名もない痕ばかり

「………なに、それ。新手の嫌がらせ?」

成宮の硬い声が嫌な沈黙を破った。相変わらず彼の手は私の左肩を掴んでいる。私はゆっくりと首を横に振った。
嫌がらせという言葉の意味が、よくわからなかった。

成宮鳴。
小学校時代からの顔見知り。
野球を通じて、一也を通じて、出会った男。
私のことが、嫌いな男。
成宮と一也は仲が良かった。違うチームだけれど、会えばいつも野球の話をして楽しそうにお喋りしてた。
私はその瞬間を間近で見てたから、知ってる。

試合が終わると私はいつも一番に一也を出迎えてた。
お疲れ様、今日も凄かったね!
そんな言葉で彼を褒め称えた。
だって本当に凄く格好良かったから。

一也が成宮に初めて声をかけられた日。
あの日も私は一也にぴったりとくっついて傍にいた。その次に成宮が声をかけてきた日も。その次も、その次の日も。
だから多分、成宮は気に入らなかったんだと思う。
彼の目は私を見透かしてた。
お前が好きなのは野球じゃなくて一也だろって。
そう言ってた。
…まあ、図星だから、仕方ないけど。
そんな風に成宮が一也に声をかける度。仲良くなっていく度。
私と成宮の距離は、その度に離れて、拗れて、そして修正が効かなくなった。

決定打は、一也が成宮の誘いを断って青道に進んだこと。そして私も一也の後を追うように青道に進んだこと。

嫌がらせ、なんて。
どの口が言うんだろう。
いつも酷いことを言ってきたのは、成宮のほうだ。

目の前に立つ成宮が私の顔をジッと見下ろしている。
底が知れない、彼の青。
こんなに間近で、私は成宮を見たことがなかった。
睫毛まで色素が薄い。
パシパシと成宮が何度か瞬きをする。
そして、

「…ま、いいけど!ねえ、とりあえず荷物運ぶの手伝ってよ」

場にそぐわない明るい声。成宮はニコッと笑って私の肩から手をそっと離す。それから後ろに置いてあったトランクケースを廊下の板張りに「よいしょっ」と持ち上げ横向きに置いた。そのまま靴を脱いで家に上がる。

「そこの紙袋、お土産だから。俺の実家と紗南の実家用。あと頼まれてたやつ。教室の生徒さんにあげるっていう。それも買ってきたよ」

玄関のタイルに置きっぱなしにされていた紙袋は二袋。カラフルな南国風のカラーリングにローマ字でOKINAWAの文字。
棒立ちのままのそれをジッと見つめていた。私はやっぱり動けない。
唇がひっついて離れない。喉が乾いて言葉が出ない。聞きたいことが沢山ある。

「…ねえ、いつまでそうしてんの」

成宮の苛ついた声が、また戻ってきた。
私はびくりと肩を揺らす。
黙っていたい。
でも、黙ってるわけにはいかない。
ゆっくりと、口を開く。

「成宮、」
「………なに」
「ここは、成宮の家?」

辛うじて言葉に出来た質問は、そのひとつだけだった。怖くて背後を振り向くことが出来ない。成宮がジッと私を見ていることはわかった。また重い沈黙が訪れる。

「そうだよ」

成宮が、口を開いた。
事実を淡々と述べる冷静な口振りだった。

「私は、なんで、ここにいるの」
「……それ、本気で言ってる?」

空気が揺らぐ。
怒ってる。成宮が怒ってる。
顔を見なくても、わかる。
だから、消え入りそうなほど小さな声で呟いた。私が言えること。
私が、わかっていること。

「……私、ここがどこか、わからない。成宮が、どうしてここにいるのかも、わからない」
「……なんで?」
「昨日…」
「うん」
「秋大の応援から帰ってきて、家に着いて、自分の部屋で寝たの。そこまでは、覚えてるの。……それで…それから……起きたら、ここにいた」
「……秋大って」
「一也が、…青道が、優勝したでしょ…?」

