鱗をはがしてもう一度



空が明ける。
窓の向こう---東の空に浮かぶ明けの明星。闇に輝いていたそれがゆっくりと輝きを失い、そして登りゆく太陽と同調する。それは…まるで私たちみたいだなって思った。私と、鳴。長く果てしない夜が明ける。暁天が白む。
…新しい、朝がくる。もう何度もふたりで迎えた朝だけれど…やっぱり今日は少し違う。私は思わず、くすり、と笑みを漏らした。


目の前には、泥のように眠る愛しい旦那様の寝顔だ。
…ああ、幸せだなぁって。昨日の営みを思い出して…気恥ずかしいけれど、いま心からそう思う。触れ合う素肌同士が彼の体温を伝えてくれる。

はじめてここで目覚めた時。
私はどうしてここに鳴がいるのかって彼に尋ねた。どうして一也じゃないんだって。でも今ならわかる。私たちこうなる運命だったんだ。
私が忘却の彼方に押しやっていた煌めきを、鳴はずっと大事に大事に抱えて生きてきた。その胸に秘めた嫉妬も劣情もその全てが、あの始まりに繋がっていく。今ならわかる。彼ばかりが悪かったわけじゃない。私にだっていくつもの非があって…、そしてこうなって理解った---私のやるべきこと。
私が、鳴のために、してあげたいこと。
それは、

「……紗南…?」
「あ、起きた…?」
「…うん」

目蓋を何度か瞬きさせる鳴は、まだどこか虚だ。昨晩の興奮と疲れと、そして愛の名残。その全てを孕んだブルーの宝石が私を見つめる。

「おはよう」
「…うん」
「……ふふ」
「…なに?」
「ううん、鳴が可愛いなぁと思って」
「……昨日も言ったけど、それ褒め言葉じゃないから」

拗ねたように尖った唇も、青い瞳も、カーテンの隙間から差す朝日にキラキラと輝く色素の薄い髪も、しなやかな身体も、鳴を構成するその全てが好きだ。愛してる。

「…あー、処女みたいで可愛かった」

噛み締めるように呟かれた鳴のその言葉に、私は思わずボッと頬を赤く染めた。思い出すのは、火傷するような熱さ。私を組み敷いた彼の優しくも少し強引な力強さだとか、見上げた時にちらりと視界に映る腕の筋肉も、肌に感じる汗も、自分が自分じゃなくなるような感覚も。その全てを鮮明に覚えている。彼の全てが私を貫いた時、どうしようもなく泣きそうになって、そしてお互いの愛の重たさを知った。

「……馬鹿…」
「なんで。本当のことじゃん。俺は二回も紗南のハジメテを貰っちゃったんだよ?しばらくはこの余韻に浸らせてよね」

少しずつ意識が覚醒し始めたのか、いつもの鳴の調子が戻ってくる。私は軽く握り拳をつくって彼の身体を叩いた。…まあ、ビクともしないんですけどね。苦笑い。

「そもそも早起きすぎない?大丈夫?」
「…なんか、目が覚めちゃって」

ヘッドボードに置かれた時計で時間を確認した鳴は、少し呆れたような表情で私を見た。まあ確かに昨日のことを考えると早いというか…3時間ぐらいしか寝てないことになる。なんというか…うーん、毎日の起床時間が身体に染みついてしまったんだろうなぁ。それでもいつもより遅いけど。
なんて考えていると、鳴の指先が私の髪先を撫でた。

「せっかくの休みなんだからさぁ、もう少しゆっくりしようよ」
「…うん」
「朝からヤるのもいいけど」
「……うーん…?」

まだ足りないの…?と驚いてしまうけれど。でもまあ鳴が一年近く我慢してくれていたのは、確かな事で。それに求められることは素直に嬉しいというか…嫌ではない。私が目を伏せて、「それも、いいけど」とぽつりと呟けば。鳴はその大きな目を見開いて、そしてニヤニヤしながら私の顔を見つめた。私は思わず唇を尖らせる。

「……なに」
「いやぁ?欲望に忠実な紗南が可愛いなぁと思って。ねぇ昨日そんなに良かった?」
「…そういうこと聞かないでよ」
「教えて」

さっきまで私を揶揄うような軽やかな声音だったのに。鳴はちょっとしたことでスイッチが入って、そして、ガラリと雰囲気が変わるのだ。あの瞬間の鳴がまた舞い戻ってくる。耳元で囁かれる声。大人の、男の人。鳴の美しい指先が、私の腰のラインを撫でた。ぶるりと震えるのは、甘い誘惑に私の自我が侵食される証拠で。私は言葉もなく目を瞑る。それをイエスと受け取ったのか…鳴の唇が、また私を食べ尽くした。



