青い夜のゆくえ
鳴がボストンにある古豪球団と契約に至り、新聞を賑わせた12月。渡米の準備と、日本での最後の仕事とばかりに怒涛のテレビ出演。こればっかりは鳴も好きでやっていることだし(さすがちやほやされるのが好きなだけはある)玲さんの旦那さんから頼まれて決まった仕事も多いので文句も言わずこなしている。
そんな鳴を尻目に、私は相変わらず英語の勉強と格闘し、アメリカでの生活に想いを馳せる日々。
ボストンは古い歴史を持つ街であると同時に学術都市ということもあって、留学生も多いらしい。少しほっとした。そういう事情ならきっとそれなりに日本人も多いだろう。
もしかしたら、そういう事情も加味して鳴は最終的に球団を決めてくれたのかもしれない。それに、ファンがとにかく熱狂的なのだという。そういう話を聞くとなんとなく愛着も湧く。
そんな忙しい日々の中で、初雪が降ったのはクリスマスの目前の週末だった。
「デートしようよ」
その日、鳴が突然そんな言葉で私を誘った。窓は夜露に濡れ、温かな寝室の中。ベッドの中で足を絡ませ合わせて目覚めた朝のことだ。突然のことに驚いたけれど…なんとなく、今日が私たちの記念日なんじゃないだろうかと思ったのだ。日記に書いてあった日のこと。ふたりで映画を見て、ランチを食べたという記録。
一生のお願いだから、付き合って、と。鳴が私に懇願した日。私が鳴にずっと一緒にいてくれるの?と尋ねた日。
だから私は特に断ることなく、その誘いに頷いた。
行き先は、目的地に着くまで内緒って言われた。流石に目隠しはされなかったけれど、でも何処に行くのか予想もつかない。
「…あれ、この道…」
助手席の窓から見える風景に既視感を覚える。その場所に行ったのは、今と違い2回とも夜だったけれど。見覚えがある道。
「……洋食屋さんに行くの?」
私が大学時代にアルバイトしていた場所であり、私と鳴がよくデートしたという店。以前停めたコインパーキングに車が停車してから、鳴に尋ねた。鳴は「そうだよ」と頷く。でもまだ午前も早い時間だ。こんな時間にランチ営業しているんだろうか。少しの疑問。でも差し出された彼の手をとって、歩き出す。
灰色の雲が覆う空。出掛けに見た天気予報では夕方ごろに雪が降り出すと言っていた。今年降る初めての雪。どおりで寒いわけだ。芯から冷えるような透き通った空気。私はそれを肺に吸い込む。
「さ、入ろう」
「うん」
ふたりで店の前に立ち、鳴が古めかしい扉のドアノブに手をかけた。来店を知らせるベルの音。いつもだったら、笑顔が素敵なご主人が私たちを出迎えてくれる---筈だった。
「サプラーイズ!!!」
一瞬。その大合唱に私は思わず唖然とした。目に飛び込んできた風景が信じられず、何度か瞬きを繰り返す。隣に立つ鳴を見上げれば、彼はニコニコ満面の笑みで私を見下ろしている。
「どう、驚いた?」
「…ッ、…うん…」
私はいつだって鳴に泣かされっぱなしだ。ぽろりと頬を流れ落ちた涙を、掌で拭う。
店内には、この店のご主人をはじめ、自宅近所のラーメン屋さん「玄鳥」のご夫婦、水野さんをはじめとするピアノ教室の生徒さんたち、そして長尾先生と雪平さんたちトランペットパートのみんな。青道高校吹奏楽部。それだけじゃない。なんと、優子をはじめとした私と苦楽を共にしたあの当時の同級生たちの姿もある。これにはとても驚いた。
さらに周りを見渡せば、成宮のお義父さん、お義母さん、玲さんたちご家族、和さんご家族もいる。それに、一也と旭さん、一晟くん。礼ちゃんもいる。……だけど、なにより一番驚いたのは…。
