いつまでも分からずやなきみに

その日、私は朝起きて真っ先に2月のカレンダーをびりりと破り剥がした。
3月の暦。1日。日曜日のことだ。
成宮は、それを横目に朝食を摂り荷物をもって早々に家を出た。昨日に引き続き、本拠地でデイゲームのオープン戦。開幕戦は今月の下旬。毎日、練習に、試合に、遠征に、と忙しい。

その日々の中で私と成宮は考えた。
家事全般、お金のやりくりの仕方、親戚付き合いや近所付き合い、そして私のピアノ教室のこと。

まず基本的に食事や洗濯などの水仕事は私が担当することにした。いつも在宅しているのだから当然の流れだ。それにやはり成宮の手に何かあったら取り返しがつかない。
それだけは避けたかった。だって、成宮には野球しかない。趣味も特技も野球。野球の申し子。球界の宝とまで言われている存在(らしい)。
成宮は時々手伝うとは言ったけれど、私は頑なに断った。こういうところは頑固だ。我ながら。

次にお金のやりくり。これは、生活費など日々の細かいものは私の担当。それ以外は成宮が担当していたというので特に変更はなかった。成宮の年俸はそこそこ高い。…というか、高校生の自分にはとても想像がつかない金額だった。加えて成宮のあの容姿だ。コマーシャルや雑誌等に露出することもあって、かなりの高収入。
成宮の年収のその額を聞いた時は驚いたと同時に、目立ちたがり屋の彼のことだからさぞ無駄遣いが多いのだろうと思ったのだけれど、そのあたりは今までの私がうまく手綱を握っていたらしい。古い一軒家を購入しリフォーム代金は一括支払い。ローンは基本的に組まない。出来る限り自炊をする。家具家電はちょっといいものを。車は二台。それ以上は所持しない。私名義のものは中古の軽自動車。成宮名義のものは彼好みの外車。これも勿論一括購入。成宮曰く彼自身が好きに買い物出来るものと言ったら時計ぐらいらしい。だからそこにはこだわっていると言っていた。
…成宮が、私の尻に敷かれている。
とりあえず話を聞いてそれだけは理解した。

そして、親戚付き合い、近所付き合い。これが結構な難題だった。相手がいるだけに、ごまかしがきかないのだ。つい先日成宮の実家から電話があったように、予期せぬことが起きやすい。
まず呼び方。ふたりきりの時は成宮と呼んでもいいが、基本的には外に出たら「主人」、親戚には「鳴くん」と呼ぶように言われた。これは成宮の言う通りに従うしかない。異論はなかった。鳴くんだなんて…少し、恥ずかしいけれど。
ちなみに成宮の実家は同じ都内。でも幸い直接顔を合わせることはお盆やお正月など年に数回しかないらしい。まあ…その分電話はよくかかってくるんだけど。
一方、私の両親は今や長野在住。会うよりは電話やラインでのやりとりが多い。これはなかなか寂しいけれど、歳をとった両親を目にするのが嫌だったので、少しホッとした。
そして近所付き合いに関しては、とにかくなるべく愛想よくするようにと成宮から口を酸っぱくして言われた。まあイメージ商売みたいなところがあるのは理解できる。しょうがない。

最後にピアノ教室のこと。
レッスンは看板に書いてあったように水曜日と土曜日の週二回。生徒数は現在二十人ちょっと。月四回のレッスンで月謝は五千五百円。相場がわからないので安いのか高いのか妥当なのかはいまいち理解できていない。生徒は幼稚園児から高校生の学生が大半で、大人も少し。助かったのは、自分自身で記録していた生徒一人一人のレッスンノートがあったことだ。年間スケジュールや過去の課題曲からいま練習している曲。課題部分や演奏の感想。事細かに記されていた。二階の本棚の部屋には大学時代の自分自身のレッスンノートも仕舞ってあったので、それを引っ張り出してここ数日はずっと机に向かっている。

私の知らない十年間で、私は音楽大学に入学しピアノを専攻し在学中に自動車免許を取得して、そして青道で教育実習を経て音楽の教員免許を取得。卒業後は成宮と結婚。と、同時にピアノ教室を開いた。文字にすると約百文字。しかし流れた月日は3650日。この間に得た経験や知識の穴を埋めることは、到底難しい。
音楽は好きだ。でも音大に進むほどの熱意は十七歳の私の中にはない。それがどうして、なにがあってこの進路に選んだのか。また在学中に教職課程を選択したというのに、どうして教師の道を選ばなかったのか。
理解できないことが多すぎる。

