砕けた星のかけらを抱いて眠る

相変わらず東京の夜空は、明るい。
「昨日」と変わらない僅かな星の輝き。閑静な住宅街で、私たちはただ手を繋いでいた。
一也の背中が見えなくなってから、成宮がようやく言葉を紡ぐ。

「ご飯食べにいこっか」

財布取ってくるから待ってて、と。「家」の中へと戻る成宮。そこでするりと離れる掌。私は彼に言われたまま、その場から動くこともせず、ただぼんやりと辺りを見渡していた。

外から見る成宮の「家」は、築五十年ほどの古さだった。二階建ての日本家屋。暗くて詳細はよく見えないけれど、「家」を取り囲むように外壁があり、木々が植えられた庭がある。「家」の外壁の横の敷地には、縦列駐車で車が二台。軽自動車と…多分外車。なんとなくそれだけで、私と成宮がそれぞれ乗っているものだとわかる。
門扉の横の壁には『成宮』の表札。その上には、『成宮ピアノ教室』の看板。レッスン日は水曜日と土曜日の文字、それから電話番号、可愛いクマとピアノのイラストが書いてあった。

車と表札と看板。それだけが「家」よりも真新しい。それらの存在が、この「家」は成宮と私のものなのだ、と私に訴えかけていた。

「おまたせー」
「あ、うん」
「なんか食べたいのある?」

成宮が戻ってきた。
手に持っていた女物のマフラーストールを、慣れた様子で私の首に巻きつける。その流れるような手つきに、抗議の声を上げる暇もない。そういえば一也を見送る流れで外に出た際、上に何も羽織らなかった。通りで肌寒かった筈だ。そんなことにも気付かずにいた私は、やはりまだ「今」に馴染んでいない。意識がここに向いていない。

「…食べたいもの…」
「特にないなら、ラーメンでいい?ふたりでよく食べに行く店があるんだけど」
「ラーメン…」
「嫌?」
「…ううん、…成宮もラーメン食べるんだなと思って」
「食べるよ」

普通に食べる、なんて言いながら。成宮はストールを巻きつけた時のように、自然な動作で私の手を握った。そのまま歩き出す。抗議の声すら、多分成宮は気にしないんだろう。そう思ったので、ただ黙って彼に引かれるがまま、歩いた。

「家」を出発して、十分ぐらいだろうか。一也が歩いて行ったのと同じ方向、同じ道を歩いた。住宅街が、ぽつりぽつりと商店街に変わっていく。暖簾を出している店が増える。
この近くに最寄り駅がある。成宮がそう言った。
会話らしい会話はあまりせず、ふたりで黙々と歩く。

「ここだよ」

成宮が突然足を止めた。
どうやら到着したらしい。目の前に建つ店。彼が目指していた目的地は、昔からありそうな少し古い中華料理屋だった。自動扉が開き、中に入れば熱気。と、同時に明るい声で「いらっしゃい!」と出迎えられる。

「鳴!おかえり!」
「ただいまー。奥の席空いてる?」
「空いてるよ、入って、入って」

カウンター奥の厨房で、中華鍋を振っていたおじさんが私たちに声をかける。
成宮はその言葉を聞いて、迷わず奥へと続く廊下を進んだ。手は繋いだまま。私は彼に先導されながら、続く。
店内は良くも悪くも昔ながらの中華料理屋と言う雰囲気だった。白と朱色が基調。壁は煙草のせいか黄ばんでいる。カウンターが十席ほどと、四名掛けのテーブルが三つ。
私たちが進んだ先の左手には座敷があった。右手には二階に続く階段。
靴を脱いで、座敷に上がった。
その時になってようやく繋いでいた手が解けた。

座敷には長机が三つ。壁にはビールの張り紙。部屋の中には誰もおらず、私と成宮のふたりきり。直ぐに愛想のいいおばさんがお水をふたつお盆に乗せて持ってきてくれた。私たちの目の前にそれぞれ置いてくれる。

「相変わらず仲がいいねぇ、羨ましい」
「でしょー!」
「今日戻ってきたの?」
「そうそう。あ、お土産持ってくるの忘れちゃった。また持ってくるね」
「わざわざありがとうね」

おばさんと成宮の会話を聴きながら、幾度となく思い出される「昨日」の光景が目に浮かぶ。成宮は基本的に猫を被るのが上手い。甲子園の時のメディア対応もそうだったけれど、ファンの女の子たちに対しても可愛い面しか見せない。自分がなにを求められているか理解している。私は出された水をちびちびと飲みながらそんなことを考えていた。