結局、ふたりで一階に降りてきたのは、昼過ぎのことだ。鳴は今日一日オフで、明日からは来週の日本シリーズに向けて調整。そしてそれが終わればオフシーズンに入るのだ。ここまで来れば日本一になりたいと思うのは当然の流れだろう。私だってそれを望んでいる。

「紗南は来週名古屋でしょ」
「うん」
「気をつけてね」

私もまた、来週に吹奏楽部の全国コンクールを控えている。頑張るのは生徒たちだ。部外者の私にはただ見守ることしか出来ない。でも自分が経験できなかった出来事を追体験しているような気分になって、胸が高鳴るのは確か。やっぱりこちらも、ここまでくれば金賞をとって欲しい。そう思う。

「さて、と。返信するか」

と言ってソファーに腰を下ろした鳴の左手にはスマートフォン。私にもそれなりにお祝いのメッセージが届いたぐらいなのだから、当の本人にはそりゃあ沢山の声が届いているのだろう。昨夜の興奮を噛み締めているのか、画面と向き合うその顔は随分緩んでいる。

(…可愛いなぁ)

私はそんな鳴の姿に笑みを浮かべながら、台所へ。流石にお腹が減った。下腹部の鈍い痛みを紛らわすように鳴く腹の虫。今から手の込んだ料理を作るのは時間がかかるので、パスタを茹でることにした。玉葱を微塵切りにして、買っておいた合い挽き肉と一緒に炒める。ミートソース。ケチャップとウスターソースで味付け。ほんの少しの砂糖が隠し味。
この味付けは、私のレシピノートに書かれていたものだ。簡単だから、わりと最初に覚えたレシピ。
パスタだけだと味気ないから、サラダも作る。とはいえ、レタスをちぎって、ドレッシングをかけた簡単なものだけど。たまにはこういう手抜きも大事だ。
茹でたパスタをザルに開けて、お皿に盛り付ける。その上から茹でるのと同時進行でつくっていたミートソースをかけた。

出来上がった料理をトレーに乗せる。季節が冬に向かうにつれて、台所は酷く冷えるようになった。こういうところで「夏は暑いし冬は寒いよ」という鳴の言葉を実感するようになる。春や秋など比較的気候が安定している頃は台所で向き合って食べることも多かったけれど、最近はエアコンがあるリビングで食べることが増えた。

ふっと。
食事を運ぶ前に、手を止めた。
私がここで目覚めた日のことを思い出す。
二階の部屋で目覚め、ピアノの部屋をみつけ、そしてガスコンロの警報音に導かれるようにして出会った台所。まだ冬の名残が残る夕暮れの光が窓から差し込んでキラキラと輝いていたこの場所。あの時は全てが自分に馴染まず異様な雰囲気を抱いていたこの家も、壁にかかったカレンダーを捲るたびに私に染み渡っていった。
いまはこの家の全てが愛おしい。
鳴が時々料理をするために立ったコンロと流し台。シルバーの冷蔵庫には私が鳴の為に作った料理が詰まっていて、食器棚にはお揃いの食器たち。ダイニングテーブルには私が庭で育てた花を飾って。
その全てに私の痕跡。
幸せだなぁ、と。トクトクと鼓動を刻む心臓を包み込むように胸に手を当てて目を閉じた。



「鳴、ご飯できたよ」

トレーを持ってリビングへ。声をかけたけれど私に対する返答はない。鳴はスマートフォンを耳に当てて話している。どうやら電話中らしい。

「うん、ありがと。母さんにもよろしく言っておいて」

どうやら電話の相手はお義父さん。私がテーブルの上にお皿を並べ終わるタイミングで、彼は電話を切った。それから、ふたりで並んでいただきます。

「料理上手くなったよね」
「ありがとう、嬉しい」

フォークにパスタを巻きつけて口に運ぶ合間にそんな言葉を贈ってくれる。パスタは茹でただけだしサラダもレタスにドレッシングをかけただけだ。その感想には、きっとミートソースを食べて…"今までの私に近づいている"というような真意があるのかもしれないと思う。それでも良かった。鳴の中にある私との思い出を否定するつもりもないし、今までの私の想いも抱えて生きていくと決めたんだから。
それに私だから前に進めることもある。そんな風に思うんだ。

「ねぇ、鳴」

私は、まだ食べかけのパスタのお皿にフォークを置いて口を開いた。彼の顔は見れない。

「……やっぱり、子供ほしい…?」

優子に尋ねたように。
"その時"が決まった時から、その行為がもたらす結果について考えていた。鳴も私も社会的にはいい大人だ。結婚もしている。子供を持たない理由はない。特に、私の中には。

「……欲しいけど」
「うん」
「…でも17歳にお母さん出来るの?」

鳴の、私を試すような言葉。思わず苦笑い。

「失礼な」
「ごめん」

鳴は相変わらず心配性だし、きっとこれからもずっと私に対して10歳年上の大人の余裕を見せるだろう。本当に余裕があるかどうかは、別として。でも私の覚悟はとっくに決まっているんだよ。

