年が明け、帰省した長男と次男も一緒に家族五人で近所の神社へ初詣に行った帰り道。成宮家の前で鳴ちゃんと紗南先生と顔を合わせた。ふたりはこれから初詣らしい。お互いに新年の挨拶を交わした後、鳴ちゃんは毎年恒例うちの息子たち三人にお年玉を手渡す。この時ばかりは、最近思春期真っただ中でめっきり口数の減った三男の央(ひろ)も律義に頭を下げて顔を綻ばせるものだから、思わず笑ってしまった。
息子たちの中で相変わらず鳴ちゃんの一番のファンは、央だ。

「ヒロも4月から中三か〜もう進路決めたの?」
「稲実一択っス」
「え、マジ?泰右の影響?」
「成宮選手っス!」
「だよねー!」

鳴ちゃんもまた央を可愛がってくれていて、いつもこんな風にコントのようなやりとりを繰り返している。ちなみに泰右(たいすけ)とは長男の名前だ。

「え、俺の影響じゃないの?」
「泰右だって俺に憧れて稲実行ったんだから、もしヒロが泰右に憧れてたとしても結局大元は俺でしょ?」
「まあ、それはそうですね」
「あ、ちなみに左月は青道だからふたりよりお年玉少ないよ」
「ハァ!?鳴さんマジすか!?」

長男も次男も加わって、騒がしいったらない。やりとりを見ていた紗南先生が「子供が四人いるみたい」と笑いながら零した言葉に、彼女の隣に立っていた私も思わず笑みを浮かべた。

そんな風に明けた年の一月はあっという間に過ぎ、鳴ちゃんは月末に沖縄へ。毎年恒例の春季キャンプだ。「今年もお土産買ってくるね」という言葉を残して彼は旅立っていった。もう慣れたことだけど、相変わらず鳴ちゃんは律義だ。

そんなこんなで二月に入ったのだけれど、私は数年ぶりにインフルエンザに罹ってしまった。普段は風邪もひかない自称健康体の私だったけれど、なかなかにしんどい思いをしたので自分の年齢を嫌というほど実感する。もう四十三歳。あと二年で四捨五入すれば五十歳だ。今年は泰右が成人を迎えた。そりゃあ歳をとるはずだよなぁとしみじみ。結局、床に臥せっている間にピアノ教室を二週連続で休むことになった。先生からはわざわざ大丈夫ですか?という連絡が入り心配を掛けてしまったものだから、なんだか情けない。結局、復活したのは二週間ぶりのピアノ教室の前日。私は朝からパートへ行くために自転車をかっ飛ばしていた。通いなれた道。久しぶりに紗南先生を見かけたのは、そんな折だ。私が成宮家の前を通った時、彼女はちょうど庭先に出ていた。相変わらず成宮家の庭は美しい。先生が丁寧に世話しているのがわかる。
心配をかけたのだから、この時挨拶するべきだったのかもしれない。だけど出勤時間が迫っていて、私は焦っていた。それに先生も俯いていて私のことに気づいていなかったから。どうせ、明日レッスンで顔を合わせるんだし、と思い結局自転車を漕ぐ足を止めることなく成宮家の前を素通りしたのだ。
ーーこの行動を、私はこれからこの先ずっと後悔することになる。

翌日。早朝七時前。紗南先生からライングループにレッスンお休みの連絡が入った。振替のレッスンについてはまたご連絡します、と書かれているだけで、お休みの理由の記載は特になかった。どうしたんだろう、と思いつつ。急にぽっかりと空いてしまった午前中の時間。たまには仏壇でも掃除するか、とやる気を出して久々に家の隅々まで掃除して一日を過ごした私。


ーー鳴ちゃんが我が家を訪れたのは、その日の夜のことだ。

「…ねぇ、鳴ちゃん来たんだけど」

来客を知らせるインターフォン。たまたま珍しく対応してくれた央がすぐにリビングへと戻ってきたかと思うと夕飯の片づけをしていた私を呼んだ。鳴ちゃんという言葉に、スポンジを握っていた手を止める。

「え、鳴ちゃん?」
「うん。母さんと話したいって」
「どうしたんだろう」

慌てて泡だらけの手を洗って、タオルで拭く。首を傾げながら、玄関へと急いだ。鳴ちゃんが我が家を訪れるのは…四年間で初めてのことだった。

「鳴ちゃん、どうしたの?」
「…水野さん。ごめん、夜遅くに」
「それはいいんだけど…」

玄関に立つ鳴ちゃんは時折見かけるロードワーク中によく来ているスポーツウェアだった。心なしか、浮かない表情。なにかあったんだ。それだけは理解った。

「立ち話もなんだから…あがってく?」
「……うん。そうしてもらえると、嬉しい。でも紗南には走ってくるって言って出てきたから、そんなに長居できないけど…」
「大丈夫。あがって」

