なんでもする、と決めた私だけれど。そんな私にできることといえば限られている。例えばレッスンの時や近所で顔を合わせた時に先生の様子に変化がないかを探ったり、…あとは、青道生である左月にそれとなく先生の様子を聞いてみたり。

『成宮先生、なんかあった?』

夜の自主練の時間に、左月が電話を掛けてきたのは五月も半ばのことだった。今年の青道は春大を制して、現在は関東大会真っ只中。今年三年生の左月は、一年の秋大以降ベンチ入りして遊撃手のスタメンに定着している。忙しいだろうし、普段自分から絶対連絡なんて寄越さないのに。私が紗南先生の様子を聞きすぎたせいだろうか。電話越しの左月の声は、いつものおちゃらけた雰囲気など微塵もなかった。

「なんで?」
『なんか先生最近帰りによく野球部のグラウンドよく見に来るんだけどさ。…俺のこと"知らない"みたいな態度だから。それにユッキー…いや、同じクラスの吹部のやつも、…先生が変だって言ってたし』
「…そう…」

まだまだ子供だと思っていたけれど左月も意外と聡い。特に彼は青道で紗南先生と顔を合わせることも多かったから、余計に思うところがあるんだろう。でも理由を話すわけにもいかない。鳴ちゃんと約束したのだ。先生の身に起こったことを知っているのは、私も含め今のところほんの一握りの大人たちだけ。子供たちは、巻き込まない。そう決めたから。

「とにかく今は野球に集中しなさい。大事な最後の夏でしょ」
『言われなくてもわかってるっつーの』

私が話を逸らせば、結局最後はいつもの憎まれ口で、通話が終わった。私は真っ暗になったスマホの画面を見つめて、小さく息を吐く。もうこの頃には、なんとなく理解していた。…多分、27歳の紗南先生はもう戻ってこない。でもその事実を認めるのは、難しい。


そんな状況に僅かな変化があったのは、六月の梅雨入り前後だったと思う。紗南先生が、ばっさりと髪を切ったのだ。そしてそれから暫くしてーー先生は、鳴ちゃんと外を出歩くことが増えた。ふたりの仲睦まじい姿が、戻ってきたのだ。相変わらず先生は17歳のままのようだったけれど、それでも鳴ちゃんとスタートラインに立ったような気がした。

「…多分、もう27歳の先生は戻ってこないのよね」

先生が17歳になってから。調整期間のロードワークの帰りに鳴ちゃんが我が家を訪れることが最早恒例になっていた。玄関先で話すこともあれば、リビングに上がってもらうこともある。この日は頂きものの桃があったので、家に上がってもらった。瑞々しいそれを相変わらずダイニングテーブルに対面で座り、ふたりで食す。
話すことと言えば、やはり先生のことだ。
私がそう言えば、鳴ちゃんは小さく「うん」と頷いた。

「…ごめんね、水野さん」
「鳴ちゃんが謝ることじゃないわよ。…先生も悪くない。誰が悪いって話じゃないでしょ…?」

寂しいけれど。…本当に、そうだ。誰が悪いって話じゃない。それにここ最近鳴ちゃんの雰囲気が以前よりも柔らかくなったような気がした。野球の方も、チームの調子が本当にいい。「今年こそは優勝ね」と話を誤魔化せば、鳴ちゃんは「うん」と今度は力強く頷く。

「紗南先生は17歳になっちゃったけど、鳴ちゃんと子供の頃にしたっていう約束は覚えてるんでしょ?」

鳴ちゃんから聞いた昔話。その約束を果たすまではアメリカには行かないと断言した鳴ちゃん。…もし、今年、優勝したら。多分鳴ちゃんはアメリカに行く。なんとなくそれが頭にあったから、聞いてみた。だけど鳴ちゃんは首を振ったのだ。そして困ったような表情を浮かべて頭を掻く。

