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心象のはひいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめんの諂曲模様

(正午の管楽よりもしげく
  琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾しはぎしりゆききする


おれはひとりの修羅なのだ




「なーんか、難解な話だったね」
「うん」
「あれ宮沢賢治なの?」
「うん、そうだよ。でも作品自体は詩だから原作じゃなくて原案に近いかなぁ…」
「ふーん」

普段よりも賑やかな廊下を歩きながら、五歳年上のお姉ちゃん、優紀ちゃんとそんな会話を交わす。
待ちに待った鵜久森高校の文化祭。開催日が平日ということもあって、一般参加の人の数はほどほどだった。これが週末だったらもっと賑やかだったに違いない。でもこれぐらいがちょうど良かった。

開催は二日間。初日の昨日はお母さんが来てくれた。来なくていいよって言ったけど「入学式だって行ってないんだからせめて文化祭ぐらい行かせて」と言われてしまったのだ。仕方ない、ともまた少し違う。本当はちょっぴり嬉しかった。
……自分のことながら、拗らせてるなぁ、と思う。

二日目の今日は仕事がお休みの優紀ちゃんが来てくれた。優紀ちゃんは専門学校を出たばかりの美容師一年目。一応実家暮らしってことになってるけど、最近は彼氏と半同棲気味でほとんど家に帰ってこない。顔を合わせるのは久しぶりだった。
そんな優紀ちゃんは、家族の中で唯一の私の理解者。だから私も安心して話が出来る。優紀ちゃんもまたそれを理解してくれているからか、私にとても優しい。

ーー私は満のこと大好きだよ

ふいに心が過去の優紀ちゃんの言葉をなぞった。

これはお守り。私がまだ辛うじてあの家にいられる理由。大事に大事に心の箱にしまって、そして時々取り出して眺めるの。言葉の力は色褪せない。不思議だ。


優紀ちゃんはさっきまで見ていた演劇部の演目がよっぽど難しかったのか、相変わらずウンウン唸りながら首を傾げている。私は横を歩きながら、苦笑。確かにとってもわかりにくかった。シュールとも違う。なんていうんだろう。演劇というよりは朗読に近かったそれ。遮光カーテンによって真っ暗になった教室で、スポットライトを浴びて詩の一節を暗唱する演者。一応ストーリーらしきものはあったけれど、じゃあどんな話だったのかと聞かれたら困ってしまう。うまく言葉で言い表せない。一言で言うなら、難解。それに尽きる。

パンフレットに載っていた『春と修羅』の文字。それは大好きな宮沢賢治の詩集のタイトルだった。だからどうしても見たいと言ったのは、私だ。その手前、付き合ってくれた優紀ちゃんに対して「私もよくわからなかった」とは言い出せなかった。でもなんとなくわかっているんだろう。「現代的だったね」という優紀ちゃんの言葉でこの話題は締め括られた。

「満のクラスはなにやってんの?」
「縁日だよ」
「へー」

可愛いね、と優紀ちゃんは笑う。
優紀ちゃんは相変わらず美人だ。色素の薄いふわふわの髪に、もともと顔の作りを活かすお化粧。そういう仕事をしているっていうのもあるだろうけど、やっぱり美人。分厚い眼鏡に毎日三つ編みおさげの私とは大違いだ。今だってチラチラと男子生徒たちが優紀ちゃんのことを盗み見てるのが理解る。でもそれは私にとって自慢だった。優紀ちゃんは自慢のお姉ちゃん。

ーー鳴ちゃんとは、違う。

硬くて低くて冷たい声が、頭に響いた。
私はどきりとする。その声はいつも聞こえてくる鳴ちゃんに似ている声じゃなかった。これは、この声は、

「成宮さん」

突然耳に届いた聞き覚えのある優しい声に、私は足を止めた。優紀ちゃんも倣うように止まる。振り返って、視線は自然と下へと向いた。

「松原くん」
「こんにちは」

そこにいたのはやっぱり松原くん。相変わらず穏やかな笑みを浮かべて、私を見上げている。つられて私も笑みが溢れた。

「友達?」
「うん、…野球部のマネージャーの、松原くん」

優紀ちゃんの問いに誤魔化すことなく正直に答えれば、一瞬、間が空いた。でも本当に少しの間だ。多分私しか気づいていない。そんなレベル。だって優紀ちゃんへすぐに「そうなの!」と明るい声を上げていたから。

「満がいつもお世話になってます」
「松原くん、姉の優紀ちゃんです」
「松原南朋です。こちらこそいつも成宮さんと仲良くさせてもらってます」

お互いに頭をぺこっと下げて挨拶。その様子にペンギンみたいだなって場違いな感想を胸に抱く。松原くんは珍しくひとりだった。

「ひとりで見て回ってるの?」
「うん、ちょっと息抜きにね。成宮さんたちは?」
「演劇部の発表を見てきたの」
「へえ、面白かった?」
「…うーん、どうだろう…。凄かったけど、よくわかんなかったな」

