦まじい姿を見て、私も思わず胸を撫で下ろす。
みんな、前に進んでるんだ。そんな言葉がストンと胸に落ちる。


吹奏楽部の演奏が始まる前に、体育館へと移動した私たちは簡易的に並べられたパイプ椅子に腰を下ろした。カーテンを締め切られて、薄暗い館内。ステージは照明に照らされて輝いている。さっきまで起きていた翔太くんはまたベビーカーに寝かされて眠りの中だ。

「優子」
「ん、なに?」

私は隣に座った優子の顔を見て、彼女の名を呼ぶ。優子もまた少し首を傾げて私を見た。
しばらく言葉が出てこなかった。彼女の目蓋に塗られたラメのアイシャドーがステージの光にキラキラと輝く。

『次は吹奏楽部の演奏です』

文化祭実行委員のアナウンス。一度緞帳が降り、一面真っ暗だ。がやがやとした騒めきの中で、耳をすませば生徒たちの足音。それぞれが楽器を持って立場の椅子に座り準備するのがわかる。チューニングの音。緞帳が、また、ゆっくりと上がる。私は意を決して、口を開いた。

「これからも私と友達でいてね」

それだけ言って、視線は優子からふいっと外す。吹奏楽部の生徒たちが、緊張しつつも何処か楽しげな顔で楽器を構えている姿を網膜に焼き付けた。
ずっと、考えていたことがある。
寂しいけれど。
きっと私が、この子たちの晴れ舞台を観れるのは、あとほんの数回だ。

指揮台に立つ長尾先生が、タクトを揮った。

「勿論だよ」

全てを見透かす優しげな優子の言葉は、盛大なハーモニーに掻き消されることなく、しっかりと私の耳に届くのだ。




「あ、紗南先生!」

優子と別れ、自宅の最寄り駅に降り立った私は駅近くのスーパーに立ち寄った。夕飯の献立を考えながら野菜コーナーを見て回っている時に掛けられた声。聴き慣れたその声に私が振り返れば、ピアノ教室の生徒さんでもありご近所さんの水野さんだった。頭を下げる。

「こんにちは、水野さん」
「こんにちは。ほら、アンタも挨拶!」
「…っス、」

水野さんは、一緒に並ぶように立っていたジャージ姿の男の子の脇腹を肘で突いた。彼はそんな水野さんの行動に少し鬱陶しそうな顔をして、それから私に小さく頭を下げる。水野さんの一番下の息子さんだ。思春期らしいその姿に微笑ましさが胸を占め、思わず笑みを漏らした。

「今日はどこかお出掛けされてたの?」
「そうなんです。青道の文化祭に」

そんな風にまあ女同士は話が長くなる。もともと水野さんがお話し好きで人好きする性格というのもあるだろう。クラスのレッスンで顔を合わせる時も、なんだかんだと話が長くなるのだ。でもまあ私も水野さんと話していて楽しいからついポンポンと変わる話題に対応してしまう。

「俺、あっち行ってる」
「あらそう?」

5分ほどで水野さんの息子さんは根をあげたようにリタイアの申し出。いつものことなのか、水野さんも引き留めない。まあ仕方ないよね。なんて思っていたら、彼の真っ直ぐな瞳が私の目を射抜いた。思わずドキッとする。

「…あの、」
「…?」
「成宮選手に頑張ってくださいってお伝えください」

その言葉と共に、大きく一礼。実に礼儀正しい。そしてそそくさと私たちのもとから去っていく後ろ姿はとても可愛くて。……ああ、男の子もいいなぁって。最近はそんなことばかり考えている。

「そういえば、息子さんの受験どうですか?」
「ああ、それねぇ。まあ頑張って勉強してるんですけど…どうなるかしらねぇ」

息子さんの志望校は鳴の母校である稲城実業高校だ。稲実は実業高校の中ではかなり偏差値の高い学校。野球部志望の子達は推薦も多いのだろうけれど、それでも筆記試験はあるのだろう。

「でもあの子も鳴ちゃんの母校に行きたいって張り切ってるから、私たちも信じて応援してあげないと」

そう言う水野さんの顔もまた、青道で見た優子と同じようなお母さんの顔をしていた。そんな水野さんは、そういえば、とまた話題を変えた。

「鳴ちゃんもそうだけど、チームの調子もいいから今年こそはいよいよ優勝かしらね」

鳴の所属する球団は、ここ十五年近く優勝争いから遠ざかっている。更にいえば前年度は最下位。だけど水野さんが言うように鳴の成績もそうだけれど、シーズン序盤からチーム自体の調子が本当にいい。

「いつも本当に応援ありがとうございます」
「いいんですよ、私たちが勝手に応援してるだけだから」
「主人もすごく喜んでます」
「なら嬉しいんだけど」

水野さんは昔を懐かしむような表情を浮かべている。

「鳴ちゃんが高校生の頃から見守ってるけど、やっぱり結婚してからは特に頼もしくなったなぁって思ってるんですよ。紗南先生の内助の功ね」
「…そうでしょうか…」
「そうよ!だからずっと今の球団で頑張ってるんじゃないの?」
「え…?」
「あら、だって約束したんでしょう?」

前、鳴ちゃんが教えてくれたんけど…という後に続いた水野さんの言葉はもはや聞いていなかった。
---約束。
その単語に、私の胸の奥に仕舞い込まれていた記憶の扉が、静かな音を立てて僅かに開いた気がした。



……いつか、
………そんときは……、
……見てろよ……!


……してるね


……んなよ




雑音混じりの言葉。
だけど、確かに、思い出した。それは私がずっと持っていた記憶だ。もう随分昔のことで、すっかり埃を被っていたけれど。でも、見つけた。
私は、確かに、見つけたのだ。

それを自覚したその瞬間、私は思わず口を掌で押さえ込んでいた。水野さんが、「先生、どうかしたんですか?」と首を傾げる。私は急いで首を大きく振った。そのまま、「そろそろ時間なので、」と断りを入れてそそくさと彼女と別れる。買い物籠を持つ腕が震えた。水野さんと会うまでは献立のことでいっぱいだった私の頭の中は、もう"そのこと"で埋め尽くされる。

ジワジワと緩む口端と、ほんのり赤く染まる頬。視界が揺れた。

ずっと…、どうして彼が私のことをそんなに好きなのか。優しいのか。それだけが最後に残された疑問だった。私たちの始まりは険悪で、辿ってきた道筋も穴だらけで、…私がずっと胸に秘めてきた一也に対する願いのような想いに変わるような思い出などないと。そう思っていたけれど。

(…"これ"が、私たちの、始まり…)

それを自覚してしまえばもう…私の胸に刻んでいた決意は確固たるものに昇り詰めた。
迅る気持ちで買い物を終えて、スーパーを後にする。

絵具を溶かしたような夕暮れ時。同じように買い物バッグを肩に掛けた人たち。仕事帰りのサラリーマン。笑い声を上げて通り過ぎる子供達。……嗚呼、やっぱり私はこの街が大好きだ。だけどそれはきっと鳴がいたから。これからも私の隣に鳴がいてくれるから。

「帰ろう」

そんな言葉を、心地よい喧騒の中でぽつりと呟く。

大好きなあの人と暮らす家へ。
まっすぐ、小走りで。
私たちの、家へ帰ろう。

だって、私の気持ちはもう揺るがない。