成宮も昨日あの場所にいたじゃない。
見ていたじゃない。
胸を焦がした激闘を。
一也が空を掴むように振り上げたガッツポーズを。

「…つまり、今の紗南は、高校二年生の秋大までの記憶しかないの?」

成宮の言葉に、私はついに振り返った。
までって、どういうことなの?
今日は昨日の続きじゃないの?
いったい、
いったい「今日」は、いつなの?
浮かんでは消える疑問の数々。
目に飛び込んできたのは、こちらを見下ろすように立っていた成宮の困惑した表情だった。明るいブルーの瞳の中に、泣きそうな顔をした私の姿が映っている。

「……いまは、いつなの…?」

そんな質問をすれば、成宮の喉がごくりと動いた。またしばらくの沈黙。それからゆっくりと、そのふっくらとした唇が開く。
告げられた西暦。
理解できない。
理解できるわけがない。
ふっと全身の血圧が一気下がったような、そんな、感覚。目の前が真っ暗になる。思わず、足の力が抜けた。

「ちょっと!」

成宮が咄嗟に私の腕を掴み、叱咤する。
相変わらず反射神経がいい。
私は成宮に身体を支えられながら、震える声で呟いた。

「……じゅうねん、経ってるの…?」
「…そうだよ。俺たちは27になった」
「うそ…」
「ほんと」

成宮も混乱しているのだろう。
私の身体を支えながら、その明るい髪をガシガシと右手で掻き毟った。
それから重たい溜息を漏らす。

「…じゃあ、今の紗南は17ってこと?」
「……うん」
「そう」

記憶喪失
そんな言葉が、脳裏を過ぎる。
目の前の成宮の頭にもきっと同じ単語が浮かんでいるに違いない。
だけど私は、私自身は、それとは少し違うような、そんな気がしていた。

朝から学校に行き、楽器のチューニングをして、部長として部員に指示を出し、楽器を積み込んで神宮球場に向かい、スタンドでまたチューニング、試合開始を待ち、声を、音を出して、メロディーに乗せて、選手たちを応援して、一也のヒッティングテーマを吹いて、九回表の逆転劇に身を震わせ、試合後の一也の様子を見ていてもたってもいられなくなって、病院に行く一也に声をかけて、成宮を見かけて、片岡先生が胴上げされているのをみんなでわあわあと囃し立てて、学校に戻って、顧問と週明けの打ち合わせをして、電車に乗って、一也にメールを返して、家に帰って、誰もいなくて、着替えて、ベッドに倒れ込んで、そして眠った。

そんな、「昨日」という日。
そして、目覚めたら十年後の「今日」。
「昨日」と「今日」が、繋がってしまった。
私は17歳のまま、「今日」に飛んでしまった。

「…スキップ、したみたい」
「……スキップ?」

ポツリと呟いた言葉に、成宮は整った眉を持ち上げる。眉間に寄る皺。
こういう表情は、十年経ってもあまり変わらないものなんだな、と。そんなことを考えるどこか冷静な自分がいた。
成宮は私を前にするとよくこんな顔をしてた。まるで「なに馬鹿なこと言ってるんだ」とでも言うように、一也と話す私を馬鹿にしてた。きっと今もそうなんだろう。
なんだか悲しくなってくる。
なんで「今日」に来て、一番初めに出会ったのが成宮なんだろう。
どうして、一也じゃないんだろう。

成宮はさっきここが自分の家だと言った。
そう考えると二階の本棚に置いてあった野球関連の本も肯ける。
でもじゃあ、どうしてその本が、私の本棚に並んでいたんだろう。
そんな疑問を抱くのは、当然のこと。

どうして成宮って呼ぶ度に悲しそうな顔するの。
どうしてピアノがあるの。
どうしてお皿がふたつずつあるの。
どうして私の足に馴染む靴があるの。

「どうして、わたしは、ここにいるの…?」

さっきと同じ質問。
でも成宮にとっては違う。私の意図がようやくわかる。わかるから、また、悲しそうな顔をする。こんな成宮の顔、今まで見たことなかった。

「俺たち、結婚してるから」

成宮はそう言って、私に左手の甲を見せた。その薬指の根元でキラリと光るのはシルバーリング。いつも白球を握っていたその左手に、指輪。

「けっこん…」
「うん」
「けっこん…?」
「そうだよ」
「私と、成宮が?結婚…?」
「〜〜〜っ、だ・か・ら!そうだって言ってんじゃん!自分の左手見てみろ!」

何度も確認されたことで、いつもの調子が戻ってきたらしい。我儘な子供が地団駄を踏むときのような声。徐に私の左手を掴み、ぐいっ、と顔の目の前へ。今まで気がつかなかったけれど、そこには確かに成宮とお揃いの銀色。