「俺は、いつものやつ。紗南はどうする?」
「…えっ、と……」
「チャーシュー麺にしたら?好きでしょ。いつも頼んでるじゃん」
「…じゃあ、それで」

いつもという言葉、それに親しさが溢れる成宮とおばさんの会話。この店は彼が言うように成宮と「今」の私の行きつけなのだろう。それを「昨日」の私は知らない。その事実を周囲に悟られないような言葉で、成宮は私を先導する。私に選ばせているように見せかけて、答えに導いてくれている。
注文を取り終わり、おばさんが部屋を出た。
途端に、大きな息を吐いて脱力した。

「…よく食べにくるの?」
「時々ね。紗南が晩ご飯つくるの面倒くさい時とか、俺がラーメン食べたい時とか。よく来る。ここ居心地がいいんだよね。大将もおばちゃんも優しいし、俺のファンだし」
「そう、なんだ」
「この店だけじゃなくて、このあたりに住んでる人たちはだいたいみんな俺たちのこと知ってるよ。だからこれからよく声掛けられると思う」
「…うん」
「不安?」
「……うん」
「まあ上手くやれとは言わないけど。俺のこと邪険にするのだけはやめてよね。これでも結構ラブラブ夫婦で有名なんだから」

ラブラブ、とは。
私と成宮の関係性を表す言葉の中で、一番ほど遠いものではなかろうか。なんて、考えてしまう。
そんな私の思いが顔に出ていたのか、向かいに座った成宮はその白くて柔らかそうな頬をぷっくりと膨らませた。

「また疑ってるでしょ!」
「疑ってるっていうか…成宮が、私のこと好きって思えなくて…」

会って顔を合わせれば、いつも嫌味な言葉を並べ立てていた男だし。「昨日」の私のことを嫌いだったと言ったのは、成宮だ。それは事実。だけど、

「好きだよ」

今こうして向かいに座り、その真っ直ぐな瞳で私を射抜く成宮が嘘をついているとは、とても思えなかった。

「好きじゃなきゃ結婚なんてしない。紗南だって俺のこと好きだよ。そう言ってた。それだけじゃ駄目なの?」

駄目じゃないけど、やっぱり理解は出来ない。私の知らない十年間。「昨日」から「今」に繋がる欠落した道。そこでなにが起こればこんな未来に進んでしまうのか。それを考えるのが怖い。

「…俺は、」

成宮がゆっくりと私に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「何があっても紗南のそばにいるよ。約束したしね」
「…約束?」
「そう。紗南が俺に言ったの。ずっと傍にいてって。だから安心していーよ。俺はその約束をずっと守るつもりだから」

成宮の言葉は、力強かった。
揺るぎない信念。一体何が彼をそこまでさせるのかわからないけれど。…こんな状況で、事情を聞いて理解してくれてそして自分のことを守ると言ってくれる成宮の存在が、心強く感じる。あの成宮なのに。

「…ありがとう…」

小さな声でお礼の言葉を呟けば、「いーよ!」と成宮が歯を見せて笑った。それは「昨日」と変わらない笑顔。グラウンドで仲間に囲まれている時や、一也と楽しそうに野球の話をしている時に見せる表情。「今」の私は、成宮にとってそれらの存在と同等なのだろうか。彼の核に、私がいる。そう実感する。

「はい、お待たせ!」
「おばちゃんありがとうー!」

ちょうどいいタイミングで、おばさんがラーメンと成宮が頼んだ「いつもの」を持ってきてくれた。成宮のそれは定食だった。ラーメンに半チャーハンと酢豚などのおかずが少量で三品ほど。受け取って、ふたりで手を合わせて、食事に箸をつける。
チャーシューは肉厚で柔らかくとても美味しかった。味わうように頬張る。

「好きだよね、チャーチュー麺」
「うん」
「高校の時もよく食べてたんでしょ」
「うん、部活帰りにみんなでよくラーメン屋さん行ってた」
「知ってる」
「そっか」

そういう話も、勿論しているだろう。成宮はふうふうと息を吐いてラーメンの麺を啜る。いい食べっぷりだな、とか。案外綺麗な箸の持ち方をしているな、とか。そんなことを考えながら成宮を見ていると、「見られてると食べにくい!」と怒られた。誤魔化すように話題を変える。

「成宮」
「なに?」
「食事…私が普段作ってるんだよね?ちゃんと栄養とか気をつけてた?」

プロで活躍しているということは、今の成宮の身体は商品なのだ。年間通して何十試合もこなしていかなくてはいかない。まあたまには今日のような外食もあるだろうけれど、基本は自炊。「家」のキッチンを見る限り、多分「今」の私はきちんと自分の役割を果たしていたように思う。
私の問いかけに、成宮は咀嚼していた鳥の唐揚げを嚥下すると、水を飲みながら逆に問った。