来客用のスリッパを出して、鳴ちゃんをリビングに案内した。いつかとは逆の立場だ。なんとなく落ち着かない。央はもう一度鳴ちゃんに挨拶してから、空気を読んで二階の自室へと引っ込んだ。央を前にしても、鳴ちゃんはいつものように揶揄ったりふざけたりしなかった。なんだかとても、覇気がない。
私はつけっぱなしだったテレビを消して、ダイニングテーブルに鳴ちゃんを座らせた。それからお茶。熱い緑茶を注いだ来客用の湯飲みを鳴ちゃんの目の前に置く。鳴ちゃんはそれをちびりちびりと飲んだ。なんとも形容しがたい沈黙。鳴ちゃんの方から話してくれるかな、と思ってみたけれども、一向に彼は口を開かない。難しい顔をして、考え込むような素振り。どうやって話を切り出そうかと考えているんだろうか…。そんなことを、考える。

「……もしかして、紗南先生、オメデタなの?」

気づけば私はまたその言葉を口にしていた。だって私は昨年末に紗南先生の固い決意を聞いている。…だから、そうであればいいなって思ったのだ。願いにも似た思い。だけど鳴ちゃんは静かに首を振った。

「…そうだったら、最高なんだけどね。でも、違うよ」
「……そう…」
「…水野さん」
「なに…?」
「紗南がね、」
「うん」

鳴ちゃんはそこで一度言葉を区切る。ゴクリ、と彼の咽喉が動いた。私もそれにつられるように唾を飲み込む。一瞬の静寂。そして鳴ちゃんは意を決したように、口を開いたのだ。そして彼のそれは、とても信じられない言葉を紡いだのである。

「…十七歳になっちゃったんだ」
「…………じゅ、じゅうななさい…?」

冗談をいうタイミングでもない。茶化すような言葉尻でもない。鳴ちゃんの表情も強張っている。そのすべてが、鳴ちゃんの言葉が真実だと言い表している。だけど俄かには信じられなかった。十七歳ってどういうこと。頭は疑問でいっぱいだ。そんな私の戸惑いに触れて、鳴ちゃんは頭をガシガシと掻いた。そしてまたその唇が開く。

「うん。十七歳」
「…どういうこと?」

私の問いに、鳴ちゃんはゆっくりと、自分がキャンプから帰ってきた昨日のことを話し始めた。鳴ちゃんが空港から成宮家に着いた時。紗南先生は玄関に立っていたのだという。そして、鳴ちゃんを「成宮」と呼んだのだ。それは、付き合う前の呼び方だった、と彼は自傷気味に笑った。

「…紗南先生、記憶喪失になっちゃったの?」
「……わかんない。でも俺は、それとはちょっと違うって思う」

身体は今までの紗南先生のまま、ただ自我だけがーー17歳のある地点から、「今」に"スキップ"したんだと思う、と。鳴ちゃんは真剣な表情で言ったのだ。それを聞いて、やっぱり私はなんて言っていいかわからなかった。

「……私たちのことも、知らないの…?」
「……うん。ごめん。ごめんね、水野さん」
「鳴ちゃんのことは…?」
「俺のことは知ってるけど、結婚してるって言ったら唖然としてた。まあその当時、仲悪かったからね、俺たち」

鳴ちゃんの綺麗なブルーが悲しみに揺れる。彼のそんな顔見るのは、当然ながら初めてのことだった。まさに、悲痛。そりゃあそうだよ。だってあんなに仲良かったふたりなのに。私の脳裏には、寄り添う鳴ちゃんと紗南先生の姿がありありと浮かんで消えない。

「…ピアノ教室…どうなるの…?」
「……紗南は、一応続けるつもりみたい」
「青道の、仕事は…?」
「……それも、多分、続ける」
「…大丈夫なの…?」
「…どうだろうね。一応知り合い通じて、吹部より先に高島先生には事情説明するつもり」
「知り合い?」
「うん。青道の野球部のOB」
「鳴ちゃんからは話さないの?」
「俺、紗南と仲良かった人からの信用ないんだよね。だからそいつから話してもらった方が高島先生も信じてくれると思う」
「そう…」

なんとなくその言葉には引っ掛かったけど。それでも今聴くことではないかな、と特に深く追求はしなかった。
ーー青道高校野球部の副部長である高島先生の名前は、確かに紗南先生の口から何度か聞いたことがあったのでふたりの仲が良かったのは、私も知ってる。そして高島先生もまた、紗南先生が私の話をしていたのか、左月が青道に進学して初めて父母会で顔を合わせた時に「噂の水野さん」と声を掛けられたのはいい思い出。…なんて、話が横道に逸れた。多分現実逃避だ。だって本当に、こんなこと、信じられない。