「成宮って私のこと嫌いだと思ってた」

思わず口から出た言葉。
成宮がグッと喉を鳴らす。
どうやら図星らしい。
というか、気付かれていないとでも思っていたんだろうか。
会うたびに嫌味ばかりを口にしていたというのに。

「…17歳 の紗南は嫌いだったよ」

成宮はそう言って、私の頭を撫でた。
まるでそれが当然で、いつもそうしているかのように。
言葉と行動がチグハグだよ、成宮。
酷いことを言われてるはずなのに、その手は優しい。

「…ッ、」

思春期を迎えてから、異性にこんなことをしてもらったことがない私は思わず赤面してしまった。顔から火が出るほど恥ずかしい。
…相手は、あの成宮なのに。
そして当の本人は私の態度にニヤニヤと笑っていた。
こういうところ、変わってないと思う。

成宮は改めて私の顔を覗き込む。

「…とりあえずさあ」
「……うん」
「落ち着いて話したいから、靴脱いであがってよ」
「………うん」

今度は成宮の言葉に素直に従った。
…従うしか、なかった。
私がもたもたと靴を脱いでる間に、成宮はタイルに置きっぱなしだった紙袋を廊下に引き上げ、それから慣れた様子で下駄箱からウエスを取り出してトランクケースのキャスターを拭いていく。

「沖縄、行ってたの?」
「うん」
「どうして?」
「…それ聞いちゃう?」
「…うん、ごめん」
「ま、いいけど。2月だよ?沖縄だよ?」
「………春季キャンプ…?」
「そ、せいかーい」

私が今持っている情報の全てを加味して答えを出せば、成宮はニシシと笑った。
まあつまりそういうこと。

「プロになったんだ」
「俺がプロにならなくてどうすんのさ」

相変わらずの自信満々。
キャスターを拭き終わった成宮は紙袋だけを持って立ち上がり、こっちだよ、と私の手を引いた。とりあえずトランクケースはそのまま玄関に置いておくらしい。
パチン、パチン、と。薄暗い廊下に電気をつけて、私が立ち入れなかった奥へと何の迷いもなく進んでいく。繋がれた手は、硬い。まるで逃げてはいけないと言われているような、そんな気持ちになる。

「…それで、起きたらここにいたって言うけど。どの部屋にいた?」
「二階の、私の、本棚が置いてある部屋」
「ふうん。他の部屋は見て回ったの?」
「…ピアノの部屋と、台所」
「お前らしいね」
「え?」
「大体いつもそのどこかにいるから」

成宮に連れられて辿り着いた廊下の奥。
扉を開けば、そこはリビングルームだった。
右手側に大きな窓、対面にも出窓。夕陽が差し込んだ部屋は橙色に溶けている。
成宮が部屋に電気をつけ、カーテンをしめた。
これでようやく部屋の全貌がしっかりとわかる。
大型の薄型液晶テレビに、L字に配置された皮張りのソファー。木目調のローテーブル。全体的に落ち着いた色で纏まっているインテリア。
ピアノの部屋もキッチンもそうだったけれど、一階はどうやら全体的にリフォームされているらしい。

「そこ座って待ってて」
「うん」

成宮はソファーを指差す。私は頷いた。
するりと解ける掌。成宮はそのままズボンのポケットに手を突っ込んで何か取り出し、操作しながら左手側にある扉からリビングを出て行く。

(あれってスマートフォン…?)

