途方もない愛を知る



その瞬間を私はテレビ越しに食い入るように見つめていた。

十月中旬。クライマックスシリーズファイナルステージ。
あとひとつ、あとひとつ。
神宮球場の客席が色めき立っている。
あとひとつでリーグ優勝。
画面越しにも、熱気、歓声、興奮、その全てが伝わってくる。
カンフーバッドを握りしめる指先が、震えた。
私の視線の先には、今朝「行ってらっしゃい」と見送った夫の姿。やはり少し緊張しているのか、帽子の下の顔が硬っている。
ドッドッと大きな音を立てて、心臓が脈を打つ。私はこの場面を知っている。あの時もこんな風に胸が痛いぐらいに張り詰めた。けれどあの時と違うのは、私が応援する彼は、その当時「向こう側」の人間だったこと。
私はゴクリ、と唾を飲んだ。テレビが不意に見慣れた人物を写す。一也だ。今日この瞬間、彼が私にとって「向こう側」の人間になった。

「鳴…」

思わず呟く名前。
本当は球場で応援したかったけれど青道の仕事の関係で泣く泣く自宅観戦。でも逆に良かったと思う。すでにその瞬間のことを考えると、泣きそうだ。…いや、もうすでに泣いてる。涙腺が驚くほど弱い。
唇は、気づけば彼のヒッティングマーチのメロディーラインを歌っていた。
今は背番号一番じゃないけれど。
でも「すごいやつ」なのは確かだ。

『これでツーストライク、ツーアウトです。成宮、二球で追い込みました』

興奮した声音のアナウンサーが、彼の名前を告げる。マウンド上の王様。都のプリンス。彼の二つ名は沢山ある。そして、今日、あとひとつで今まで彼がプロ入りして以降成し遂げられなかったリーグ優勝という栄冠が、その胸に輝くのだ。

3球目、ボール。
4球目、ボール。
5球目も、ボール。

これで、スリーボール。
あとひとつが、遠い。
4-3。リードはたったの1点だ。ランナーはなし。でも油断は、できない。
カメラが、また鳴の顔を写す。
打者を射抜く青い瞳が、画面越しに私を捕らえた。

6球目…ッ!!!

鳴の腕から投げられた白球が、キャッチャーミットに収まる前に。打者のバットが、空を切る。

『か…っ、空振り三振ーッ!!!!ゲームセットォオ!!!!』

その大興奮の声が耳に届くと同時に、私の身体はへなへなと力なく皮張りのソファーに沈んでいた。脱力。力なく首だけ画面に向ければ、ベンチから飛び出してきた選手たちに揉みくちゃにされている鳴の姿。
……嗚呼。
貴方は…、きちんと約束を守ってくれた。
嬉しそうに満面の笑みを浮かべる鳴の姿を見ながら、そんな言葉が、ストン、と。
私の胸に落ちたのだった。





「オジサン、そんなことも知らないの?」

生意気なその言葉を口にしたのは、私の左隣に座っていた鳴だった。右隣に座る私の父が、困ったような表情を浮かべていたのを覚えている。

「ごめんなぁ、おじさん野球はよくわからなくて」
「フーン」
「お前さぁ、連れてきてもらったんだからそういうこと言うなよ」

なんだかんだうちの両親には世話になっている自覚がある一也が、鳴に苦言を呈する。私はその言葉を聞きながら内心(そうだ、そうだ)と考えていた。その当時は鳴が怖くて何にも言えなかったけれど。
明治神宮球場。内野一塁側。
一也と鳴、そして私とお父さんが横並びに座っていた。確か、あれは、中学校入学前の三月。…そうだ、あの当時はよくわかっていなかったけれど…思い返してみれば、あの日も、開幕戦だった。
父が仕事の関係で貰った4席分のチケット。真っ先に一也を誘えば、「鳴も誘っていい?」と返ってきて少し落胆したのを覚えている。

野球バカふたりと、野球素人親子の変な4人組で観戦した試合。それぞれ、神宮がホームのその球団の熱烈なファンというわけではなかったけれども開幕戦という一種のお祭り騒ぎの熱に侵されて、それなりに楽しんでいたように思う。

