鳴ちゃんと紗南先生が引っ越してきて一年半が経った四月。我が家の次男が青道高校に進学したことによって水野家と成宮家の交流は更に盛んになった。それまで大して鳴ちゃんのことを応援していなかった旦那も、ご近所さんとして交流を重ねることによって「アイツ愛想いいし良い奴だなぁ」なんてすっかり鳴ちゃんファンになったのだ。だから、ちょっとずつだけど夫婦間の会話も増えた。まさに成宮夫妻様々。ーーそんな若い夫婦は、相変わらず仲が良くて、近所では『ラブラブ夫婦』としてすっかりと定着している。 シーズン中でも時折、近所を仲睦まじく散歩するふたりの姿。本当に微笑ましいなぁ、と思う。もはやふたりが私の「推し」になったのだ。
そんな風に、付き合いが深くなって、ひとつわかったことがある。それは鳴ちゃんが紗南先生のことをとにかく大好きだってこと。それを深く理解したのは、ある時、鳴ちゃんが教えてくれた昔話を知ったのが切っ掛け。

もうその頃には、彼は敬語じゃなくなっていたし、私も随分鳴ちゃんとフランクに接していた。たまたま鳴ちゃんは次の登板に向けての調整、ロードワーク中で、私はパートの帰り道。顔を合わせたタイミング。話題は、やっぱり野球のこと。長男が稲実生ということもあり、国友監督の話とか、鳴ちゃんの同級生らしい白河コーチの話とか、まあ話題は普段から尽きない。だけどその時は、鳴ちゃんが所属する球団の話だった。相変わらずチームの勝率は悪い。今年も厳しいねぇ、なんて話から…私はつい「メジャー行かないの?」なんて気軽に聞いてしまったのだ。ファンの贔屓目かもしれないけど、鳴ちゃんならメジャーでも十分通用する。そんな風に考えていた。鳴ちゃんはそんな私の問いに「まあ、俺なんてまだまだだしね」と彼らしくない謙遜。

「でも今年で7年目でしょう?」
「まあね」
「早いうちに行っといたほうがいいわよ」

無責任な私の言葉に、返ってきたのは「昔、約束したんだよね」という予想外の言葉だった。

「約束?」
「うん」

首を傾げる私に、鳴ちゃんは穏やかな笑みを浮かべている。そうしてゆっくりと、柔らかそうな唇を開いた。

「紗南とね、子供のころに約束したの。俺が今の球団にドラフト一位で入団して、万年Bクラスのチームを優勝させるって。だからそれを叶えるまでは…アメリカには行かないよ」

その言葉には、不思議な力強さがあったように思う。

「ふたりとも球団のファンだったの?」
「そういうわけじゃないんだけど。まあ、成り行きっていうか…紗南の呪いかな」

「呪い」という、話題からかけ離れた単語。だけどその言葉を紡いだ鳴ちゃんの表情は本当に、本当に、穏やかで。それが夕暮れの橙色に溶ける。彼の金色の髪が、キラキラと光って輝いていた。それがとても美しいって思ったのだ。

「俺は紗南のこと愛してるから」

そんな言葉をさらりと口にしてしまう鳴ちゃんは、やっぱりとっても格好良かった。




そんなやりとりから数か月後。
その年の夏は、我が家も紗南先生も大忙しだった。
青道高校野球部が、夏の甲子園大会に出場したのだ。一年生の次男はベンチ入りも出来ずにスタンド応援だったけれど、まあ『野球馬鹿』の集まりである我が家では、旦那と予選敗退をうけて野球部を引退した長男とそして三男と私の四人で甲子園まで応援に行こうという話になったのである。大学進学を希望していてまだまだ野球を続けるつもりの長男は、試合観戦中、内心悔しそうだったけれど…でも仕方ない。前を向いていかなくちゃ。
そんな私たちの家族旅行を兼ねた甲子園応援とは違い、紗南先生は吹奏楽部の付き添いで同じく甲子園のアルプススタンドに立っていた。彼女にとっては、仕事だ。その様子は傍から見ていても大変そうで。しばらくピアノ教室はお休みさせてください、と連絡を貰ったのは甲子園から戻ってきて暫く経った日のこと。どうやら体調を崩してしまったらしい。