「昨日」までの世界で、それを持っていた子は周りに殆どいなかった。
大体みんな、折りたたみ携帯だ。……「今」の私も、持っているんだろうか、スマートフォン。

10年。
言葉にすると、軽い。
でも確実に時計の針は進んでいる。
些細なことで、それを思い知らされる。
ソファーの隅に腰を下ろして、部屋をぐるりと見渡した。

成宮が、結婚。
私と、結婚。
つまりこの「家」で、私たちは暮らしている。

ふたり暮らしには広すぎるように感じる古い造りの「家」。ピアノの部屋。聞きたいことが沢山ある。

「あ、」

思わず口端から母音が漏れた。
目に止まったのは、探していた写真立て。「昨日」まで本棚に飾ってあったそれ。今はテレビ横の棚の上に鎮座している。
立ち上がって、近づいて、手に取った。
懐かしい、とはまだ言えない顔ぶれが並んでいる。また明日ねと言葉を交わしたのはつい「昨日」のこと。

(ゆっこたちのお誘い、断らなきゃよかったな)

後悔ばかりが、胸を占める。
そんなことを考えながら、硝子越しの私の横に並んだ優子の顔を親指で撫ぜた。そして、ゆっくりと元あった場所に戻す。棚の上には他にも幾つか写真立てが並んでいた。デザインに統一性はない。多分その時いいと思ったものを購入して飾ったに違いない。私はそういうところがある。自分のことだからよく理解ってる。

「……これ」

震えた指先を思わず引っ込めた。
シンプルなデザインは、中に飾られた写真を引き立たせる為だろうか。

満面の笑みで仲睦まじげに並んでいる、私と成宮。お互いに身を包むのは、純白。

けっこんしき

浮かんで、そして、消えない六文字。
焼き付くような、痛み。
私が成宮の隣で笑ってる。
成宮も私の隣で笑ってる。

「それ、いい写真だろ?」

いつの間にかリビングに戻ってきていた成宮が、私に声をかけた。
手にはふたつのマグカップが乗ったトレイ。ソファーに座るように促され、私はまた大人しく従う。目の前のローテーブルに置かれたマグカップ。温かそうな湯気。甘い匂い。ココアだった。

「……成宮って家事できるんだ」

さっきの成宮の問いへの返答を誤魔化すようにそんな言葉を呟く。
マグカップを手に持って、ふうふうと息を吐いた。
ちびちびと舐めるように味わう。美味しい。
成宮はそんな私の様子を、向かい斜め左に座ってじーっと観察していた。
ただ、私の言葉には多少ムッとしたらしい。唇を尖らせる。

「自分で出来ることは自分でやれって言ったのは紗南だろ」
「…そう」

そんなこと成宮に言ったの。
当然「今」の私はそのやりとりを知るはずもない。
成宮はこの状況に対して、きっと半信半疑なんだと思う。
だから今まで通りに接しようとしてるのだ。
私を見つめる成宮の瞳が怖い。
私はまた逃げるように、彼に問いかけた。

「いつ結婚したの?」
「22。紗南が大学卒業してすぐ」
「……五年前?」
「そーだよ」

驚いたのは、私が空白期間の半分を成宮と過ごしていたという事実。
しかし、その直後。
さらなる爆弾。

「…それで…」
「なに」
「私たち、いつから付き合ってるの」
「……高3の12月」
「えっ、は、…い…?」
「…絶対嘘だと思ってるんだろ?!…言っとくけど、事実だから」

いや、いや、いや。
ありえない。
「昨日」の私が、一年後には成宮と付き合ってる…?
嘘でしょ。

「…本当に忘れちゃったんだな」

私があまりにも呆然としているからか。
成宮が悲しみを孕んだ瞳で私の顔をジッと見つめる。
違う。忘れたんじゃない。
忘れたんじゃないよ、成宮。
私は、「知らない」んだよ。
貴方と私の歩んできた地続きの「今」を知らないんだよ。

「……仕事は、なにしてるの?」
「ほぼ専業主婦。あと週2でピアノ教室のせんせー」
「…ピアノ教室」
「見たんだろ、ピアノの部屋」
「……うん」
「まあ趣味の延長だけどね。結構生徒はいるよ。子供から大人まで。俺目当てって人も中にはいそうだけど」

趣味の延長。
何故だかその言葉にムッとしてしまう。
成宮目当てっていう言葉にも。
こういうところ、本当に変わってない。
自意識過剰だ。

「高校卒業して、大学は音大。ピアノ専攻。卒業と同時に俺と結婚。今年で結婚生活5年目。今はほぼ専業主婦で時々ピアノの先生。他に何か質問ある?」
「……いっぱいありすぎて、わかんない」
「…まあ、そうだろうね。ついでに伝えておくと、俺は稲実卒業してドラフト1位で今の球団に入って一軍で活躍中ー。次のシーズンで記念すべき10年目に突入。特に大きな故障をすることもなく今に至るって感じかな」
「どこの球団?」
「さぁどこでしょう」

