十月の半ば。鳴ちゃんがついに今まで届かなかった栄光を手に入れた。その後の日本シリーズは惜しくも負けてしまったけれど…でも長年の夢を、約束を叶えた鳴ちゃんの顔はどこか晴れやかで。良かったなぁと思うのだ。

「おい、こんなにスポーツ新聞買ってきたのか?!」
「勿論」

そのニュースが飛び込んできたのは、日本シリーズで九州の球団が勝利して数日後。翌日、私はパート終わりに自転車をかっ飛ばしてコンビニを梯子した。売られている全てのスポーツ紙の夕刊を買い占め帰宅したら、既に仕事から帰ってきていた旦那にギョッとした顔が私の腕の中の新聞紙を見る。呆れたような表情をしているけれど、今となっては旦那もまたこのニュースに大喜びしているのだ。まったく素直じゃない。

「アイツもいよいよだなぁ」
「そうよ、いよいよなの」
「お前、今度はアメリカまで見に行きたいって言うなよ」
「その時は自分のお金でひとりで行くわよ」

だって私の推しだもの。
『成宮(プリンス)アメリカ挑戦』なんて見出しがデカデカと掲載された新聞紙を胸の中でぎゅっと抱きしめて、私はふふふっと頬をゆるゆると緩ませるのだった。


それから更に、数日後。
怒涛のメディア出演で忙しいだろう鳴ちゃんが我が家を訪れた。春先から夏頃までは頻繁だったその回数も徐々に減っていき、夏を越えてからはシーズン終盤ということで殆どなかった来訪。ーーその事実は、鳴ちゃんと紗南先生の関係性の修復、そして最構築を意味していた。

「今度、紗南のためのサプライズパーティー企画してるんだよね」
「サプライズパーティー?」
「うん。俺の壮行会も兼ねて」

どうやら主役自ら企画したらしい。鳴ちゃんらしくてちょっと笑みが溢れる。

「水野さん、来てね」
「…行ってもいいの?」
「勿論。泰右は難しいかもしれないけど、ヒロも左月も一緒に」

絶対来てよね、と念を押す鳴ちゃんの言葉に。私は涙を堪えながら、うんうんと大きく頷いた。出会ってからの四年間で、推しはご近所さんになって、そして私たちは気づけば彼らの推しになっていたという、夢物語みたいな本当の話。
そして思い出すのは、去年の今頃。ピアノの発表会。キラキラと輝くステージ。乙女の祈り。旦那と息子達が渡してくれた花束。先生と交わした約束。私の小さな勲章。
それはきっとこれからも、いつまでも光り輝くのだろう。

鳴ちゃんと紗南先生と出会って一緒に迎える四度目の冬。そして、多分これが最後の冬だ。


▼▼▼

鳴ちゃんが企画したサプライズパーティーの場所は、紗南先生が大学生の時にアルバイトしていたという洋食屋さん。入店した瞬間広いなぁと感じたお店も、集まった人数が人数だからか、鳴ちゃんが先生を連れてくることになっている時間を迎える頃には、まあまあ大賑わいという感じだった。ピアノ教室の子供たち。鳴ちゃんのご家族、ご親族。先生のご両親。青道高校吹奏楽部の生徒たちと紗南先生の同級生であるOB、OGの皆さん。そして、御幸選手の姿。その姿に、興奮したのは、左月だ。左月は昔から鳴ちゃんよりも御幸選手派だった。

「みゆかずがいる!!!」
「……水野くん、一応野球部の大先輩だからね?」
「いや、礼ちゃん、大丈夫」

呆れた高島先生が左月を注意したけれど、御幸選手はあまり気にしてないようだった。めちゃくちゃ愛想がいいわけではないけれど、それでも左月が差し出した手を拒むことなく、握手。あまりファンサービスをするイメージがなかったものだからその行動には驚いた…なんて言ったら御幸選手に失礼だろうか。

「鳴から聞いてる。青道卒業したら春から社会人野球なんだって?」
「そうっス!」
「頑張れよ」
「あざーッス!!」

左月は直角に頭を下げた。そのまま図々しくも写真を一緒に撮ってもらいご満悦の表情。はらはらしながらことの成り行きを見守っていた私が申し訳ない思いで頭を下げれば、御幸選手は「大丈夫です」とだけ。やっぱり愛想はないけれど。

(…イケメンだわ…)

それだけは間違いない。…この人が紗南先生の幼馴染で、そして先生が好きだった人。そんな御幸選手の一歩後ろに寄り添うように立っている赤ちゃんを抱いた女性。それは、いつかの夏、先生とコーヒーショップに居た彼女だった。まさに美男美女。去年の秋に結婚した御幸選手に子供が産まれたというニュースは知っていたけれど。まさかこうして対面できるとは思わなかったなぁ…改めて、鳴ちゃんと出会って私たちの人生が変わったことを実感する。

「央はいいの?」

三男にこそっと耳打ちすれば、「後で鳴ちゃんと三人で撮ってもらう」と一番図々しい答えが返ってきた。さすが三男。ことの旨みを知っている。そしてそれを鳴ちゃんは断らないだろう。だからこそ末恐ろしい。きっとこの子は、大物になるだろうな、と感心してしまった。