「私だからこそ、恐れはないよ。そりゃあ勿論…痛いのは嫌だけど…」
「……うん」
「…でも…もし、そうなったら、素直に嬉しいって思う」
「……じゃあ、考えてくれるってこと?」
「うん」

私の頷きに、鳴はしばらく言葉を発することはなかった。つい不安になって彼をチラリと見る。鳴は手を口に当てて、私の視線から逃れるように顔を背けた。首を傾げる。

「…にやけてるから、顔見ないで」
「……嬉しい…?」
「……すげー嬉しいよ」

その言葉をしみじみと呟く彼の顔は見れないけど。でも柔らかな髪の隙間から見える耳はほんのりと赤くて。
鳴が幸せならそれでいい。
私はそれだけで満足だ。
ふいにあの日記に書かれていた一文が、浮かび上がってくる。私も、そう思う。そう思うよ。やっぱり感性はなにひとつ変わらない。

それからふたりでただ言葉もなく、幸せを噛みしめるようにパスタを食べた。
ぺろりと平らげて空になったお皿を前に、手を合わせてご馳走さま。ふたりで台所まで持っていって、私はお皿を洗い、鳴は洗いあがったそれを布巾で拭いた。

一也のことが好きなんでしょ、とこの場所で尋ねられたのはもう半年前のことだ。なんだか、随分昔のことのように感じる。
だって、私の心はすっかり鳴の色に染まっているんだから。

「…あのさあ、」
「なに?」

片付けが終わったタイミングで、鳴が私の手を取り口を開いた。自然と向かい合う形になる。思わずドキッとした。なにを言われるんだろう。

「……これは本当に俺だけの気持ちっていうか…無理強いするつもりもないし…ただ聞いて欲しいっていうだけなんだけど」
「……うん?」

鳴がごくりと唾を飲み、喉仏が動いた。私はただじっとそれを見つめている。彼らしくないまどろっこしい言い方に、なんとなく話題の予想はつくけれども。…でも、こんなに早く訪れるとは思ってもいなかった。私も人知れず心に決めていた答えをそっと用意する。…大丈夫だよ。
そんな想いが伝わるようにゆっくりと微笑んだ。
鳴の結んでいた唇が、ゆっくりと開かれた。

「俺は、やっぱり、アメリカに行きたいよ。我儘かもしれないけど、自分の夢も紗南も子供も全部全部手に入れたい」

業の深さなら、きっと日本一の野球選手だと思う。わかってたことだけど。ああ、やっぱりそうなんだなぁって答え合わせをする感覚。鳴の青がチラリと私を見る。どんな反応が返ってくるのか心配なんだろうな。
王様だから、全部欲しいのは当たり前。
夢も、
子供も、
そして私のことも。
なにひとつ譲るつもりはないんだろうな。
昔、一也が投手は我が強くて自分の意見を通そうとする奴が多いから苦労するって言ってた言葉をふいに思い出した。

「……我儘だなぁ」
「…ごめん」

私の率直な感想に、鳴は目を伏せる。

「でも、」
「………」
「鳴はそれでいいよ」
「……え?」
「私もね、ずっと考えてたの。今の私にとって生涯をかけて叶えたい夢ってなんなんだろうって。……それはね…きっと貴方の夢を叶えることなんだよ、鳴」

ピアノ教室の生徒さんも、青道の生徒たちも…大事な存在だけど。でもやっぱり心が訴えるんだよ。鳴の隣にいたいって。それは私が歩んできた道の記憶を持たざる者だからかも知れない。だけどね。悲しい現実も、見方を変えればそう悲観することもない。
だってこうなってしまって出来る選択もある。
今の私にとって、叶えたい夢はただひとつだけだ。それはピアノの先生になることでも、青道で音楽教師をすることでもない。



「鳴、アメリカに行こう」

貴方の夢が、私の夢になった。

「勿論不安もたくさんあるよ」

貴方の人生を私に頂戴って言ったけど。

「でももう大丈夫」

私の人生は貴方のものだよ。

「鳴といれば、大丈夫」

お互いに手を取りあって私たちは人生を歩むって決めたから。

「わたしたちなら大丈夫」

貴方と歩む人生だから、私はこんなにも幸せなの。



言葉にならない想いも全部全部、鳴に伝わりますように。そんな祈りにも似た気持ちで微笑む。どうしてだろうね。声が震えて涙が頬を伝う。悲しいわけじゃない。ただここまで辿り着いた嬉しさに心が震えているんだよ。
…きっと鳴もそうなんだろうな。

彼は---ただただ、言葉もなく私の身体を力強く抱きしめた。