教室が再開されたのは、九月に入ってからのこと。

「来年の十二月に、発表会を開こうと思うんですけど。水野さんは参加されますか?」

久しぶりのレッスン終わりに紗南先生の提案。突然のことに思わず目を見開く私。発表会。つまり誰かに自分の演奏を披露するってことでしょう…?考えもしなかった提案に、何度も瞬きを繰り返した。

「先生、もう体調は大丈夫なの?」
「もうすっかり。ご心配おかけしました」
「それならいいんだけど…発表会かぁ…」

習い始めた当初よりは弾ける曲も増えたし、一年以上先の話だから挑戦しようと思えば、挑戦できる。でもちょっぴり自信がない。そんな私を鼓舞するように「水野さんなら大丈夫ですよ」と優しく微笑んだ。

「そうですかねぇ…」
「是非、お願いします」
「…じゃあ、ちょっと、頑張ってみようかしら…」

紗南先生に頭を下げられたら断れるわけがない。先生のピアノ教室は、開設からもうすぐ二年を迎える。生徒数は現在約二十人ほど。発表会の会場は近くの市民ホールを借りる予定らしい。随分しっかりとした構想が彼女の中にあるのは、理解した。だけど気になるのはやっぱり…。

「…先生、一年先とはいえ青道の仕事もあるのに大丈夫?また倒れない?」
「気をつけます」
「鳴ちゃん、随分心配してたわよ」
「…そう、ですね。でも…まあ…ピアノ教室のことは、主人も…なんだかんだ認めてくれてるので…発表会のことは最終的には賛成してくれましたし。大丈夫です」
「…なら、いいんだけど…」

先生の歯切れの悪い言い方は、まるで鳴ちゃんがピアノ教室以外のこと(この場合青道の仕事だろうか)は認めてないって言ってるみたいだった。仲良さそうなふたりも喧嘩することなんてあるんだろうか、と考える。……まあ、夫婦だから色々あるのかもしれない。

「…ねえ、先生。もしかしてオメデタ…?」

思っていたことを口にしてしまうのは、私の悪い癖だ。でもなんとなく体調不良と聞いて新婚さんだし…と邪推してしまったのは否定できない。だけど紗南先生は、小さく首を振った。

「……子供は、……まだ私が考えられなくて…ピル飲んでるので…。今回のは本当に体調不良です」
「…そう、なの…ごめんなさいね、変なこと聞いて」
「…大丈夫ですよ」

水野さんだから、と先生は控えめな笑みを浮かべる。…その言葉が、とても嬉しかった。お節介おばさんと思われても仕方ないのに、紗南先生も鳴ちゃんも本当に私のことを慕ってくれている。私はなんだか泣きそうになった。ひとまわり年下の、若い夫婦。娘と息子とまではいかないけれど…それに近い気持ちを抱いてしまっているから。やっぱり幸せになってほしいと強く思うのだ。

だって、ふたりは私に新しい世界を見せてくれた。鳴ちゃんは介護に疲れていた私の希望になったし、紗南先生はオニギリを握るばかりだった私の手をピアノが弾ける手にしてくれたから。


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発表会で演奏する曲は、テクラ・バダジェフスカ作曲の『乙女の祈り』に決まった。中級のピアノ奏者向けの曲らしい。やはり発表会に出るからには、と今の私にとっては少し難しい曲を紗南先生が選んでくれたのだ。

「お前が弾いたら『ババアの祈り』だな」

家で練習していたら、旦那に楽譜を覗き込まれてそんなことを言われた。…失礼なやつ。思わず顔を顰める。

「私がババアだったら、定年近いアンタはヨボヨボのジジイじゃない」
「ま、それもそうかぁ」

憎まれ口を返せば、相変わらず熊みたいな風貌でハッハッハッと笑われた。笑い事じゃないと思うけれど、言葉すら交わさなかった以前の『夫婦の危機』を考えるとーーまあ、これでいいのか、と思う。少し楽天すぎるかもしれないけれど…。

