わたしの春を青くしたひと

「……これって、なんかの冗談?」

私の顔を見るなり、一也は開口一番そう言った。つい三十分程前、成宮が「嫌がらせ?」と聞いてきた時と同じような口調だった。いつも砕けたような話し方をする一也にしてみたら、態度も言葉も表情も硬い。嫌がらせ、冗談、そのふたつの言葉の本質を私は知らない。知らないけれど、私の心は傷ついた。柔らかな心臓を、一也の言葉が一突き。感情が飛沫を上げる。
ぶわり、と涙が目から溢れて、頬を伝った。
これが喜びなのか悲しみなのか、…私自身にもわからなかった。

「あーあ、一也が泣かした」
「えっ、俺が悪いの?」
「そうだよ、一也が悪い」

ふたりの会話は「昨日」までのそれとなんら変わっていなかったから。それだけで、「今」でも交流があることが分かる。
成宮は一也を一瞥して、それから私の元へ。濡れた頬をテッシュペーパーで拭き取った。

「一也の言葉では泣くんだ」
「…え…?」

成宮がぽつりと呟いた言葉。
悲しそうな、言葉。
私は思わず聞き返したが、さっと顔を他所に向けられる。

「一也も座ってよ。今お茶入れるから」
「…わかった」

そう言って左手の扉からキッチンへと姿を消した成宮と反対に、ソファーへ腰を下ろす一也。成宮が家を出ていくまで座っていた場所。私の左向かい。思わず佇まいを直した。
言葉もなく、ふたりで成宮を待つ。
斜め前に座る一也は、大きくなった気がする。体つきが「昨日」よりも逞しくなった。
服の趣味はあんまり変わっていないのか、パッと見の印象に違和感はない。ただ顔に少し、皺が増えたような、そんな気がする。一也のお父さんの面影が、色濃く出ているような、そんな雰囲気。

「…一也、だ」
「久しぶり」
「一也だ」
「……うん」

確かめるように、彼の名前を何度も呼ぶ。一也は少し眉を下げて困ったような顔。さっきこの部屋に入って私の顔を見た時もそんな表情をしていた。どうしてだろう。一也の「冗談?」って言葉が頭から離れない。久しぶりって言葉も気になる。「今」の私はそんな風に言われるぐらい、一也と会っていなかったの?

「さっきはごめん。冗談?なんて聞いて」
「…ううん…大丈夫」
「…一也なんて呼ばれるの久々だったから、さ。面食らって。泣かせるつもりはなかった」
「……久々…?」
「ん?」
「じゃあ、私は一也のことなんて呼んでたの…?」
「………御幸」

御幸?
私が、一也を?
そう呼んでたの?
嘘でしょう?
なんで、どうして。

困惑、疑問、戸惑い。
全ての感情がごちゃ混ぜになって、私の身に襲い掛かる。鼻先がじんと熱くなって、また目頭から涙が溢れた。

「あー!また!泣かせた!!」
「……もうこれ不可抗力だろ…」

一也の分のお茶を煎れて戻ってきた成宮は、私の姿を見るなり声を張り上げ、そして一也は、その声にうんざりしたような顔を作って困ったように頭をガシガシと掻く。…なんか、もう、頭が痛い。
一也を困らせたいわけじゃない。
でもあまりにも「昨日」と違いすぎる私たちの関係に、涙が止め処なく溢れた。
成宮はそんな私の隣に腰を下ろして、また涙を拭き上げる。もう抵抗する気力もない。ただ、されるがまま。

「……お前ら相変わらずだなぁ」
「なに」
「相変わらず鳴が過保護。で、ベタ惚れ」
「うっさい、一也、黙って」
「へーへー」

一也はのんびりと成宮が淹れたお茶を啜りながら、私たちの様子を眺めていた。
相変わらず、も。
過保護、も。
ベタ惚れ、も。
全部「昨日」からは程遠い。
だから、ますます「今」が理解できない。

「さっき、一也が…」
「うん?」
「久しぶりって言ったけど…私たちそんなに会ってなかったの…?」

私がそう問えば、一也と成宮は互いに顔を見合わせる。まるでなにか、お互いに考えを伝え合っているような。そんな真剣な顔をして。そうしてその膠着状態を先に脱して口を開いたのは、一也だった。