そんな風に各々過ごしていた私たち。一瞬にして静かになったのは、店の前に"誰か"が立ったとわかったからだ。みんな顔を見合わせて、口を噤む。そしてーー。

「サプラーイズ!!!」

吹奏楽部の子たちから、そんな声が飛び出した。お店の入り口に立ち、驚いた表情で店内を見渡す紗南先生の姿。そんな彼女に寄り添う鳴ちゃんの姿。…私がもう一度見たいって願ってたその姿がそこにあった。それを見るとやっぱり私の涙腺は緩んでしまって。…今年一年間は、ずっとこんなふうにして涙を溢すことが多かった気がする。
先生とご両親の再会を見ながら、私はポロリと頬を伝った涙をハンカチで拭った。


そんな風に始まったサプライズパーティーは、笑いあり涙あり。特に感動したのは、吹奏楽部の子たちによる演奏だ。二十年以上前のJ-POP。聞きなれたメロディーは私の青春時代によく耳にしたもので、私も思わず口ずさむ。改めて聞くと改めていい曲だなぁって実感する。
それから、鳴ちゃんが紗南先生にリクエストしたサウスポー。
思い出すのは、彼が私の推しになったあの夏。
照りつける夏の日差し。息子たちをそれぞれ小学校と幼稚園、それから義母をデイサービスへ送り出して一息つく暇もなく家の仕事。そんな毎日。いつまでも終わらないと思っていた激動の日々。その中で、出会った私の推し。背番号一番の、小さな背中。
あの当時、画面越しでしか見ることが出来なかった彼は今、愛すべき奥さんの演奏するトランペットの音色を聞いて、頬を緩ませている。
ーー幸せそう。
それだけで、良かったなって思うのだ。

ーー…神様がね、強欲な俺に与えた罰なんだろうなぁって思う。

鳴ちゃんはそう言ったけど。
そんな罰さえも乗り越えた彼はやっぱり強い。

貴方はずっと私の推し。
キラキラ輝く、夏の宝物。
どうかアメリカに行っても、頑張ってね。
そんな思いを胸に、私は鳴ちゃんの姿を目に焼き付けるのだった。


稲実コーチの白河先生が顔を出したのは宴の途中のことだ。なんと千葉の神谷選手も一緒。それと鳴ちゃんが三年の時にバッテリーを組んでいた後輩の多田野くんの姿。遅れてやってきた彼らに大興奮したのは、勿論次世代の『野球馬鹿』達。

央はそう宣言したように鳴ちゃんと御幸選手と一緒に写真を撮って貰い、左月は社会人野球で活躍している多田野くんの話を珍しく真剣に聞いている。私はそんな息子ふたりの姿を少し離れた場所から微笑ましく見守っていた。

「水野さん」

その時。本日の主役である紗南先生に声を掛けられた。まさか先生の方からこうしてやって来てくれるなんて思ってもみなくて、少しドキドキする。

「紗南先生」
「ずっと水野さんとお話したかったんですけど、遅くなってしまってごめんなさい」
「いいんですよ。先生、主役なんですから」

先生はとにかくずっと色んな人たちと話をしていた。これだけの人数が先生の為に集まってくれたし、時間も限られているのだから、優先順位というものがあるのは理解している。だから私は紗南先生の言葉に首を振った。今の先生にとって私という存在は、月に数回ピアノのレッスンで顔を合わせる生徒で、鳴ちゃんファンの主婦。それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから仕方ない。そう思って、いたのだけれど。

「……夏前に、日記を見つけたんです」
「日記?」
「はい。…今までの私が、書いてた日記」

その口振りから、先生が「みんなが自分の事情を知っている」と悟ったらしいことを知る。…鳴ちゃんが人知れず裏で行動してたこと。それを紗南先生は理解したのだろう。それだけで鳴ちゃんが報われたような気がして、こちらまで嬉しくなった。……と、まあ、それは横に置いておいて。今は「日記」の話だ。私は確かめるようにその言葉を呟いた。

「日記…」
「そうです。…そこには、色んなことが書いてありました。私の知らない十年間のこと。殆どが、主人のことでしたけど……私たちが結婚して今の家に引っ越して来てからは…水野家のことが、…たくさん、書いてあって」
「えっ!?」

突然自分たち家族のことを言及されて、驚きの声が出てしまう。

「…今までの私にとって、水野家が…水野さんが憧れだったってこと。水野さんが私の生徒さん第一号ってことだったり…、旦那さんのことも泰右くんのことも左月くんのことも、央くんのことも、…家族絡みの付き合いだったってこと。全部、書いてありました」
「……そう、なの…」
「私がそれを知らなかったとはいえ…水野さんには、…随分悲しい思いをさせてしまったんじゃないかって…思って…」
「…っ、」

紗南先生の手が、私の両手を包み込んだ。白くて柔らかくて、いつもスラスラと鍵盤を弾いていたその掌。私の憧れ。うまく言葉が出てこない。先生の顔をジッと見つめる。先生の瞳もまた、私の顔を見る。