そんな風に一年後の発表会に向けて練習を重ねつつ過ぎていった日々の中で、相変わらず鳴ちゃんの球団がクライマックスシリーズには進出出来なかったり、長男の進路が無事に都内の大学に決定して高校に引き続き寮生活が決まったり、お調子者の次男が「冬合宿…地獄…奥村コーチが…マジで…厳しい…鬼…」とゾンビみたいになって年末年始に三日だけ我が家に戻ってきたり、三男が中学二年生に進学を目前に早くも「俺も兄ちゃんみたいに稲実行きたい」って進路の希望を口にするようになったり……まあそんな風に冬を越えて、そして春を迎えた。

その頃から、紗南先生はなんだか元気がない日が続いていたように思う。青道の仕事が始まると毎年そうだったけれど、今年は特にそれが顕著だった。どうしたのって尋ねることも出来たけれど、私はそれをしなかった。課題曲を習得するのにいっぱいいっぱいだったというのもあるし、いくら仲が良くなったとはいえもう一度ふたりのプライベートな問題に踏み込む気になれなかったのだ。無為に彼女の気持ちを荒らして、それで紗南先生に嫌われてしまうのが嫌だった。…話したくなったら、相談したくなったら、きっと彼女から話してくれるだろう。そんな風に思っていたのだ。



「結婚したら結婚したで大変だね」

その場面に遭遇したのは、本当に偶然だった。パートが休みの平日になんとなく足が向いた西国分寺駅。駅ビルの中の本屋に寄って、その帰りに同じビルに入居しているチェーン店のコーヒーショップで一息ついていた時のこと。
店内が疎らだったせいか、真ん中の仕切りを隔てて向こう側の席に座る客の会話が聞こえてきたのだ。

「ほんと、それ」

その聞き覚えのある声に、私は思わず振り返っていた。ーー紗南先生だ。背中合わせに座っているからか、私のことにはどうやら気づいていないらしい。彼女の向かいに座るのは、先生と同年代だろう女性。肌が白くて、艶々した黒髪が目を惹く美人。

(友達かな)

なんとなく察して、声を掛けるのは辞めておいた。手元のコーヒーを啜り、読んでいた雑誌にもう一度視線を落とす。だけどやっぱり耳はふたりの会話を拾ってしまっていた。

「成宮くんはなんて言ってるの?」
「…まあ、相変わらずだよ。鳴が早く子供欲しいのは変わらないから、お義母さんに同調してる感じ。…子供欲しくないって思うのって、そんなに変なこと…?」
「それ成宮くんに言われたの?」
「近いようなことはね。俺のこと愛してないからそう思うのか、とか。…そんなわけないのにね」

溜息混じりの紗南先生の言葉に、私は思わず激しい心臓の動悸を押さえ込むように胸に手を当てた。…これは確実に私が聞いてはいけない話だ。だけど今ここで席を立つと紗南先生に私の存在がバレてしまう可能性がある。だから結局、ここに居るしかない。誤魔化すようにまた一口珈琲を飲んだ。

「…一也くんとのことも、相変わらず?」
「うん。御幸からなんか聞いてる?」
「紗南の近況とか聞くと、成宮くんやっぱり機嫌悪くなるって言うぐらいかなぁ」
「…そう。こっちも似たようなもんだよ。ニュース番組でさ、試合結果とかで御幸がチラッと映る時あるでしょ。ああいうのも嫌みたい。……なんなんだろうね、ほんと」
「それだけ成宮くんが紗南のこと好きってことじゃないの…?」
「わかるけど。限度ってものがあると思う。だいたい私が御幸のこと好きだったのなんてもう十年近く前の話だし……いつまで疑ってるんだろ。私はちゃんと鳴の奥さんなのにね」

ーー俺は紗南のこと愛してるから
ふいに胸の内にいつか聞いた鳴ちゃんの言葉が蘇った。
その時は、そう言い切ってしまう鳴ちゃんが格好いいなぁと思ったし、年甲斐もなく私も一度でいいから男の人にそんなこと言われてみたい…なんてちょっとドキドキしたのに。知らなかった裏側を垣間見てしまうと、ひとつの言葉でも意味が変わってくる。
……やっぱり夫婦って外から見てるだけじゃ、わからない。先生たち大丈夫なんだろうか。とにかく心配が胸を占めた。
でも、鳴ちゃんの話は、それきり。先生のお友達が結婚するって話に話題が移り、それ以降はわりと明るい先生の声が戻ってきたから、私は人知れず安堵したのだった。