そんな中、一也が席を立ったのは五回裏の攻撃が終了したタイミングだった。

「トイレ行ってくる」
「じゃあオジサンも一緒に行こうかな」

一也に続くように立ち上がる父。私があっという声をあげる間にふたりして階段を登っていってしまう。…鳴とふたりきりになってしまった。隣に座る鳴をチラリと見れば、意外なことに目があった。思わず驚く。

「…なに」

勝気そうな切れ長の目尻。青い瞳が私を見ている。尖らせた唇が紡ぎ出すのは、やっぱりいつも通り不機嫌そうな声。でも今日は私の親に連れてきてもらっているという状況のお陰か、いつものような酷い言葉を投げかけられることはなかった。私は、自分たちの間に流れる気まずい雰囲気を変えたくて、口を開いた。

「……あのマスコット可愛いね」
「…そう?」
「……うん。私結構好きだなぁ」

目前に広がる球場の隅でウロウロしている球団のマスコット。燕がモチーフの、それ。東京が本拠地の球団はふたつあるけれど、私はもうひとつの球団のマスコットよりこちらの方が好きだった。でっぷりとしたお腹がなんともキュートだ。

「…ふーん」

鳴は、そう呟いてそれきり口を閉ざした。そしてまた訪れる沈黙。私は試合開始前にお父さんに買ってもらった応援用のミニ傘を膝の上でぎゅっと握りしめる。鳴はあの当時、いつも一也の背中にくっつくようにして一緒にいる私のことを邪険にしていた。辛辣な言葉を投げつけられることも多くて、何度泣いたことか。だからこその居心地の悪さ。

「この球団好きなの?」

不意に鳴が、そんな質問をした。

「…好きなのかなぁ…?」

正直よくわからない。でも東京の球団だし、身近なことは確かだ。私は首を傾げる。鳴はそんな私の答えにハァと溜息を吐いた。

「でもさぁ、弱いじゃん」
「……うん」

そんな鳴の言葉は、球団だけじゃなくて私自身のことも詰っているように感じられたものだから、思わず唇を噛む。やっぱり彼はあの頃すごく意地悪だった。ハッキリと自分の意思を口にできることは利点かもしれないけれど、思いやりがないのは欠点だ。それにその言葉は私だけじゃなくて、この球場に足を運んでいる球団のファンの人に対する冒涜だと思う。…思うけれど、その感情を上手く言葉にすることが出来なかった。ただ表情には出ていたらしい。

「…なに?」

先ほどと同じ言葉で、再度尋ねられた。

「……そんなこと言うんだったら、成宮がプロ野球選手になってこの球団強くしたら…?」

意を決して呟いたそんな言葉。鳴が息を呑んだ空気の音だけを覚えている。野球の知識がない私にとって、当時彼の凄さをイマイチ理解していなかった。ことあるごとに「プロになる!」と宣言していた鳴。そうは言ってもまだまだ発展途上の小学生だ。一也からなかなか才能のある投手だと言うことは聞いていたけれど、私にとってはただの大口叩きにしか聞こえなかったのは事実で。だからこそ、ちょっとした意表返し。私なりの意地悪。でも鳴は、そんな私の悪意をハンッと鼻で嗤った。

「そもそもドラフトでこの球団に選ばれなきゃダメだろ」
「絶対にこの球団に入るように呪いをかけとく」
「ハァ!?なんなんだよ、お前!」

鳴が声を荒げる。いつもなら絶対出来ないことだけれど球場の雰囲気にあてられたのか、彼に言い返すことが出来た自分に、私はなんだか胸がドキドキした。そんな私を他所に、鳴の興奮した言葉は続いたのだ。

「〜〜〜ッ、じゃあもういいよ!!俺は!!!絶対!!!甲子園優勝投手になってドラフト1位でこの球団に入ってやるからな!!!そんでいつかこのチームを優勝させてやるから!!!そんときは!!!お前絶対見てろよ!!!!」

鳴の、半ばヤケクソの決意表明に。近くに座っていたおじさんから「おぅおぅ頑張れよ!」と激励が飛ぶ。その途端冷静になったらしい鳴はその頬を赤く染めた。…その姿を、なんだか、可愛いと思ってしまった自分がいて。