その辺りの事情を知っている成宮は、先日宣言された通りなにひとつ私に伝える気はないようだし、だからと言って自分から一也に連絡をとって問いただすことも難しかった。

一也とは、…結局あれから連絡をとっていない。メールしようと思いスマートフォンを手に取るが、どうにも文字を打つ気にならなかった。成宮もそうだけど今は開幕戦に向けて大事な時期。私のことで煩わしい思いをして欲しくなかった。寂しい思いはある。私の記憶の中では、つい数日まで毎日顔を合わせて話をしてメールのやりとりをしていたから。…でも今は立場が違う。仕方ないと自分に言い聞かせる。

考えることは多いけれども、一見すると穏やかな日々。朝起きて朝食を作り、成宮と一緒に食べる。それから洗濯と掃除。近所のスーパーへ買い物。庭仕事もする。どうやら結婚してから私はガーデニングにハマったらしい。「家」に飾ってあったのは、だいたい庭で育てた花だった。
園芸雑誌片手の世話。水やり。
覚えることがたくさん。
料理もなかなかに大変だ。ノートや本を見ながら、栄養バランスを考える。
成宮のためも勿論あるけれど、なんというか半分意地みたいなところがあった。
「今」にしがみついていないと、足元から崩れ落ちてしまいそうで。
そんな邪念を振り払うように、時間を見つけてピアノも弾いた。
十七歳の私が弾いたことのある曲から始まり、家に置いてある楽譜に片っ端から手をつける。ただただ無心だった。
不思議なことに身体は覚えているらしい。私の指は十七歳の技術以上のものを持っていた。初見の曲でも少し練習するとすぐにすらすらと弾けた。
ピアノを弾き、ノートを見返し、家の仕事をして、またノート、勉強。それの繰り返し。
夕飯は朝と同じように成宮と一緒に食卓を囲む。
寝る時は相変わらず別々。あの寝室には、あれから一度も足を踏み入れていない。

そんな風に過ごした最初の一週間はあっという間だった。

「今」の生活、二週間目。
いよいよピアノ教室が始まった。
初日はたまたま休みだった成宮が家にいてくれた。10時からお昼を挟んで夕方まで。ひっきりなしというほどではないが、途切れることなく生徒さんが訪れる。
ひとりあたりのレッスンは約三十分から四十分ほど。幼児から小学校低学年まではワークノートから始まり、簡単なピアノのレッスン曲。可愛らしい動物の絵が書いてある本をそれぞれ購入してもらってレッスンの度に持ってきてもらう。まだまだ音符の下に音階を書かないといけない子も多く、私の手書き文字が書き込まれた譜面を一生懸命見ながら生徒たちは鍵盤に指を踊らせる。
小学校中学年から中学生までは指の練習を兼ねた短い曲の教本から始まり、三ヶ月ほどかけて習得する課題曲がメイン。
高校生、大学生も曲のレベルが違うだけで主に同じようなレッスンの流れだ。こちらは音大進学を考えている子が殆ど。中には保育士などの教育課程などを視野に入れている子もいるけれど、少ない。進路が関わってくる子たちに関しては自然と指導内容にも気を使った。
楽だったのは、所謂大人の習い事という感じで通う大人の生徒さんたちだ。クオリティよりは「演奏を楽しむ」のがメイン。そして案外、成宮の「俺のファンもいるよ」という言葉は間違いじゃなかった。それこそ生徒さんの中には、あの夏の甲子園で成宮のファンになった方がいたのだ。初日のレッスンにいらっしゃった水野さんがまさにそうだった。

「水野さん久しぶりー!これ沖縄のお土産!」
「鳴ちゃん!わざわざありがとう…!」

初日、午前中最後のレッスンがその水野さんだった。課題曲の演奏を終え、音の聞き取り、次回レッスンの確認を終えたところで終了…このタイミングで成宮は小さな紙袋を持って教室に顔を出した。成宮からお土産を手渡された水野さんはまさに感涙といった様子だ。よっぽど好きらしい。私はそんなふたりのやりとりを横目に、息を吐く。
どっと疲れた。時計は既に13時に近い。14時を回ると降園帰りの幼児たちが来るから休んでいる暇はない。
成宮は相変わらず猫を被った様子で水野さんと楽しそうにお喋りしていた。