「パパ、ママ…ッ」
年老いたけれど、すぐに理解する。
私の大好きな両親。もうその姿を見ただけで、駄目だった。涙腺が、決壊する。そんな私を抱きしめる母の温かな腕の温もり。
「……会いたかった」
「うん…っ、うん」
「紗南の辛い時期に、傍にいてあげられなくてごめんね…ッ」
その一言で、両親が私の事情を既に承知であることを知る。濡れた視界で鳴を見れば、彼は私たち親子を穏やかな表情で見守っていた。周りのみんなもそう。遠く離れて暮らす久しぶりの親子の再会以上に泣き続ける私の姿を、みんな温かい目で見守ってくれている。
……嗚呼。彼は、ずっと、知らぬところで私の今後のことを考えて、知らせるべきところにはひとりで私の事情をしていたのだろう。守ってくれていたんだ。それを今更知らされる。
もしかしたらそれは記憶喪失という言葉での説明かもしれない。でも、それでも良かった。
私が歩んできた道は、確かに此処にある。そう強く…強く、実感した。
鳴が企画したサプライズパーティーはとにかく大盛り上がりだった。ピアノ教室の生徒さんや絹ちゃん、塁くん、快くんたち子供も多いからだろう。随分賑やかだ。子供たちはジュースで乾杯。大人たちはワイングラスを片手に盛り上がっている。
そんな宴中に、優子が突然口を開いた。
「えー、では、ここで!突然ですが!ふたりの結婚式でサプライズで披露した曲を演奏したいと思います」
そんな宣言と共に、吹奏楽部のみんなはそれぞれの担当する楽器を手元に用意する。…いつのまに。優子たち同級生だけじゃなく、雪平さんたち高校生組も準備はバッチリだ。チューニングを終え、長尾先生が指揮の形を取った。観客は拍手喝采。
「それでは聞いてください。「風になりたい」です」
穏やかなイントロが、店内に流れ始める。パーカッション組がタンバリンや手拍子なのは、ご愛敬だ。
思わずメロディーに乗せて、口ずさむ。
私が知らない、私たちが歩んできた道の再現。
これはエールだ。
私たちはいつまでも繋がっている。
例え私が十年という時の記憶がなかったとしても。私たちは繋がっている。
寂しいけれど。
同じ空の下で繋がっているから、大丈夫。
そんな風に、いま、心から思うんだ。
演奏が終わり、店内はまた拍手に包まれる。優子がまた代表して、口を開いた。
「さて。主役にも一曲吹いてもらおうかな!」
そんな無茶振り、と抗議の声をあげる暇もなく。私の手元には、真鍮の相棒。…鳴も、随分用意がいい。思わず苦笑い。
「えー…皆様、色々リクエストはあると思いますが、ここはやっぱり旦那さんの成宮くんの希望の曲をお願いしたいと思います」
「…鳴の、リクエスト…?」
首を傾げて、鳴を見る。
鳴はそんな私の視線に、少し恥ずかしそうに目を伏せた。…なんかすごい曲をリクエストする気じゃないだろうか。即席なのだからクオリティは期待しないで欲しい。ちょっとドキドキする。そんな私の不安を他所に、鳴はゆっくりとその唇を開いた。
「…ずっと、紗南に吹いて欲しかった曲があるんだけど」
「うん…?」
「それをお願いしてもいい?」
「いいけど…」
なんて曲?と私が聞く前に。
鳴はハニカミ混じりに、言ったの。
「サウスポー」
その名前を聞いた瞬間、思わず笑みが漏れる。勿論、と頷いた私の手元には、用意周到、楽譜も届いて。本当に至れり尽せりというか。……この場は、きっと、鳴の願いでもあったんだろう、と。思う。
