星になるための仮眠



11月に入り、鳴はオフシーズンに突入した。
10月末の日本シリーズと吹奏楽部の全国コンクール。共にあと一歩…その頂上には届かなかったのは記憶に新しい。
新しい夢を胸に抱いたお互いの…優秀の美として迎えたかった結末。でも案外、人生とはそんなものなのだ。届かなかったゴールに、悔しさは勿論あるけれど。


ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である


いつだってその言葉が私たちの合言葉。
…それに案外、それに代わる喜びが訪れるものだ。これだから人生は面白い。

鳴が私との約束を叶えたあの日。
私たちが本当の意味で結ばれたあの日。
新たな命が、この世界に産声をあげた。

3245gの元気な男の子。
それは勿論、一也と旭さんの子供だ。




私たちが住む街の最寄り駅から快速で2駅。快速特急も止まる少し大きい駅に降り立った私と鳴。駅前にはマンションやアパート、そして商店街。私たちの住む街よりは、少し騒がしい。でも都会と郊外の雰囲気が入り混じっていて住みやすそうな場所ではある。
鳴の案内の元、訪れた築年数が浅そうな綺麗なマンション。オートロックの玄関でインターフォンを鳴らせばすぐに応答があって、私たちは中に入った。
そして、目的の部屋の前でもう一度インターフォンを鳴らしたのだけれど。

「いらっしゃいやし!」

満面の笑みで私たちを出迎えてくれたのは家主の一也じゃなくて、青道時代の後輩の姿だった。

「…沢村」
「沢村ァ」

鳴と、出迎えてくれた彼の肩越しに見えた一也の呆れた声が重なるのは同時。へへっと白い歯を見せて笑った人懐っこい笑顔は、私も知っているそれ。思わず笑みが溢れる。

「沢村くん久しぶり」
「お久しぶりです!」

沢村栄純くん。青道高校時代、一也とバッテリーを組んでいたひとつ年下の後輩で…つい先日、日本一になった球団で投手を務めるプロ野球選手だ。マウンド上では気迫あるピッチングを見せる彼も、今は満面の笑みで私たちと対峙している。

「お前なぁ、家主より先に出迎えんなよ」
「いや御幸センパイ忙しそうだったんで」

ふたりのやりとりは相変わらずで、あまり高校時代から変化がないように思う。思い出すのは、球場のスタンドまで届いた元気いっぱい「バックの皆さんよろしくお願いしまーす!」の声。私は思わずクスリと笑みを漏らした。

「優勝おめでとう」
「あっ、ありがとうございます!」
「えー、それ俺の前で言っちゃう?」
「うん。ごめんね。でも帰ってきてから散々慰めたでしょ?」
「…そうだけどさぁ」

鳴は、私の言葉に呆れながら拗ねた態度を見せた。仲が悪いわけでもなく沢村くんの才能を認めていないわけでもないけれど、悔しいものは悔しいのだ。そこがやっぱり鳴らしい。

「沢村くんわざわざ九州から来たの?」
「あー、まあ、そうですね!でもこっちでも色々用事があったので、ちょうど良かったというか!」

そんな会話を交わす私たちの横で。

「一也、これお土産」
「そんな気ぃ使わなくてもいいのに」
「ま、大人として当然のことだよね!あと別に一也にってわけじゃないし。頑張った旭さんに、俺の紗南が買ってきたんだからね」

俺の、という単語が妙に強調されていたのはきっと気のせいじゃないはず。思わず苦笑い。嫉妬という感情というより、張り合いというか…とにかくやっぱり鳴は私のことが大好きらしい。
そんな賑やかなやりとりを玄関先で繰り広げていたわけだけれど。

「鳴、おーッス」
「カルロ〜」
「沢村ァ!いい加減こっち戻ってこい!」
「…ハッ、もっち先輩!すいやせん!!」

リビングで既にくつろいでいたらしい先客が廊下に顔を出して、鳴と沢村くんの名前を呼ぶ。靴を脱いでそんな彼等が待つリビングへ。先客は沢村くんを除いて三人だ。そのうちのひとりは、夏の稲実会以来に顔を合わせるカルロスくん。彼に会釈した私は、カルロスくんの隣に座っていた男性に声を掛けた。

「倉持くん、久しぶり」
「おー」

片手を上げて応答したのは、青道の同級生の倉持くんだ。彼は社会人野球を経てプロになり、現在カルロスくんと同じ球団に所属しているらしい。オフシーズンだからか髪の毛が明るくなっている。もともとの目つきもあんまりよろしくないからちょっとヤンキー臭が漂ったいるのはご愛敬。でも彼が真面目で誰よりも周囲のことを見ていて、副将として一也を支えてくれていたことを知っている私は、なんだか懐かしい気分に浸る。その姿を直に見るのは…あの秋大後のタクシー乗り場以来だ。
そして見知った姿はもうひとり。倉持くんの隣に背筋よくお行儀よく座っている彼。沢村くんと同級生の降谷くんだ。彼もまたプロ野球選手。ちなみに一也と同じ球団。降谷くんは私と鳴の姿に、小さく会釈をした。私もそれに頭を下げて返答する。青道在学中から口数の少ないクールな子という印象で、こういう集まりにいるのはなんだか違和感があったけれど。多分沢村くんに連れてこられたんだろうなぁ。