私たちの両親よりもひと回りほどお若い水野さんは、近所に住んでいる主婦だ。今年成人を迎えたお子さんを筆頭に三人の息子さんがいる。その全員が野球経験者で下の子は四月から中学三年生、シニアで野球をやっている。そして進路は成宮の母校である稲城実業高校を希望しているらしい。家族揃って成宮ファン。
そんな事情を事前に成宮から聞いてきたので、水野さんのレッスンには多少不安を抱いていたのだけど、その心配は杞憂だった。
教室に通い始めた理由は最初こそ成宮目的だったのかもしれないが、ピアノには真剣に取り組んでくれている。彼女の演奏からはそれを感じ取れた。

「じゃあ水野さん、また来週」

いい加減ちょっと休みたかったので、そんな言葉で成宮たちの会話を断ち切った。玄関先まで水野さんを見送り、成宮とふたりきり。玄関の内鍵を閉めていた私に成宮の声が飛ぶ。

「紗南、ヤキモチ〜?」
「違うよ、疲れただけ」

ヤキモチなどではない。決して。
ねえねえと懲りずに声を掛けてくる成宮の声を背に、私は台所へ。冷蔵庫から昨日作っておいた作り置きのおかずが入った琺瑯の容器を取り出し、食器棚からは茶碗。炊飯器を開けて白米をよそう。ふたり分。皿をダイニングテーブルに並べた。
成宮と向かい合って昼食を食べる。

「どうだった?」
「どうだろう…とにかく必死だよ」

白米を咀嚼しながら、成宮の問いかけに応える。うまくやれているような、そうでないような。こればかりは断言できない。判断するのは生徒さんだ。

「いつもの紗南って感じだったけどね」
「…レッスン見てたの?」
「見守ってたの!」
「全然気付かなかった」
「集中してるからだろ。今までもそうだったよ。シーズンオフで家にいる時にさ、時々覗いてたんだよね。でも全然気付かない」
「そうなんだ」
「まあ紗南らしいけど」

成宮は穏やかな顔をしていた。そんな表情で「私」を語る。私は言葉が見つからず、ただ箸を動かすことに集中した。


そんな風にお昼を過ごし、午後はまたレッスン。午前中に比べると更に忙しく、休む暇もなかった。
成宮は結局ずっと家にいてくれたらしい。最後の生徒を見送ったあとリビングに戻るとソファーに座って夕方のニュースを見ていた。テレビ画面の左上、デジタル時計は18時45分を表示している。

「終わった?」
「うん」
「お疲れ様」

成宮はそう言うと立ち上がる。流れる手つきでテレビの電源を落とした。

「夕飯、せっかくだから食べに行こう」
「え、あ、うん」
「紗南の初仕事祝い」

十七歳にしては頑張ったじゃん、と。成宮は私の頭を撫でる。この数日間でその行為にも慣れた。頭を撫でる、手を繋ぐ、という以上のことはしてこないし、成宮の心情を考えると拒否することも出来ない。私は私のことが嫌いな成宮しかしらないけれど、彼は彼のことが好きな私を知っている。その行為すら取り上げてしまったら、きっと私たちの間に亀裂が入る。ここでの生活が危うくなる。それだけは避けたかった。

出掛ける身支度を整え、戸締りをして家を出る。変装というほどでもないが、成宮はキャップを深く被り銀縁の丸メガネ姿だ。私は着ていた服にスプリングコートを羽織る。まだ肌寒さはあるけれど、それでも「目覚めた」日よりも暖かい。もうすぐ春が来るのだ。

成宮の車の助手席に乗りこんで、シートベルトをセットする。成宮の運転で車がゆっくりと動き出した。

「どこに行くの?」
「洋食屋」
「そこもよく行くところ?」
「そうだよ」

成宮は、ファーストフード店、ファミレスなどの、チェーン店には基本的に行かない。外食する時は馴染みの店で。徹底している。「目立つのは好きだけど、紗南と一緒にいる時は騒がれたくないんだよね」なんていう旨の話をされたのは、わりと最初の頃だった。
野球選手の知名度はピンキリだけれど、彼はそれこそ普段スポーツ観戦をしない層にも顔と名前が浸透しているほどの花形選手なのだ。それぐらい徹底しないと、安寧の日々は送れないのかもしれない。
ただまあ、学生時代から付き合っていた彼女と結婚、という五年前の出来事によって私という存在が世間に認知されてからは、成宮もだいぶ過ごしやすくなったのだという。まあ要は成宮のイメージとは真逆の一途さに世間が驚き、彼は一気に株を上げたのだ。それからは週刊誌も成宮についてあることないこと書き連ねることなく(独身時代は色々とあったらしい)、むしろ私たちをおしどり夫婦なんて言葉で形容しているのだという。