「…今後の、紗南のこと考えて、一応知らせるべきところには追々『十年間の記憶喪失』って伝えるつもりだけど…それでも、俺は、いつでも紗南が戻ってこれるようにしておいてあげたいって思ってる。だから、まあ…基本的には今まで通りの生活になるかな」
「…先生、戻ってくる?」
「戻すよ、俺が」

その言葉は、揺るぎない。まるで試合中の鳴ちゃんだった。気迫に溢れている。敵を射抜くような、瞳。
そんな彼の言葉を最後に、私たちはしばらくまた無言で、向かい合った。だってなんて言っていいのかわからない。今まで通りっていうけど。多分私との付き合いは、また振り出しに戻るだろう。17歳の紗南先生にしてみたら、私なんてただの知らないオバサン。一緒に過ごしてきた四年間が彼女の中にはない。…それが、とても悲しいと思う。私の立場でそうなのだからーー鳴ちゃんは信じられない程の悲しみを背負っているに違いない。
そんな鳴ちゃんの心情を思い遣って、口端から息が漏れた。

…それにしてもなんで鳴ちゃんは昨日の今日で真っ先に私に話をしてくれたんだろう。それをおずおずと尋ねれば、鳴ちゃんは穏やかな笑みを浮かべて言った。

「だって水野さんだから」

鳴ちゃんは、淀みなく言い切る。

「俺たち、本当に水野家に憧れてたんだよ。紗南も水野さんのこと大好きだって言ってた。…それに水野さんなら、こんな信じられないようなことも、きっと、信じてくれて、…それで紗南のこと助けてくれるって思ったから」

鳴ちゃんのその言葉に、私の涙腺は緩んだ。…私が泣いてる場合じゃないのに。それでも涙はポロリと頬を伝う。鳴ちゃんはそんな私の姿に、困ったように眉を下げた。

「…どうして、こんなことになっちゃったの…?」

涙と共に、悔しさが滲み出る。だって、こんなのあんまりじゃないか。鳴ちゃんと紗南は間違いなく幸せだったはずなのに。…そりゃあ、喧嘩することだってあっただろうけれど、夫婦なんだから当たり前。それなのに…。

「…神様がね、強欲な俺に与えた罰なんだろうなぁって思う。…巻き込んでごめんね、水野さん。でも、紗南のこと、これから見守って欲しいんだ」

そう言って頭を下げた鳴ちゃんに、私はなんにも言えなかった。



一週間のおやすみの後、三月の二週目に紗南先生のピアノ教室は再開された。
…約一ヶ月ぶりに顔を合わせた紗南先生は、やっぱり今までと違うなって実感してしまう。態度がよそよそしいというか…どこか他人行儀だ。レッスンに関してはしっかり予習されたのか今まで通りだったので、余計にそれが際立った。だから余計に胸にきてしまう。レッスン終わりに恒例だったお話の時間もなし。寂しくて寂しくて、肩を落として荷物をまとめて帰ろうとした時。鳴ちゃんが奥のリビングから教室に顔を出してくれた。

「水野さん久しぶりー!これ沖縄のお土産!」

本当は、沖縄から戻ってきた翌日に会っていたけれど、それを紗南先生は知らないから。鳴ちゃんは、努めて明るくそんな言葉で私に毎年恒例の沖縄土産を渡してくれた。

「鳴ちゃん!わざわざありがとう…!」

…我ながら、芝居臭い台詞だとは思ったけど。泣きそうな心情を誤魔化すように、私は鳴ちゃんのファンを演じる。そういう人なのだ、と紗南先生には説明したと鳴ちゃんから聞いていたから。…鳴ちゃんのことを成宮と呼んでいるらしい17歳の先生は、そんな私たちを多分呆れた目で見ていたに違いない。家に帰ってから、「大袈裟だった?」と鳴ちゃんにラインしたら、「ちょっとね」という返事と、焦ったように汗をかく可愛い羊のスタンプが返ってきた。

(…そうだよなぁ…)

今でも鳴ちゃんのファンであることは間違いないけれど…でも私の中で、鳴ちゃんは既に推しじゃなくてご近所の鳴ちゃんになっていて。芝居をしているような、罪悪感を抱く。

(だけど、先生が戻ってきてくれるなら…)

戻ってくるなら、私はなんだってしようと思ったのだ。

ーーまずは紗南が俺を好きになってくれるところから始めなくちゃいけないから、さ。

これからどうするの、という私の問いに鳴ちゃんが言った言葉。ふたりはまだ『夫婦』のスタートラインにすら立っていないから。この状況で家族絡みの付き合いをしていたんだよ、と私たちのことを紹介されても混乱するだけだろうという配慮から、とりあえず私は成宮家から一線を引くことを決めたのだ。遠くから、見守るしかない。

いまの紗南先生の人生に私はいない。
それが、とてつもなく寂しかった。