「旭さんは?」
「隣の部屋でミルクあげてる。案内するわ」

一也の耳元でソッと尋ねれば、そんな答えが返ってきた。私はうんと頷く。上着を脱いで、私は一也の案内についていく。当然のことながら鳴もついてきた。

「旭、入るぞー」
「はーい」

控えめなノックに、旭さんの返答。開いた扉の向こう、椅子に座っておくるみを抱いていた旭さんを見た瞬間、私はハッと息を飲んだ。窓から差し込む冬の日差しに照らされて、彼女はとても綺麗だった。まるで聖母のよう。

「紗南!」

旭さんが私の姿を見て、嬉しそうに笑う。それだけで、私もすごく嬉しい。

「旭さん、おめでとう」
「うん、ありがとう。成宮くんも来てくれてありがとう」
「いやこちらこそ、産後に押しかけてごめんね」
「大丈夫。外に出られないからストレス溜まってて。みんなが来てくれるのが凄く嬉しいの」

旭さんはそう言いながら、胸に抱くその子をそっと私たちに見せるように腕を動かした。私たちも近づいて、顔を覗き込む。

「……かわいい……」
「…ほんと、かわいいね」

私と鳴は感嘆の声を上げた。
ようやく生後一ヶ月になるその子は、以前旭さんがラインで送ってくれた生まれたばかりの時の写真よりも少しばかり皺が取れたような気がする。でもまだ眉毛は薄いし、全体的にふにゃふにゃしていた。

「一也似?」
「…よく言われる」

鳴の言葉に、後ろで私たちの様子を見守っていた一也が答える。これは照れてるな。声だけでわかる。思わず笑みを漏らした。でも確かに一也によく似てる。将来はイケメンになるに違いない。

「一晟くん、こんにちは」

一也から「一」の字と、旭さんから「日」の字をとって、いっせい。いい名前だ。どこか太陽を連想させる明るくて未来の希望が表れている名前。私が名前を読んで顔を覗き込めば、嬉しそうに笑顔を見せてくれた気がした。

「あ、笑った」
「紗南のこと好きみたい」
「……生後一ヶ月って目ぇ見えてんの?」
「お前なぁ、赤ん坊にモチを焼くなよ」
「焼いてないし!」

一也の言葉に言い返す鳴は相変わらずだ。思わず笑ってしまった。

「紗南、抱っこしてみる…?」
「……いいの…?」
「勿論!」

旭さんの提案に、私は恐る恐る頷いた。場所を入れ替えるように旭さんが一晟くんを抱いたまま立ち上がり、私は彼女が座っていた椅子に座る。そして腕を差し出せば、ゆっくりと自分の掌に感じる温もり。

「……かわいい…」

首も座ってなくて、ふにゃふにゃしてて。誰かがいないと生きていけない存在。それを前にするとこんなにも庇護欲が湧き上がってくるのか、って。初めて思い知らされた。赤ちゃん。まだ何もこの世の理を理解していないだろう無垢な瞳が私をジッと見つめ返している。

「…可愛いねぇ…」

目の奥がジワジワと熱くなってくるのは、なんでだろう。
私は、私を見守るように寄り添ってくれていた鳴を見上げた。美しい青色に私と一晟くんが映り込んでいる。その姿に、そう遠くない未来を見た。きっと鳴もそうなんだろう。彼の瞳もまた潤んでいるんだから。
そんな私達を見守るように微笑んでいる一也と旭さん。その姿は夫婦でもあり、この小さな存在をこれから人生かけて育てていく父親と母親でもある。
梅雨も終わりかけの喫茶店で、私は鳴と…このふたりのような夫婦になりたいと誓ったけれど、今はさらにそのもうひとつ先へと進みたいと思うのだ。

「それで」

一也が徐に口を開く。

「お前らはいつ子供つくんの?」

感動的な雰囲気に水を差すのとはまた少し違うけれど。一也の呆れているような面白がっているような、そんな言葉。彼は自身の首を指差している。一瞬理解できなかったけれど、脳裏に浮かぶのは昨夜の愛の証。私の首筋に吸い付いた鳴の唇。途端に頬に熱が集まる。隠したくても、今、両手が塞がっていて無理。やだ、もう。顔を真っ赤にした私の姿を見て、鳴も理解したらしい。