目的地の洋食屋には三十分ほどで到着した。近くのコインパーキングに車を止めて、少し歩く。「ここだよ」と成宮が足を止めたのは、木目調のこじんまりとした雰囲気の店の前だった。扉を開けて入った店の中はいかにも老舗といった具合だ。今のご主人が二代目らしい。
平日だが、夕飯時ということもあり店内はそこそこ混んでいた。そんな忙しい中でも「成宮くん、紗南ちゃん、いらっしゃい」とコック服の店主に迎え入れられる。その一連の流れに、以前訪れた中華料理屋を思い出した。

「ここ、紗南が通ってた大学の近くでさ。付き合ってる時からよく来てたんだよね」

奥の目立たない席。お互い烏龍茶で乾杯。
成宮はデミグラスソースのかかった熱々のハンバーグを頬張りながら、教えてくれる。私はトロトロの卵でケチャップライスを包んだオムライスを少しずつスプーンで救って食べ進めながら、相槌を打った。

「そうなんだ」
「ちなみに紗南、ここでアルバイトしてたんだよ」
「えっ」

それを聞いて、だから成宮だけではなくご主人は私の名前も知っていたのか、と納得する。しかし同時に、知り合いであろう人に対して自分の態度はおかしくなかっただろうかと心配になってしまった。それを成宮に尋ねれば「大丈夫じゃない?」と案外適当な返事。こういうところがあるから、真剣に考えてくれているのかそうじゃないのか分からなくなったりする。

「紗南は変わってないよ、全然」
「…それもどうなんだろう…」

十七歳から変わってないっていうのも、なんだか情けない。私が眉を下げて箸を噛めば、成宮は「本質的な話だってば」と呆れ顔だ。
それから食事を続けながら、「私たち」の話を成宮から聞いた。それはまるでドラマのあらすじを聞いているような感覚だった。
私が大学在学中、成宮は寮暮らしでプロ野球生活は二軍からのスタート。二年で一軍昇格、寮は結婚をきっかけに四年で退寮。そんな具合だから付き合っている間はお互い忙しくふたりで出掛けることも少なかったという。その中でよく訪れたというのがこのお店。此処は謂わば思い出のデート場所らしい。それを聞いて、少し、たじろいだ。自分でも理由はわからない。ただなんとなく気恥ずかしかったのだ。
会うことはなかなか出来なかったけれど、成宮が言うには、メールや電話のやりとりは頻繁に行なっていたらしい。

「意外」
「なんで?」
「…野球以外の煩わしいとこ全部面倒くさがって見ないフリしそうだから」
「まあそのとーりだけど、さ。でも逆に言えば俺がマメに連絡してたのは、紗南が俺にとって野球と同じぐらい大事だからだよ。俺は一也とは違うからね」
「……うん」

一也。
突然耳に届いたその名前にドキリとする。

私の口からその名前を呼ぶことは良しとしないのに、成宮は時折…一也の名前を口にした。まるで私のことを試すかのように、だ。
無意識なのか確信犯なのか。わからないけれど、でも心臓に悪いことは確かだ。

成宮の言う通り、私はいつだって一也の中で二番手の存在だった。
幼馴染なんて所詮そんなもの。わかってる。
一也にとって一番大事なものは野球。それは変えられない。変えられるわけがない。…変えるつもりも、ない。
私は野球を一番に愛してる一也だから、好きになったんだよ。
…なんて今の成宮を前にしてそんな本音を言えるわけもなく。
ただただ言葉少なに頷いて見せた。
成宮はそんな様子の私をさして気にも留めず、突然ある提案を口にする。

「開幕戦だけどさ」
「うん」
「チケット用意したから、見に来てよ」

その透き通った青く鋭い瞳が私をじっと見つめ、ハンバーグをぺろりと平らげたその柔らかな唇が言葉を紡ぐ。私は何も言えず、ただ無心で皿に残っていたオムライスを食べ続けた。
成宮はきっと気付いてる。
私の気持ちを知っている。

「一也も出るから、見においで」

だからこんな風に、いつだって私のことを試すんだ。