「5年ぶり、かな。ふたりの結婚式以来。俺と鳴はまあ仕事柄しょっちゅう会ってるけど……この家に来たのは初めてだし、……紗南が会ってくれなかったからな」

ほんの一瞬、言い淀んだ後。一也はようやく私の名前を口にした。そんな彼を、成宮が怖い顔して睨んでる。一也は成宮に「怒るなよ」と釘を刺してから、言葉を続けた。

「…それにしても、さっき鳴から聞いたけど。…ほんとに全部忘れちゃったんだな」
「一也、違う。」
「…は?」
「忘れたんじゃない」
「鳴がさっきそう言ったんだろ?」
「……紗南は……17歳のまま、27歳にスキップしてきた…んだと思う」

私が玄関でぽつりと溢した言葉を使って、成宮は真剣な顔をして、一也に真実を伝えた。
…やっぱりさっきまでの成宮の中で、記憶喪失の線は消えてなかったらしい。だから一也にもそんな風に伝えたんだろう。
でも今は、違う、と断言している。この短時間で私の言葉に確信を持てるほどの何かがあったのだろうか。
そんな成宮の言葉に、一也は首を傾げた。

「つまり17歳以降の記憶が欠落してるんじゃなくて、今の紗南の自我が17歳ってこと?」
「たぶん、そう」
「…病院連れてった?」
「まだ。俺が帰ってきたらこの状態だったし、とりあえず一也に連絡した」
「…あのなぁ、俺来てもなんにもならないだろ。これでも俺結構忙しいんだけど」
「でも来てくれたじゃん。それにキャンプ前半で帰ってきて東京にいたの、俺知ってんだからね」
「…お前ほんと俺のこと好きな」
「はあ?」
「…まあ、それは置いといて。…そりゃ…紗南がおかしいってきいたら心配にもなるし、連絡もらってすっ飛んできたけどさぁ…とりあえず、病院連れてった方がいいんじゃね?」

一也の言うことは、もっともなのだと思う。その言葉の通り、私の言っていることはおかしい。病院に行くべきだという助言は、正しいのだ。誰だってそう思うだろう。
けれど、成宮は首を横に振った。

「しばらく様子見るつもり」
「…あ、そう」

一也は成宮の言葉に呆れたようにため息を吐く。
しばらく、私たち三人の間に訪れる沈黙。
チッチッと時計の秒針が進む音だけが響いた。

「でも仕事とかどうすんだよ。紗南、いま青道の仕事もしてんだろ?」
「……そうなの?」

それは、初耳だった。だから私の口から驚きの声が、出た。
さっき成宮が教えてくれたことの中に含まれていない事実。
私は思わず、成宮の顔を見る。
成宮は顔を顰めて、一也を睨んでいた。
……どうやら、意図的に伝えなかったことらしい。
一也もそれを察したのか、呆れ顔だ。

「夏のコンクールの時期だけ外部講師で吹奏楽部の指導してるって聞いたけど」
「……成宮、そうなの?」
「………」
「成宮」
「……なんで一也それ言っちゃうかなぁ」
「いや、言うだろ。ていうか、それ教えるために俺呼んだんじゃねぇの?」
「……それも、あるけど」

成宮は言い淀む。
彼が何を考えているのか、いまいちよくわからない。
私が一也を一目見てその声を聞いて涙を流したことに悲しんだり、一也が私を泣かせたり名前を呼んだりしたら怒るのに。肝心なことは教えてくれない。

「青道の仕事のことなら多少は力になれると思う」
「……うん。ありがとう」
「まあなんかあったら連絡して」
「うん」

そこでふと思い出した。

「…私って、携帯電話持ってる…?」

それを聞いて、また顔を見合わせる一也と成宮。そうかそこからか、とでも言いたげなふたりの表情。「持ってるよ」と答えたのは、成宮だった。

「ちょっと待ってて」
「うん」

持ってきてくれるのだろうか。
成宮は立ち上がり、リビングを出ていく。また一也と二人きりだ。
だから今しかないと思って、聞いてみた。

「一也も、プロになったの?」

成宮と仕事柄よく会うと言っていたし、キャンプという単語もふたりの会話に出てきていたから十中八九間違い無いだろう。でも念のために尋ねてみた。
一也は、フッと微笑む。
「そうだよ」と頷く何処か誇らしげで楽しそうな笑み。野球を愛してる。そんな気持ちが伝わってきて、私も僅かに口端が緩んだ。