結局、あの盗み聞きしてしまった話は、私の胸の奥底に深く深く仕舞い込んだ。誰にだって秘密のひとつやふたつぐらいある。それは勿論私にも、鳴ちゃんにも、紗南先生にも。

暑い夏を越え、風が秋を運んでくる頃には先生もだいぶ元気を取り戻したように見えた。鳴ちゃんはといえば相変わらずだ。顔を合わせれば「水野さーん!」と愛想よく世間話に付き合ってくれる。今年も駄目だった、ごめんね。と頭を下げられたのはチームが最下位でシーズンを終えた直後。鳴ちゃんが謝ることではないと思うけれど、「来年こそね」と鼓舞すれば「うん、来年こそ、ほんとに頑張るよ」と強い意志を孕んだ表情で頷いたから。私も改めて発表会への決意を新たにしたのだ。

そんな風に迎えた発表会は、まあなかなかに良い演奏が出来たように思う。ババアじゃなくてちゃんと乙女になった。
とっても緊張したし、もうこんを詰めた練習はしばらくやりたくもないと思ってしまったけれど……嬉しかったのは紗南先生がとっても褒めてくれたことと…旦那と息子たちが演奏が終わってステージ横に引っ込んだ私を待ち構えて、そして花束をプレゼントしてくれたこと。旦那がぶっきらぼうな様子で「良かったぞ」って言ってくれたから、ちょっと笑ってしまった。

「水野さんのお家って本当に明るくて仲が良くて、羨ましい」

私たちの様子を傍で見ていた先生が、そんな言葉をポロリと溢したものだから私はとても驚いた。

「…そうかしら」

明るいというよりは騒がしいし、つい二年前まで夫婦間の会話は全くないに等しかった。我が家が変わったのは、鳴ちゃんと紗南先生のお蔭だ。それを伝えれば、先生は照れたように頬を掻き、そしてゆっくりと口を開いた。

「前ね、左月くんが言ってたんですけど、水野さんの作るオニギリっていっつも綺麗な三角形だったって。だからオニギリってみんなそうかと思ってたのに、青道行ってマネージャーが握ったそれがすごく歪だったからびっくりしたんだって。そうよね、左月くん?」

先生が、次男の左月(さつき)に顔を向けて、にっこり。…次男は、「…成宮先生、マジでそれ今言う?」としかめっ面。みんながその様子に思わず笑みを零した。先生の言葉は続く。

「水野さんが、私の初めての生徒さんで本当に良かったです。発表会お疲れさまでした」
「…こちらこそ、本当に、お世話かけました。これからもよろしくお願いします…!」

互いに一礼。もう泣きそうだった。鼻を啜って誤魔化す。そんな私たちを他所に、旦那たちは客席に戻った。いま演奏している生徒さんの曲で、この発表会も終わりだ。私はなんとなく先生と並んだまま、そのメロディーに耳を傾けていた。突然、先生が口を開く。

「実はね、水野さん。水野さんにだから、言うけど……私も、水野さんみたいなオニギリを握るお母さんになりたいって、ようやく思ったんです」

その言葉に、私は思わず紗南先生の横顔を見た。驚きで言葉が出てこない。
ーー私の手って、いつもオニギリを握ってる
その言葉が久しぶりに浮かんで、そして、また消えた。
子供のことはまだ考えられないから避妊していると先生が言った去年の夏。
やっぱりまだ子供は欲しくなくて、鳴ちゃんと揉めてるって話を偶然にも聞いてしまった今年の夏。
あれから、先生の中でどういう変化があったのか…それは私にはわからないけれど。それでも紗南先生の先ほどの言葉は力強かった。そしてそれを私に伝えてくれたことを凄く凄く嬉しく思う。

「先生、なにかあったらこれからも私が手助けしますからね」
「はい、ありがとうございます。水野さんがいてくれたら…すごく、心強いです」

ふたりでそんな約束を交わした、十二月。年の末。互いに照れた笑みを浮かべて、私たちは同志のような心持で手を握りしめあったのだ。


ーーその時は。
まさか新しい年が紗南先生と鳴ちゃんにとって激動の一年になるなんて。
私は考えもしなかった。