「27歳の紗南も覚えてなかったから、多分、それはないかな。まあ…あの約束は、俺のエゴみたいな話だからさ。もういいんだ」

穏やかな笑みの中に見え隠れする、ほんの少しの寂しさ。鳴ちゃんの孤独の片鱗に触れたような気がして、胸が締め付けられる。だからといってどうすることも出来ない。結局部外者にできることは、見守ることしか出来ないのだ。



七月の下旬。全国高等学校野球選手権大会予選 西東京大会 決勝。青道高校は惜しくも稲城実業に敗れた。長男、泰右の時もそうだったけれど。最後の夏に勝ちきれないのが、我が家の息子達。試合後、左月は涙を噛み締めながら、応援に来ていた私と旦那に帽子を取って頭を下げた。

「小一から、十二年間、サポート、ありがとう、ございました!」

思えば、三兄弟の中で左月には一番手を焼かされたように思う。中学時代は生意気ばかりが目についたけれど…青道に行って、彼は変わった。そういう意味でも、寮生活をさせて良かったな、と思う。左月がこれから先、野球を続けるのか、それはまだわからないけれど。私はまだまだこの子の為にオニギリを握ってあげよう、と決意を新たにしたのだった。

「さっちゃん」
「…おー」
「…お疲れ様…あともう一歩だったね」
「……ん。ユッキーも応援、ありがと」

私たちへの挨拶が終わった左月の元へ、楽器ケースを背負った女の子が駆け寄ってそんな言葉を掛けた。まさに青春の一幕。

「左月兄ちゃんの彼女?」

私の隣に立っていた央が、尋ねる。この子は、相変わらず自分のペースだ。私が聴けない事をずばり聞いてくれる。

「違ぇよ、同じクラスの友達。江田のカノジョ」
「へー」
「だからカノジョじゃないって」
「カノジョみたいなもんだろー」

敗戦の悔しさを誤魔化すように、左月は意図的に明るい声を出した。…こういう子なのだ。昔から男女問わず、友達が多い。きっとチームでもムードメーカーだったに違いない。江田くんって確か同級生でチームメイトの捕手の子の名前だったよなぁ…なんて思いながら、三年間なかなか触れることが出来なかった左月の高校生活が垣間見えて、私は少し笑みを漏らす。

また、今年も、ほんの少しの後悔を残して夏が終わってしまった。それがやっぱり、とっても悔しい。


そんな風に迎えた夏休みはあっという間に過ぎた。特に今年は、央の受験が控えている。進路は本人がそう宣言したように稲実一択。ハッキリ言って三兄弟の中で一番野球センスを持ち合わせているのは、央だった。野球の実力だけを見れば推薦入学は固い。…問題は、筆記試験である。

「ヒロって頭悪いの?」
「そうなのよ」
「…まあ、良くはないッス」

この日は、央の進路相談も兼ねて、私と鳴ちゃんと央でダイニングテーブルを囲んでいた。普段私の小言には「うざ…」と顔を顰めるくせに、鳴ちゃんの前では随分素直だ。

「自分でそれがわかってるんだったら、まあ頑張るしかないよね」
「そうッスね」
「俺も央には期待してるんだからさ」
「…はい。ありがとございます」

央は、息子たちの中で唯一の投手だ。同じポジションだからこその鳴ちゃんの言葉。央はその言葉に照れたように頬を掻き、頭を下げた。やっぱり相変わらず鳴ちゃんの前では、礼儀正しい。

「こないだ白河に久々に会ったからさ、ヒロのこと勧めといたよ」
「えっやだ、鳴ちゃん、そんなことしてくれたの?」
「まあチラッとね」

それって不正になるのではないか、と心配になるけれど。決勝の神宮球場で白河コーチと顔を合わせた時に私も央のことを話していたから他人のこと言えない。コーチは野球部専任の国友監督とは違い、稲実の先生でもあり、長男 泰右の三年生時の担任だった。大学でも野球を続けたいと希望した泰右に親身になって進路相談を重ねてくれたのが印象深い。ちょっと愛想のないクールな人だけれど、信頼は厚い。