誤魔化された。
そもそもこの「家」がどこに建っているのかもわからないのだから、答えの出しようがない。私が押し黙ると、成宮は「正解はね」と切り出した。

「燕だよ」
「……神宮だ」
「そー」

成宮が頷いた球団の本拠地を考えると、多分この「家」は東京かその近辺にある。正直ちょっとホッとした。これで例えば北海道とか東北とか九州とか、見知らぬ土地に住んでいると言われてしまったらそれだけで足が竦む。
「昨日」までの私は、産まれも育ちも東京の下町。それ以外を知らない。東京以外を知らない。
そこでふっと思い出す。
いや、本当はずっと心にあったこと。
同じ町で育った彼の存在。

「……成宮」
「なに?」
「………一也は、いま、なにしてるの?」

私が彼の名前を口にすれば、成宮は手に持っていたマグカップをゴトリと大きな音を立ててローテーブルへ置く。今気づいたけれど、私のマグカップと並んだそれはお揃いのデザインだった。取手を持ったままの、成宮の、指先が震えている。私の視線はそこに釘付けで、顔を上げることが出来ない。

「…一也、ね」

また、だ。
また怒りを孕んだ声。

「やっぱりそれ聞いちゃうんだ」
「……う、ん」
「まあ…17の紗南にしてみたら当然か」
「…ごめん、成宮」
「なんで謝んの?」
「……だって、成宮、怒ってる」
「怒ってないよ、苛々してるだけ!」
「それ同じだよ」
「違うって」

成宮がマグカップの取手から指を離し、そしてゆっくりと私の左手をその大きな掌で包み込んだ。硬い。肉刺だらけのそれ。薬指の銀色を撫でられる。変な空気だった。
成宮は私との距離の取り方を知ってる。そして私の無意識もそれを知ってる。許してる。
怒ってるのに、私に対する動作は全て優しい。チグハグ。古い家屋にリフォームした内装の「家」も、私の言葉を信じているようで内心疑ってる成宮の態度も、全部、全部チグハグだ。

この身体の中に宿る「昨日」の私を、「今」の成宮は嫌っている。彼自身がそう言った。だとしたら、どうすればいいんだろう。頭が痛い。

「…まあ、一也のことは自分で聞いて確かめたら?」
「え…?」
「ちょっと待ってて。電話」

成宮はそういうとソファーから立ち上がる。と同時にポケットからスマートフォンを取り出して「もしもし?」と応答しながら部屋を出ていく。さっきから僅かに耳に届いていた振動音は彼の携帯電話への着信だったらしい。ふっと私の緊張の糸が切れる。脱力する。
リビングの扉が閉まる音、廊下を歩く音、それから一瞬の間があってまた扉が閉まる音が聞こえた。…外に出て行ってしまったんだろうか。

壁に掛かった時計の秒針音が、静かな部屋に響く。短針は5を指し、長針は12を指している。私が目覚めてから、一時間しか経っていない。それなのに、どっと疲れた。与えられた情報が多すぎるんだ。

二十七歳の私
成宮と結婚
私の知らない十年間

目の前には途方もなく広い海が広がっている感覚。私はこれからその果てしない海原に、身ひとつで挑まなければいけないんだ。
だってもう「昨日」には戻れない。
本能が自分にそう訴えかけるから。

時計の長針が、2を指した頃。
またガチャガチャと玄関の扉が開く音がした。成宮だ。戻ってきた。
思わずまた身が固まる。
こそこそとした話し声が聞こえてきた。まだ電話でもしているんだろうか。廊下を歩く音。ガチャリ、とリビングの扉が開く音。

「紗南」

成宮の声に振り返る。
視界に飛び込んできた光景に、あっ、という声はあんぐり開いた口から漏れなかった。
成宮の後ろ。
頭ひとつ分、背が高いその姿。
相変わらず柔らかそうな髪に、鼻筋の通った顔立ち。黒縁の眼鏡。
レンズ越しの切れ長な瞳が、私を見ている。

「………一也…」

御幸一也。
わたしの大好きな人が、そこにいた。