「一也ァ。そういうことは気付いても言わないで。ほんとデリカシーない」
「いや、お前…。確信犯が何言ってんだよ」

なんて言葉を交わすバカふたりに、私の蹴りと旭さんの拳がそれぞれの身体を攻撃したのは、勿論言うまでもない。






「そんなわけで、俺たちアメリカ行くから」

ちょっとそこまで買い物に、みたいなノリで鳴が口にした言葉。それを聞いた人たちの反応は本当にそれぞれだった。

「…アメリカ…」
「おま…っ、降谷!オーラを!しまえ…!」
「なんだよ、もう決めちまったのか?」
「いやまだ正式にはどこって決まってないんだけど」

カルロスくんの問いに、鳴はそんな風に答えた。それはつまり、決まってはないが、いくつかの球団からのアプローチがあるということ。
鳴は随分前からアメリカ行きを視野に球団と話を進めていたらしい。ポスティングシステムを利用した鳴のメジャーリーグ挑戦が球団から発表されたのは、日本シリーズを終えた数日後のこと。その次の日には、スポーツ新聞の一面にデカデカと『成宮(プリンス)アメリカ挑戦』なんて見出しが掲載された。…なんだったら、スマートフォンのニュースサイトに速報でお知らせが入ったぐらいだ。本当に鳴は球界のスターだなぁと実感。
エージェント会社を通じて、MLBのコミッショナーに対しての告知は既に行われていて、来月の頭までには契約予定の球団が決まる算段になっているのだという。…正直、そういうことはまったくちんぷんかんぷんなので、全て鳴に任せている現状。鳴も心配ないよと言ってくれている…そして、それ以前に私にはやるべきことが山積みなのだ。

「アメリカねぇ。英語喋れんの?」
「まあ俺はそこそこ喋れるよ。問題は紗南だね」
「……現在頑張って…習得中です…」

一也の問いに、鳴がニヤニヤしながら私の顔を見た。そうです。英語です。授業の成績は決して悪くはなかったけれど、向こうで暮らすとなるとスキルがなさ過ぎる。

「礼ちゃんがね、手助けしてくれてるの」
「あーなるほど」

持つべきものは、学生時代に留学経験のある英語教師のお姉さんだ。アメリカ在住の友人の方を紹介していただいて、今まさに毎日リモートで授業をしてもらっている。更に向こうでの生活もいろいろサポートしてくれる方を紹介してくれる予定なので、そういう面でもすごく助けられている。

「…大丈夫?」

旭さんが一晟くんを抱きながら、私の顔を心配そうに覗き込む。私は「大丈夫だよ」と微笑んだ。決めてしまえば、案外楽だった。それに向けて努力していくしかない。やることはたくさんあるけれど、目標や夢があるのは楽しい。

「こっちの家どうすんの?」

倉持くんが当然の疑問を口にする。

「毎年オフシーズンには私だけでも戻ってくる予定だから、売らないよ。大事な家だもん」

この件に関しては、成宮の実家が、家の掃除や換気など…ある程度協力してくれることが決まっている。鳴の両親にとっても鳴のアメリカ挑戦は悲願だったのだ。特にお義父さん。正式に報告した時の喜びようを思い出して、思わず笑みがこぼれた。だから家のことは心配しないでってお義母さんにも念を押されたのは記憶に新しい。
私としても、その申し出は嬉しい。
一年の半分以上、空き家にしてしまうけれど。それでも手放したくはなかったから。

「ピアノ教室は?」
「急だけど授業は今年いっぱい。あとは無期限でお休み」
「こればっかりは仕方ないよね」
「それ鳴がいう台詞か…?」

鳴の言葉に一也は呆れている。…多分、心配しているんだろうなぁ。私の事情を知っているし、なにより幼い頃からずっと一緒にいた幼馴染として私の身を案じてくれている。それは素直に嬉しかった。それにもう鳴は私と一也が言葉を交わしても不機嫌にはならない。…理解っているから。私の心は、もう鳴にしかときめかないって。だから穏やかだ。優しさに裏がない。それは私たちの間に新しく結ばれた約束の存在も大きいのだろう。

「とにかく!俺が世界一の投手になるのを見ててよね!」

そんな鳴の言葉に。相変わらず自信に満ち溢れた言葉に。皆が笑みを溢した。下手したら「こいつ何言ってんだ」と思われても仕方ないような言葉でも、鳴が言うとなにか成し遂げてくれるんじゃないかって思える。そこにあるのは絶対的な実力と、それを裏付けする彼の努力。この場にいるみんなは知ってる。

「アメリカ…」
「だから降谷!オーラをしまえ!」

後輩ふたりの漫才みたいなやりとりに、笑みが溢れた。


……この人たちとこうして過ごせるのも、あともう少しだ。