我儘で、自尊心が高くて、自分が一番じゃないと気が済まない王様。でも、それだけじゃない。私はそれだけじゃないことを知っている。優しさと愛と慈しみに溢れた、私の大事な---大好きな旦那様。
そんな鳴に向けて。
そんな鳴だけの為に。
私は息を深く吸い込み、メロディーに想いを込めた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。それぞれ時間を工面してこうして集まってくれたのだから、と私は出来る限りみんなと話をした。
そんな私たちを尻目に盛り上がっていたのは、"野球バカ"たちだ。鳴と一也をはじめ、途中で顔を出してくれた白河や多田野くん、カルロスくんの姿に、大興奮なのは勿論水嶋くんや無事に稲実入学が決まった水野さんの息子さん、それにちびっこ野球少年の塁くんと快くんたち。
…まあ甥っ子ふたりはおいといて、なかなか普段の生活でこうしてプロ野球選手に会えることもそうないよなぁ、と呆れながらも微笑ましい思いが胸を占める。相変わらず白河は一也に対してブツブツ言ってたけど、多分これもご愛敬だ。
「紗南」
「旭さん」
ふっ、と。話していた人の輪が途切れたタイミングで、旭さんが私に声を掛けた。一晟くんは疲れたのかベビーカーの中で眠りの中だ。
私と向き合った旭さんは、ポツリ、と呟いた。
「……寂しいね」
「うん」
「…すごく、寂しい」
「私も寂しいよ。でも一生のお別れじゃないから。だから、大丈夫だよ。だって私たち友達じゃない」
私がそう言って微笑めば、旭さんはちょっと驚いた顔を浮かべる。…なんか変なことでも言っただろうか。思わず首を傾げた。
「……やっぱり紗南には敵わないなぁ」
「え…?」
「あのね。私、ずっと紗南のことが羨ましかったの。明るくて、友達にたくさん囲まれてて…なにより一也くんのことを一番理解してる……そんな紗南に…私はずっとなりたかった」
「……そうなの…?」
「そう。私、…ずっと自分に自信がなかった。……だけどね。そんな私を一番に心から認めてくれたのが、紗南なんだよ。はじめて私のお友達になってくれたのが、紗南なの」
「…うん」
「これからもずっと、ずっと……」
旭さんが何度か瞬きを繰り返す。豊かな睫毛が、ポロリ、と涙を溢れさせるものだから、思わず驚いた。まさか旭さんが泣くとは…。だからだろうか。私は気づけばその美しい滴を人差し指で拭っていた。
「…友達で、いてね」
「もちろんだよ」
彼女の頬に添えた私の掌に、旭さんの掌が重なる。そして私たちはただ微笑み合った。
「紗南が成宮くんと、私たちみたいな夫婦になりたいって言ってたけど…」
「うん」
「私にとっては、紗南たちの方が理想の夫婦だよ」
「…本当に…?」
「本当だよ。私と一也くんにとって、紗南と成宮くんは太陽なの」
その言葉が、なによりも嬉しい。温かい彼女の想いが、私の胸に染み渡る。
旭さんがそういう風に言ってくれること…それ自体が、私たちが選んだ道が間違ってないってそう思うから。そんな風に…ただ穏やかな空気が私たちの間に満ちた、その時。
「ねー、おふたりさん」
ずしり、と私の肩に重み。振り向けば、鳴だ。彼は慈しみを含んだ微笑みを浮かべている。その後ろには、一也の姿。どうやら野球バカ談義から抜け出してきたらしい。
「ラブラブしてるところ悪いんだけど」
「ラブラブ…?」
「四人で写真撮らない?」
鳴の提案もまた、"いつか"の再現。私は真っ先にうんと頷いた。近くにいた人にカメラマンを頼んで、四人で体を寄せ合って写真を撮る。
「鳴」