「なに、もうそんなこと気にしてくれる余裕できたの?」
「余裕っていうか…成宮と暮らしていくなら大事なことだと思って」
「まあ、その通りだけど。…大丈夫、きちんと考えてくれてたよ。確か家に料理本とかレシピノートとか色々置いてあるはず。紗南って結構マメだよね」

マメかどうかは自分でもよくわからないけど、確かにノートをとったり記録したりするのは好きだ。部活でもよく書いていた。練習の記録、課題曲での問題点など。書いて、整理して、考えて、そしてまた練習。その繰り返し。

「そういうところは変わってないから、大丈夫」
「…うん」

見知らぬ自分になったわけじゃない。好みも性質も変わってない。「昨日」の自分がいて、「今」の自分がいる。成宮はそんな風に私に言い聞かせるようだった。それが今は有難い。ふっと気を抜けば、考えてしまうから。私と一也のこと。両親のこと。変わってないことと、変わったこと。

それから言葉もなく食事に集中する。
ふたりとも完食し、すこしゆっくりしてから、座敷を出た。成宮が会計を済ませる。その間に改めて店内をぐるりと見渡せば、成宮のサインやポスターが貼ってあることに気づいた。お店の人がファンというのは本当らしい。成宮が見知った球団のユニフォームを着ている姿が前面に印刷されたポスター。なんだか見ててこそばゆかった。

「今シーズンも頑張れよ!」
「もちろん!ありがと!」

そんな言葉で送り出されて、店を出る。また自然に繋がれる手。来た道を戻る。「家」へ帰る。辺りは静かだった。時折聞こえてくるのは、犬の鳴き声だったり、家族の団欒の笑い声だったり。なんとなく、「昨日」まで私が住んでいた町に似ていた。

「私たちが住んでる家は、成宮の実家?」
「違う、違う。結婚した時に買ったの。紗南がここがいいって譲らなくてさぁ」
「…そうなんだ」
「古くてびっくりした?」
「うん」
「家の中はリフォームしたからそうでもないけど、ぶっちゃけ住みにくいよ。夏は暑いし冬は寒いし階段は急だし」
「…なんで、私は、あの家がいいって言ったのかな…」
「似てるんだって。紗南が住んでた町に。だからここがいいって言ってた」

ああ、やっぱり。
感性は変わらないのだ。

「…俺はさ、ぶっちゃけどこに住んでも良かったんだよ。紗南と一緒なら。だからいいよって言ったの。まあ…俺も結婚する時に色々我儘言ったし。これでおあいこかなーって」
「我儘?」
「その話はまた今度ね」

成宮はあからさまに突然話題を終えた。それはちょうど「家」に到着したからなのか、触れて欲しくない話題だったからなのか。理由は定かじゃない。
でも確かなことは、成宮の中で線引きがあるのだ。私が知っておくべき情報とそうじゃない情報。知っていて欲しいものと知らないままでいて欲しいもの。
それは、はっきりとしている。

「家」に入り、靴を脱ぎ、真っ直ぐにリビングへ。成宮は上着を脱ぎ、私は首に巻いてあったマフラーストールを外して身支度を解いた。

「家の中、案内するね」
「あ…うん…」
「とりあえず一階で見てないところはっと…」

成宮の提案を受け、一息つく暇もなく彼の説明を受けながら「家」の中を見て回る。
トイレ、洗面所、脱衣所・浴室、客間。
浴室では特に細かく説明を受け、成宮はその合間に湯張りのボタンを押して浴槽に栓をした。
そうして一階を全て見終わると、次は二階だ。
急勾配の階段を上がって、私が目覚めた部屋を通り過ぎ、奥の寝室へ。
成宮が部屋の扉を開く。
目に飛び込んできた光景に、はっと息を呑んだ。
寝室の真ん中に置かれていたのは、ダブルベットだった。…まあ当然だ。だって結婚しているんだから。
ネイビーブルーの掛け布団が無造作に捲れ上がっている。それだけで、嫌でも生活感を感じてしまった。

「服はここに仕舞ってあるよ」
「あ…うん…」

元は押し入れだったらしいクローゼットには、プラスチックチェストが綺麗に並んでいる。

「二階はあともう一部屋あるけど、物置みたいなもんだからそこはまた明日ね」
「うん」
「…で、ここからが本題なんだけど」

成宮は改めて私と向かい合った。
少し見上げる形になる。成宮とこうして面と向かうと、胸の奥に仕舞い込んだ情景がちりりと胸を焦がすのだ。だけどその痛みには、今は気付かないふりをする。