「…ふふ、応援してるね」

多分、その時私は初めて彼に微笑んだ気がする。
私が笑って、そして、鳴の目がまた大きく見開かれた。青い瞳が、ナイターの照明にキラキラ光ってとても綺麗だなって。その時、確かに私は思った。
確かに、思ったの。

「……絶対忘れんなよ…」

鳴の。
尖らせた唇が、約束を結ぶ。
…どうして忘れてしまっていたんだろう。

日記の言葉を借りると犬猿の仲だと思っていた私たち。
そんな私たちの間には確かに、煌めく始まりがあったのだ。





「おめでとう!!!」という言葉ばかりが並んだラインのトーク画面。それを眺めながら、試合終了後の球場でのビール掛けもしっかりと見届けてから、私はお風呂に入った。丹念に身体を洗い、そして自分で買った可愛らしい下着を見に纏う。パジャマも、わりと新しいものを選んだ。綺麗な私で、彼を出迎えたかったの。
今日鳴が家を出る時、「きっと午前様だよ」と念を押すように呟いた。でも私は「待ってる」と言ったから。だからこうしてソファーに座って待っているのだ。不思議と眠気はやってこない。
あの最後の一球を思い出しては、興奮を噛み締める。
早く鳴の顔を見たかった。

真夜中には目立つ、車の音。
一瞬静かになり、そしてまた聞こえてくるエンジン音。去っていく。タクシーだ。すぐに分かった。
それから間を置かず、ガチャリ、と。控えめな音で玄関扉の施錠が外された。その瞬間、私はソファーから勢いよく立ち上がる。そして迅る気持ちを抑えきれず、足をもつれさせながらも、リビングを出た。
薄暗い廊下の先に。
玄関に。
私たちが初めて出会った場所に。
彼は立っていた。

「……鳴…」

あの時呟けなかった名前で、彼を呼ぶ。
どうして今、そんな泣きそうな顔してるの、なんて。答えはただひとつだけだ。
彼も、私も、待ち望んでいた瞬間。

手を伸ばして、駆け寄って。
首に腕を回せば…降り注ぐキスの雨。
私はそれに対して抵抗など見せず、ただ目蓋を閉じて、そのありったけの愛情を享受する。

言葉なんていらない。
求めているのは、お互い同じものだ。

そのうち開いた唇の隙間から、彼の熱い唇が私の砦を破る。息をも飲み込まれるような、それ。…やっぱりちょっとお酒くさい。いやでも仕方ない。楽しそうだったビール掛けの映像を思い出して、ほんの少し頬が緩んだ。

「……考え事?」

随分余裕だよね、なんて言葉と共に。腰に回っていた鳴の腕の力は強まり、私たちの身体は更に密着する。それに口の中がより懐柔されて、苦しい。息ができない。でも幸せ。そんな、ぐちゃぐちゃな感情の中で、私の身体は力を無くしていく。
そんな私を抱きとめる鳴。
思い出すのは、やっぱり此処で初めて会った日のこと。西暦を告げられて、力の抜けた私の身体を抱きしめた彼の腕。場所だって行動だってなにひとつ違わないのに。どうしてこんなにも、違うんだろう。
それはやっぱり私たちの間に愛があるから…なんて。ちょっと気障な言葉が、脳裏をよぎった。

そのうちくったりと力の抜けた私の身体を、鳴は軽々とお姫様抱っこで持ち上げる。…すごく恥ずかしいけれど。でもこれから待ち受けるものの方が恥ずかしいだろうから我慢だ、と自分に言い聞かせて彼の首に腕を巻き付け、その厚い胸板に顔を埋めた。靴を脱いで式台に上がった鳴は、そのまま2階に続く階段を上がる。私を抱き抱えながら急勾配のそこを登るのだから流石だ。そんなことを考えているうちにあっという間に到着したのはふたりの寝室。

ダブルベッドの上におろされて、覆いかぶさられ、またキスの嵐。唇が、ジンジンする。息が、続かない。でも、幸せ。…これ、さっきも、私そう思ったっけ…?
ぼうっとする意識。
そんな私に跨ったまま、鳴は私を見下ろしてクスリと笑った。