一也がカメラに視線を残したまま、ふいに鳴の名を呼んだ。
「もう紗南のこと泣かせるなよ。俺の大事な幼馴染なんだからさ」
「わかってるよ」
一也の言葉に、鳴もまたカメラを捉えたまま頷く。
そんなふたりに微笑ましい気持ちを抱く私と旭さん。
そしてファインダー越しに写るのは、スッキリと晴れやかな顔をした私たち四人の顔。
きっとこれは、私の一生の宝物になる。
心からそう思うんだ。
宴は、私たちの締めの挨拶でお開きとなった。鳴はやっぱり相変わらず鳴で、「俺の活躍見ててねー!」と都のプリンスの健在ぶりをアピールしていた。それさえもみんな相変わらずだなぁと微笑ましく見守ってくれたから、本当に私たちは周囲の人たちに恵まれているんだなと実感する。
「ママ、おばあちゃんによろしくって言っておいて」
「勿論よ。…時間が出来たら、長野にも遊びに来なさいね」
「…うん」
「……電話するから」
「うん」
「元気でね」
わざわざ長野から出てきてくれた両親と別れる時は、やっぱり少し泣いてしまった。そんな私の傍にずっと寄り添ってくれた鳴。肩に置かれた彼の掌の温もりが、じんわりと服越しに伝わってくる。
「成宮くん」
「…はい」
私の思い出の中で鳴にオジサンと呼ばれて小馬鹿にされていた父が、目尻に皺を寄せて鳴を見つめた。
「紗南のこと、よろしく頼むね」
「はい、勿論」
お父さんの言葉に、鳴は大きく頷く。そんな彼の固い意志と決意に、私の頬は緩んだ。
「楽しかった?」
とっぷりと日が暮れた夕暮れ時。手を繋いでお店から車まで歩く、帰り道。ふと鳴が私に尋ねた。私は間髪入れず「勿論」と頷く。その返答に、ゆるゆると頬を緩ませる鳴は本当に可愛い。
「……これからも」
「うん」
「きっと沢山、大変なことがあると思うけど」
「…うん」
「俺たちなら大丈夫だよね」
それは、私たちの新しい合言葉だ。
互いに微笑み合う私たちの間に、はらり、と落ちる結晶。
「あ、雪…」
見上げて、呟いた。
真っ白に降り頻るそれは、私たちの今までの歴史に似ている。儚いから、美しい。
鳴と私は、暫く足を止めて、舞い落ちる雪をただジッと見つめていた。
「紗南」
甘い甘いミルクのような夢を見ていた気がする。名を呼ばれて、目を開ける。周囲の会話に耳を澄ませばそれは英語ばかりで、ううん、と眉を寄せた。それぞれどんな会話が交わされているのかさっぱりだ。やっぱりなかなかヒアリングは難しい。これから前途多難だなぁと思う。そんな私の心配を察したのか、隣に座っていた鳴はブランケットの上の私の掌をぎゅっと握りしめる。
「なんか幸せそうな顔してたけど。どんな夢見てたの?」
日本からアメリカ行きの長いフライト。最初こそ映画を見たり機内食を食べたり、初めての長旅を楽しんでいた私だけれど、さすがに長時間起きていることも出来ず気づいたら眠っていたらしい。
「んー、鳴が開いてくれたサプライズパーティーの日の夢」
「ああ、あの日ね」
ほんの一ヶ月前の出来事だ。
本当に楽しかったなぁ、と呟けば。「俺も楽しかったよ」と鳴が微笑む。それだけで胸が幸せいっぱいだ。…勿論、これからの生活に対する不安もあるけれど。それでも鳴と一緒なら、乗り越えていける。
私は、飛行機の窓越しに見える夜明けの空を眺めながら、そんなことを考えた。
日本とアメリカを繋ぐ空。
薄暗い夜の帳に、差し込む一筋の光。
夜が明けるから目覚めるんじゃない。
目覚める私たちの為に、夜が明ける。
祈らずとも、
私たちの行く先を照らす朝日は、
優しい。
そんな風に思うのだ。