「俺が出来ることはなんでもやるよ」
「鳴ちゃん…」
「水野家は俺の推しだからね」

歯を見せて無邪気に笑うその笑顔に。私は泣きそうになる。

「鳴ちゃんも推しって言葉使うんスね」
「ファンって意味でしょ?後輩にオタクがいるからよく使ってたんだよねー」

そんな央と鳴ちゃんの会話を聞きながら、誤魔化すように鼻を啜った。推しに推されてるなんて。こんな幸せなことがあるだろうか。四年前、テレビで彼を見るばかりだった私に教えてあげたって、きっと信じないだろう。それほどまでに、信じられない現実。だけどそれは確かに私たちの四年間の、軌跡。ーーそんな、私たちが歩んできたその道にはもう戻れなくて、先にも進むことが出来なくなって、やっぱり寂しい気持ちが胸を占めるけれど。だけど、先生も鳴ちゃんも新しい道を歩んでいるから。…私も、前を向かなくちゃって、思うのだ。



九月に入って、鳴ちゃんの所属する球団にマジックが点灯した。紗南先生の姿を私のパート勤めしているスーパーで見かけたのは、そんな折だ。その時は、珍しく荷物持ち要員で央も一緒だった。

「紗南先生」

私の声に振り返った先生は、頭を下げた。

「こんにちは、水野さん」
「こんにちは。ほら、アンタも挨拶!」
「…っス、」

隣に立つ央の横腹を突く。央は少し鬱陶しそうにして、それから先生に小さく頭を下げた。まあ思春期だから仕方ない。…紗南先生達が引っ越してきたばかりの頃は、まだ小学生だったからか央は今よりも少しばかり人懐っこくて。先生と鳴ちゃんには随分構ってもらっていたんだけど…それを勿論今の先生が知るはずもない。胸に感じる喪失感を誤魔化すように、話を進めた。
聞けば先生は青道の文化祭に行ってきた帰りらしい。私も明日行くつもりだ。でも先生は次男の左月のことを"知らない"ので、それは伝えなかった。
なんとなくそんな風に世間話を始めて、五分ぐらいだろうか。央が「俺、あっち行ってる」と話の輪から抜けた。その際に、央は律儀にも紗南先生に「成宮選手に頑張ってくださいってお伝えください」って言って頭を下げたのだ。ちょっと驚いた。
それから、話題は央の受験のことを経て、鳴ちゃんの所属する球団の話へと変わる。

「いつも本当に応援ありがとうございます」

紗南先生のその言葉に。思い出すのは、新緑の季節、ふたりで西国分寺から乗った電車の中の会話。懐かしい日々。成宮鳴も御幸一也も自分にとってはただの『野球馬鹿』だと笑った紗南先生。いま、目の前に立つ彼女は、やっぱりあの時とはーー少し、違うけれど。それでも、伝えたい思いは変わらない。

「鳴ちゃんが高校生の頃から見守ってるけど、やっぱり結婚してからは特に頼もしくなったなぁって思ってるんですよ」

ーー…巻き込んでごめんね、水野さん。でも、紗南のこと、これから見守って欲しいんだ。

そう言って私に頭を下げた鳴ちゃんの姿が、思い浮かぶ。

「紗南先生の内助の功ね」

出会った時から、鳴ちゃんは高校生の時に比べてだいぶ落ち着いた大人だったけれど…それはきっと今までの紗南先生が居たからだ。そう思う。鳴ちゃんの奥さんが、紗南先生で良かった。そんな思いを込めて、言葉を紡いだ。…もう、戻ってこない今までの先生に向けた、餞の言葉。そして今の先生に向けた、エール。