「成宮と同じ球団?」
「いや、違う。リーグは一緒だけど」
「どこの、チーム?」

一也が口にした名前は、成宮と同じリーグで東京が本拠地のチーム名だった。

「だから、この家のわりと近くに住んでるよ。このあたり家賃安いし」

一也は昔から倹約家でそして庶民的だった。プロになってもそういう一面が失われていないと知って少しホッとする。それに一也が近くにいるという事実を聞けただけで安心できた。

「…おじさん、元気?」
「元気、元気。まだ細々と工場続けてる」
「…そう。うちのママ、まだおじさんに世話焼いてるのかな…」
「………」

一也は、黙った。
首を傾げる。何か変なこと言っただろうか。
そういえば今になってようやく両親の存在を思い出した。十年経ったのだから、ふたりだってもう随分といい年になっている。
一也は口を噤んだまま何も言わない。
ザワザワと、胸が騒めく。

「パパとママ…どうしてる…?」
「鳴から聞いて…ねぇよな。その様子じゃ」
「ッ、何か、あったの…?」
「お義父さんもお義母さんも元気だよ」

成宮が戻ってきた。
手にはスマートフォンを握ってる。多分、私のスマートフォン。そしてそれを持ったまま、また私の隣に腰を下ろして、一也の代わって私の質問に答える。

「結婚してすぐ、かな。紗南のおじいさんが亡くなって…それからお義父さんが早期定年退職して、長野に引っ越したんだよね。おばあさん足腰悪いし独り暮らしは心配だって言ってさ。まあ、しょっちゅう電話かかってくるし、向こうで元気に暮らしてるから安心して」
「……おじいちゃん、亡くなったの?」
「…うん」
「私の家も、もう無いの?」
「あるにはあるけど、売っちゃったからもう別の人達が暮らしてるって聞いた」

成宮はただ淡々と事実だけを私に伝えた。
きっとそれが、一番私の心にすんなりと入り込んでくるってことをこの人は知っている。成宮は私の心を掌握する方法を知っている。
それが今更、思い知らされた。

成宮はもうそれ以上この場で私の実家の話をする気はなさそうだった。誤魔化すともまた少し違うかもしれないが、手にしていたスマートフォンをこちらにずいっと差し出す。それからテキパキと私に指示を出した。

「これ、紗南のスマホ。画面タッチして水平に。上のカメラ見て。顔認証だから」
「か、顔認証…」
「そー。あ、後でパスコードも一応教える」
「パスコード…」
「……十年前ってガラケーだもんなぁ。なんか初々しい」
「一也も最近までガラケーだったじゃん、よく言うよ」

ロックが解けたスマートフォンの画面。小さな四角いイラストが沢山並んでいる。指でスライドすれば、さっと画面が切り替わった。また色とりどりの四角。全面が液晶で、「昨日」まで使っていた携帯のようなボタンはない。圧倒的にスタイリッシュだ。さすが流行に敏感なクラスメイト達が騒いでいただけのことはある。恐るべしスマートフォン。

成宮はひとつひとつ丁寧にその機能を教えてくれた。それを私と一也は同じように「へー」とか「ほー」とか相槌を打ちながら聞いていく。私もそうだけれど、どうやら一也はあまりこういうことが得意ではないようで。野球と料理以外のことにはとことん不器用で無関心。一也らしい。

「とりあえずよく使うのは、この左下の電話ね。後はメールもあるけど、今はそれよりラインの方がみんなよく使ってる。この緑色のやつ」
「ライン?」
「そ。メッセージアプリ。既読マークがつくから読んだか読んでないかもわかるし、動画とか写真も送れるよ。通話もできる。あとはグループ作ったり……まあ、そこらへんは追々教えるから」
「……うん」
「例えば俺になんか送りたい時は、ここタッチして。これがトークルーム。で、下に文章打つところがあるから…」
「ここ?」
「そう」

成宮の言う通り、画面の下にある入力欄をタッチすればすぐにひらがなのキーボードのような表示が現れた。

「なにか送ってみて」

成宮はスパルタだ。「え、」と戸惑っていると「なんでもいいから!」と駄々をこねる。仕方ないので辿々しく「ありがとう」と打ち込んだ。そして、右側の紙ヒコーキのイラストをタップ。すると打ち込んだ5文字が、電話マークばかり並んでいた成宮のトークルームにポンと表示される。
それと同時に成宮のスマートフォンがピロンと鳴った。彼はそれを手に取り、手慣れた様子で操作している。既読マークがついた。なるほどこういうことか。確かにメールより便利かもしれない。特に相手が読んだか読んでないかを知れるのはいいことだ。メールの返信が遅くてやきもきする「昨日」までの気持ちを思い出す。