「寝る時どーする?」
「………あ、」
「俺はいいけどね。一緒に寝ても」
「…一緒、に……」
「……流石にハードル高すぎるか。いいよ、とりあえず別々で寝るとして……ここでは眠れそう?」

成宮が指を指したダブルベット。
私は思わず返答に困る。寝ろと言われたら、寝れないことはない。だけどなんとなく気が進まないというか、心は「嫌だ」と叫ぶのだ。そんな私の感情を察したのか、成宮は軽い溜め息を吐いた。

「わかった。じゃあしばらくは客間に布団敷くからそこで寝て」
「…うん…ありがとう…」
「いーよ、別に。洋服もある程度は客間に下ろしちゃおうか。その方がいいでしょ?」
「……うん」

確かに成宮の言う通り、着替えをするのに一々この寝室に入るのは気が引けた。だからその提案は有り難い。成宮は私が思っている以上に私のことを考えてくれてる。それを、実感する。

「じゃあとりあえずお風呂入っておいでよ。もうお湯溜まってるだろうから。その間にいろいろ準備しておくね」
「わかった」

私が頷けば、成宮はテキパキと動き、チェストから私のものであろうパジャマと下着を取り出して渡してくれた。そのままそれを抱えて、成宮と一緒に一階へと戻る。私は脱衣所へ、成宮はリビングへ。

ようやくひとりきり。
ここにきて、初めて、「今」の私を洗面台の鏡でまじまじと見た。
二十七歳の私。
「昨日」の自分と比べると、やっぱり少し肌にハリがない。
身体つきは確かに少し女らしくなったような気がするけれど。
そのうち、自分の姿をあまり見たくなくなって、誤魔化すように服を脱いで浴室へ入ってお湯が溜まっていた湯槽に浸かった。
ちょうどいいお湯加減。息を吐いて、脱力する。

頭を巡るのは、ここ数時間の出来事。目覚めた部屋、ピアノの部屋、使い込まれた台所、成宮と私の左手薬指にハマるお揃いの指輪、一也との再会、頑張れの言葉、泣きそうな成宮の顔、手を繋いで歩いた夜道、暖かいラーメン。その全てが、現実。夢じゃない。
そしてこの世界の中で、

(成宮は、)

どうしてこんなにも優しいんだろう。どうして、私のことを気遣い、状況を説明し、世話を焼いてくれるんだろう。
結婚してるから?
まあそれもあるかもしれないけれど、なんだか…彼は、必死だ。必死に私をこの世界に定着させようとしてる。

ずっと傍にいて

私が、成宮に言ったという言葉。
それはどんな状況で言ったんだろう。私はどうしてその言葉を成宮に言ったんだろう。
私が願っていたその思いの相手は、成宮じゃない。
一也だ。
一也にずっと傍にいて欲しかった。

でも「今」、その願いは叶わない。


考えているうちに随分と長風呂になってしまった。暖まりすぎた身体を湯船から引き上げ、身体と頭を洗う。
それからまた湯槽に少し浸かり、すぐに上がる。脱衣所で体を拭き、成宮が用意してくれたパジャマに着替えた。ドライヤーで髪を乾かす。鏡に映る自分の姿はあまり見ないようにした。
全てを済ませ、ひんやりとした廊下を歩き、リビングに顔を出せば、成宮はソファーに座ってテレビでニュース番組を見ていた。

「成宮」
「あ、あがった?」
「うん、ありがとう」
「こっちも準備できてるよ」

彼の言葉の通り、リビングの隣の客間、畳の上に布団が敷かれている。その横には私のものらしい服の山。

「チェストは明日下ろすから」
「うん」
「今日はもう寝る?」
「…うん」

時計を見れば、22時を回っていた。身体が温まって眠気が身体を迎えにくる。

「おやすみ」

成宮はそう言って、私の頭を撫でた。私はされるがままだ。どう応えれば正解なのかわからない。成宮のことが嫌いかと聞かれれば、それは違う。「昨日」までの成宮のことは確かに苦手だった。でも「今」の成宮は、優しい。だから困るんだ。
私は成宮の気持ちに応えられない。

「…おやすみ」

彼の言葉を繰り返すように呟き、客間の扉を閉めた。堪らなくなって布団に潜る。僅かに耳に届くテレビの音。無音よりはよっぽどいい。余計なことを考えてしまいそうだから。

(「今」がどうか夢でありますように)

目覚めたら、「昨日」の続きでありますように。そんな願いを胸に抱いたまま、私は目蓋を閉じる。

そんなことありはしない、という自分の声は聞かぬふりをして。