「…そうでしょうか…」
「そうよ!だからずっと今の球団で頑張ってるんじゃないの?」

ーー紗南とね、子供のころに約束したの。俺が今の球団にドラフト一位で入団して、万年Bクラスのチームを優勝させるって。だからそれを叶えるまでは…アメリカには行かないよ

ーー 27歳の紗南も覚えてなかったから、多分、それはないかな。まあ…あの約束は、俺のエゴみたいな話だからさ。もういいんだ。

鳴ちゃんはそう言ったけど。でもやっぱり可能性があるなら、私は今の先生にその約束を思い出してもらいたいって。そう思ったのだ。それがふたりにとってどんな意味を持つのか、明確には理解らないけれど。
先生が忘れてることを鳴ちゃんが悲しんでる
事実。それを知ってるのは、きっと私だけだから。

「え…?」
「あら、だって約束したんでしょう?」

ーー先生、なにかあったらこれからも私が手助けしますからね

私だって貴方と約束を交わしたから。
だから、そんな私の言葉が、ふたりのキッカケになったらいいなって。
そう思ったのよ、先生。



結局、紗南先生が鳴ちゃんとの約束を思い出したのかはよくわからない。ただ、あの言葉の直後すぐに話を切り上げた先生の様子を見る限りーー…もしかしてちょっとは役に立てたのかなと思うのだ。自己満足かもしれないけど。
騒ぐ胸を抑えるように、央を探せば、彼はレジ横の雑誌コーナーで立ち読み中。声を掛ければ「長話終わった?」と呆れた様子で振り返った。

「ごめん、ごめん。お待たせ」
「…紗南先生は?」
「帰られたわよ」
「…ふーん」

そこでふっと思い出すのは、央の「成宮選手に頑張ってくださいってお伝えください」って言葉。

「なんで鳴ちゃんって呼ばなかったの?」

央は鳴ちゃんのことをいつもそう呼んでた。小さい頃からの呼び名だし、鳴ちゃんも紗南先生もそれでいいって言ったからずっと変えずにいたのだ。時折成宮選手と呼ぶときもあったけれど…それは、だいたい鳴ちゃんと兄弟のようにふざけている時。だから疑問には、思ったのだ。そんな私の問い掛けに、央は暫く黙り込んで……そしてゆっくりと口を開いた。

「…だって、紗南先生、忘れちゃったんでしょ。俺たちのこと」
「……それ…鳴ちゃんに、聞いたの…?」
「…べつに、なんとなく。左月兄ちゃんもそう言ってたし。…鳴ちゃんが家に来るようになってから、先生やっぱり少し変わったし。……俺にだって、それぐらい、わかる」
「央…」
「……寂しいね」

もう随分前に、見上げる形になってしまった央の顔。私より高い位置にある瞳が、悲しげに揺れている。…大きくなったと思ったけれど。それでも、やっぱりまだまだ子供で。でも私たち大人が全てを隠し通せるほど愚かではなくて。大人と子供の境界線。その線のちょうど上に立っているだろう央のその表情は、私の知らない顔だった。

「…寂しいね」

ぽっかりと空いた心の穴。央の言葉を追いかけるように同じ言葉を呟いた。センチメンタルな気分に、似つかわしくないスーパーの陽気なBGM。

「今日はカレーにしようか。央が大好きなカレー」
「……いいけど。人参は入れないで」
「えー、美味しいじゃない、カレーの人参」

なんて何気ない言葉を交わしながら、お互いの喪失感を拭い去るように。私は久しぶりに央の背中に触れた。化繊越しに感じる、ゴツゴツとした筋。大きくなったなぁって改めて思う。背中を撫でるのなんて、何年ぶりだろう。思春期の息子に人前ですることではないのかもしれないけれど。今はこうしてあげたかった。とんだ自己満足。

それでも央は、そんな私の掌を嫌がらず、何も言わず、ただそれを受け入れてくれたのだった。