「あ、なんかきた」
「スタンプー」

成宮からの返信は、可愛い羊のイラストだった。なんだか私の中の彼のイメージとはかけ離れていて、思わずふふっと笑みが漏れた。

「やっと笑った」

成宮も、一也も。
私が少し笑っただけで、嬉しそう。

「一也に連絡する時は、ライン?で、したらいい?」
「いや、メールでいいよ。俺 紗南のライン知らないし」
「…そうなの…」
「アドレスは高校の時から変わってないから。さすがにそれは電話帳に残ってると思うけど」

その言葉を聞いて、電話帳の中から一也の名前を探す。探してあてた御幸一也のページには確かに見慣れたアドレス。それをタップしてメールを作成する画面まで進み、そこで手順を確認したくなって顔を上げて成宮を見た。
…また、だ。
成宮は相変わらずなにを考えているかわからない表情で、私をじっと見つめている。

「…なに?」
「べっつにー」
「メール、これで合ってる?」
「あってる」

冷たい言い方で、突き放すような態度。
成宮は感情の起伏が激しいし、態度に出やすい。だから、一也と私が関わることを嫌がってるのが手にとるようにわかる。でもじゃあなんでこの場に一也を呼んだの。
わからないことだらけ。
私は、成宮を見ないふりして一也にメールを送った。

「とりあずさぁ」

そんな私たちの微妙な空気をどうにかしたかったのか。一也のレンズ越しの目が私たちを捉えて離さない。ゆっくりと口を開く。

「いま一番辛いのは紗南だろ。鳴も多少のことは許してやれよ」
「わかってるってば!でもムカつく!」
「嫉妬深い男は嫌われるぞー」

ニシッと笑う一也のその顔は「昨日」となにひとつ変わらない。成宮は相変わらず一也に噛みつくように「ムカつく」と連呼して唇を尖らせていた。私の知らない「昨日」と「今日」の狭間には、まだまだ知らない事実が眠っている。
私が一也のことを御幸と呼んでいたことも、五年会っていなかったことも、ラインの連絡先を知らないことも。
全部、知らない。
何かあった。
それだけはわかる。
だけど一也も成宮も、その何かを、「昨日」の私に伝える気はないのだ。

結局それから、成宮によるスマートフォン講座はしばらく続いた。時々一也と成宮は仕事の話を交えながら、小一時間ほど。気づけば時計は18時を回っていたので、会話の切れ目で「そろそろ帰るわ」と一也が腰を上げる。
成宮が一也に続いて立ち上がったので、私も慌ててそれに倣った。
リビングを出て、廊下を歩き、玄関で靴を履く。一也が玄関の扉を開けた。ここに来て、私は初めて「家」の外に出る。
玄関ポーチから門扉へと真っ直ぐに伸びる小道。外はとっぷりと日が暮れて、真っ暗だった。私たちは連れ立って、門扉の外。「家」の前の道路まで一緒に出る。

「それじゃあな。鳴は開幕戦で」
「絶対負けねー」
「楽しみにしとくわ。…紗南」
「…なあに?」
「いや、……頑張れよ」
「……うん」

一也はそう言って、ひらひらと手を振りながら私たちに別れを告げて、歩き出した。私はその広い背中をじっと見つめる。
なにに対しての頑張れなのか。
成宮と生活すること?
「今」の自分を生きていかなくてはいけないこと?
それともまだ私が知らない何かあるのだろうか。そんなことを考えていると、ふいに左の掌に温もり。
成宮が、唐突に私の手を握っていた。

「成宮…?」
「………」
「…どうしたの」
「べつにー」

そう言いながら、視線はどこか遠いところを見てて、その透き通るような青色の瞳は随分と水っぽく潤んでいて。
泣きそう。
あの、成宮が。
その姿は、私の知ってる彼じゃなかった。

だから私は気づかないふりをする。
繋がった手の熱さも、まるで子供が行かないでって訴えかけるような、そんな瞳も。
全部、全部。
知らないふりをする。