「可愛い」
「…そ、う…?」
「ん。可愛いよ」

そんな甘い言葉を吐きながら、彼は着ていた球団のジャージを脱ぎ捨てる。その下に来ていた服も。全て。曝け出された彼の肉体は、しなやかでとても美しかった。

「なに、見惚れてンの?」
「……うん」

熱に犯されて、素直に頷けば。鳴は嬉しそうに微笑んだ。でもその笑みはいつものそれじゃない。…なんていうか、とても妖艶だ。色気がすごい。思わずゴクリと唾を飲む。
そんな私をよそに鳴の指先はパジャマの釦にに掛かった。プラスチック製のそれをひとつずつ丁寧に外していく。ゆっくりと、開かれる扉。身体を軽く起こされてパジャマを脱がされる…と、同時に。ブラのホックも外されたらしい。締め付けが緩まり、スースーとした感触。そのまま腕から引き抜かれて、ベッドの向こう側はポイッ。柔らかな胸に、彼の唇が落ちる。ちょうど左胸。ドッドッと、爆発寸前の鼓動。それに気づいたのか、鳴の青い瞳が私をジッと上目遣いで見上げる。
息が、止まった。

「紗南」

呼ばれる名前は…多分、最終確認だ。
わかってる。
口を開く。
でも、声が、出てこない。

「………ッ、」
「…紗南…」

欲を孕んだ青い瞳に映る私。思わず鳴の身体にぎゅうっと抱きついた。

「…やっぱりやめる?」

心配そうな声が、私の耳元で囁く。私はすぐに首を横に振った。恥ずかしいけれど、やめたくない。心が愛に満たされて、今、すごく幸せなの。うまく言葉に出来ないだけで。頬を流れる涙は、悲しみなんかじゃなくて。愛しさに溢れている。
…ずっと、そこにいてくれたんだね。
目を閉じて、つい数時間前にテレビ越しに見ていた神宮球場を思い浮かべる。
いつだって貴方はそこにいた。
春も、夏も、そして秋も。
私の呪いは、どうやらかなり強力だったらしい。
それも愛かな、なんて。そう思うのだ。

「……約束、忘れてて、ごめんね。でもちゃんと、見届けたから」

今度は私が鳴の耳に言葉を呟く番だった。その瞬間、私の身体は鳴から離される。ポスン、と。背中にもう一度ベッドの感触。見上げれば、私を組み敷いた鳴の瞳が大きく見開かれている。…嗚呼、あの時と一緒。鳴が、一音一音確かめるように、言葉を紡いだ。

「…思い出したの…?」
「……うん」
「…神宮の…あの時のこと?」
「うん」

鳴の頬に手を伸ばす。そして、尋ねた。

「あの時から、私のこと、好きでいてくれたの…?」

気づいたのは高3の5月だと以前言っていたけれど。でも「多分鳴は最初から紗南のこと好きだった」という一也の言葉を真に受ければ…鳴の気持ちの根幹は、あの場所にずっと置き去りだったのだ。愛情も、嫉妬も、優しさも。その全ての根源は、あの場所にあった。私が心の奥に仕舞い込んで埃を被せていたその大事な思い出。鳴は小さく、うん、と。確かな言葉で頷いた。

「ずっと好きだったよ。でも…紗南は忘れてたから。付き合い始めても、結婚しても。一也との約束は覚えてるのに、俺との約束は忘れてたから。…だから…」

私はそんな彼の言葉を遮るように、もう一度彼の首に腕を回す。そしてその柔らかな唇に自分の唇を押し付ける。チロリと舌を出せば、最初は戸惑っていた鳴だけれど…次第に絡む舌先。熱っぽい雰囲気がまた部屋に戻ってくる。

「もう忘れないよ」
「うん」
「もう、絶対に忘れない」

新しく結ばれた約束は、私たちだけのものだ。
唇が離れ、お互いに見つめ合う。
潤んだ互いの視界に映り込むのは、それぞれの最愛の人。
彼の大きな掌が、私の頬を撫で、ゆっくりと鎖骨の骨を撫でた。ぶわりと身体中を巡るのは愛おしさと嬉しさと、そして熱をもった欲情。

「紗南」
「鳴」

名前を呼んだのは、同時。
そして。

---愛してる。

最上級の愛の言葉と共に。
私たちはシーツの波に溺れるのだ。