「ここから…また、はじめてもいいですか…?」
「勿論…!!勿論ですよ!」
「…良かった」

先生のホッと安堵した声と表情。私はやっぱりまたジワジワと涙を浮かべるものだから、視界に映る全てが滲んだ。

「私も、水野さんみたいに綺麗なオニギリを握れるようになりたいって思うんです」

ーー私も、水野さんみたいなオニギリを握るお母さんになりたいって、ようやく思ったんです

言葉こそ、違う。だけどやっぱり紗南先生は、紗南先生なのだ。そう実感する。彼女が私の苦悩も心配も悲しみも知らないように、私もまた先生のそれを知らない。だけどまた出会えた。お別れはすぐそこだけど。すぐに遠く離れてしまうけれど。それでも、もう大丈夫だ。
私は家でピアノを弾くたびに、きっと紗南先生を思い出すだろう。
そして紗南先生は、きっとオニギリを握るたびに、きっと私を思い出す。
それだけで、よかった。


▼▼▼


「すげえオニギリの数」
「これ全部鳴ちゃんと紗南先生に渡すらしいよ」
「マジで!?…母ちゃんさあ、鳴さん絶対飛行機ファーストクラスだって。そうじゃなくても機内食もあるし、ナマモノは逆に迷惑」
「…そうかしら…」

カウンターに並ぶ綺麗な三角形。アルミホイルがぴかぴか光る。それを腕組して呆れたように見つめているのは、佐月と央だ。私が首を傾げれば、盛大に溜息を吐かれた。…一丁前になったなぁと思う。多分今までだったら「ムカつく」と拳をつくっていただろうけれど。佐月の言うことも、もっともだなぁ…と納得してちょっとがっくり。朝から頑張ってご飯を炊いて、たくさん握ったのに…。

「ひとつふたつ渡せばいいんじゃないの」
「あとは全部俺たちが食うからさぁ」
「…食べてくれるの?」
「食べる、食べる。あとで兄ちゃんと央と三人でキャッチボールしにいくから。補食にちょーどいい」

佐月のこちらに気を遣うような言葉と、それに同調するように頷く央の姿。

ーー子供の面倒見るのが母親の役目だろ!
ーー……まだ眠い…

ふっと思い出した四年前の光景とはまったく違う。…大人になったなぁと、思う。それがちょっとばかり誇らしい。私がなにをしたっていうわけでもないけれど。それでも、成長が垣間見えて嬉しかった。

「やっぱり母ちゃんのオニギリってすげぇ綺麗だよな」

ーー私の手って、いつもオニギリを握ってる
いつだって浮かんで消えた、そんな自虐的な言葉。だけど今は私の誇り。もう暫く続くと思っていたその役割も、もうあと少しで終わり。佐月も就職で家を出るし、央も稲実の寮に入る。これで握り納め。だから沢山握っていたかったのかも。案外オニギリに未練があるのは、…私の方なのだ。

「お父さんが定年したら、オニギリ屋さんでも開こうかな」

私がぽつりと呟いた思いつきでしかないそんな言葉にも、息子たちは「いいじゃん」って笑うから。なんだかその気になってしまう。
メジャーリーグに挑戦する鳴ちゃんを支えるために渡米することを決めた紗南先生。ピアノ教室は無期限でお休みだ。仕方ない。新しい教室を探そうかなと思ってはいるものの、なんだか腰が重たくて行動に移せていなかった。
毎年オフシーズンには先生だけでも帰国してくれるらしい。だから、その時に教えてもらうぐらいでいいかなって思っている。だって上達よりも『演奏を楽しむ』っていうのが、私が紗南先生と一番最初に決めたテーマだったから。
ピアノを弾けるようになることは勿論私の密かな憧れで夢だったけど、…それは、思い返してみれば紗南先生のピアノ教室だったから。だから続けられたのだ。

「ただいまー」
「帰ったぞ!見送り準備出来てるかぁ?」

長男の泰右を大学の寮まで迎えに行っていた旦那が帰ってきた。玄関から声が聞こえる。今日は鳴ちゃんと紗南先生の旅立ちの日。勿論、準備は万端だ。保冷機能つきのミニバッグに央が提案したように、オニギリをふたつだけ詰めた。綺麗な三角形のそれ。新天地でも頑張ってねって気持ちを込めて握ったオニギリ。大好きな大好きな推しに、捧げる私の誇り。

「さあ!笑顔で!見送ろうね!」

そんな言葉とともに、佐月と央の背を叩いた。三人で玄関へと向かう。
リビングの扉を閉める瞬間。壁際に置いた電子ピアノを視界の端が捉えた。その上に飾ってあるのは、発表会の時の写真と年末のサプライズパーティーの時の写真。そのどちらも紗南先生と映ったものだ。

ーー私の手は、綺麗なオニギリだって握れるし、ピアノだって弾ける

これからの人生。きっとその言葉が、幾度となく浮かぶんだろう。
大事な宝物を箱の中にしまうように、パタリ、と後ろ手に扉を閉じて。
私はフフフと嬉しさを噛みしめるように、笑うのだ。

(了)