私が馬鹿正直な感想を口にして肩を竦めれば、松原くんは「そっか」と笑った。もう随分と慣れ親しんだ私たちをやりとりを優紀ちゃんがジッと眺めてる。それがわかる。私はちょっぴり気恥ずかしくて、頬に熱が集まるのを自覚した。

「ごめんね、ふたりで楽しんでるところを邪魔しちゃって」
「ううん、大丈夫だよ」
「俺はもう行くから。お姉さんも文化祭楽しんでください」
「ありがとう、松原くん。……これからも、満のことよろしくね」
「勿論」

松原くんはそう言って、車椅子をスイスイっと自分で操作しながら私たちを追い越して行ってしまった。基本的に彼はなんでも自分でする。それを松原くん自身が望んでるし、学校側もそうだった。バリアフリーであるからこそ、自分で出来ることは自分でする。もしかしたらそんな考えがこの高校にあるからこそ、松原くんはここを選んだのかもしれない。そんなことを考えていたら、人混みに紛れて見えなくなった松原くんの姿をまだジッと見つめていたらしい優紀ちゃんが、囁くような声で私に尋ねた。

「…あの子が、例の?」
「………うん」
「確かに優しそうな子だし、満のこと大事にしてくれそうだけど……大丈夫なの?」

ーー利用されてるんじゃないのか。

昨日、お父さんが私に向かって吐いた言葉を思い出した。私はそれに対しても、優紀ちゃんの言葉に対しても、首を大きく横に振る。

「大丈夫だよ」
「…本当に?」
「うん。……それに、正式なマネージャーってわけじゃないから。お手伝いさんみたいなもんだよ」


野球部の冬合宿を手伝って欲しいと松原くんに切り出されたのは、少し前のことだ。「成宮さんさえ良ければ」って切り出した松原くんの表情はとても真剣だった。
確かにこれまでーー私がカロリー計算などに明るいほど料理が『得意』だと松原くんが知ってからーー効率の良い体づくりのための食事に関して相談されることが何度かあった。彼は最初、私の知識量に随分驚いたらしい。すごいね、と何度も何度も褒めてくれた。それから梅宮君のゼッケンを縫ったことも褒められた。それが私にとってたまらなく嬉しかったことは、否定できない。むしろ誇らしかった。

「俺はマネージャーって言ってもなかなか動けないから。どうしても部員全員で細々したことまでやらなくちゃいけないんだ。…だけど、それじゃあ他校と練習量に差がついちゃうでしょ?成宮さんなら…野球をサポートすることよくわかってるし、うちの部に来てくれたらとても嬉しい」

松原くんは穏やかな声音で私に言い聞かせた。冬は種を撒く時期なのだ。彼らが見据える先。その先には、

ーーー甲子園行くんで!応援ヨロシクッ!!

梅宮くんがそう宣言したようにきっとあの場所がある。私の心に聳え立って消えない蔦のお城。

……本当に大丈夫なの?

今度は心の内でお母さんの声が囁く。なんでみんなそうやって私の決意を疑うように聞いてくるんだろう。昨晩もそうしたように、私は今一度、掌をギュッと握る。柔らかい肌に食い込む爪の痛み。

「ねぇ、満。鳴が野球辞めちゃうかもしれないからって、なにもその『代わり』になろうとしなくていいんだよ?」

優紀ちゃんのその言葉に、私は一瞬息を呑む。…そんなこと考えてなかったけれど、周囲からはそう思われてしまうのか、と。この時初めて気づかされた。
鳴ちゃんが甲子園の暴投をきっかけに、塞ぎ込んで、秋大も投げなかったことをお父さんが嘆いていた姿を思い出す。両親の頭にあるのは離れていてもいつだって鳴ちゃんのことだ。
……嗚呼、そうか。私は結局いつまで経っても、鳴ちゃんの『代わり』で影なんだ。

「『代わり』じゃないよ。これは私が決めたことだもん」

小さく、でもきっぱりと言い切った。優紀ちゃんはなにも言わない。そのかわり私の様子をただジッと観察している。
私たちは歩みを止めない。足が一年五組に近づく。耳がお囃子を拾う。

トンツク、ドンドン。
トンツク、ドンドン。
トンツク、ドンドン、トンツク、ドン。

ラジカセから流されている、それ。
梅宮くんの呼び込みの声も、聞こえてきた。
私は誤魔化すように優紀ちゃんの手をとる。

「優紀ちゃん、もうひとり紹介したい人がいるの」

そう言って、優紀ちゃんを引っ張るように自分のクラスへと案内した。


いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾しはぎしりゆききする


お囃子のリズムに乗って、宮沢賢治の『春と修羅』の一節を、私の心が唄う。


おれはひとりの修羅なのだ


心が、叫ぶ。


おれはひとりの修羅なのだ


だけどそんなこと認めたくなくて、私は自分の声に耳を塞いだの。喚く心に素知らぬふりを通すのだ。

ずっとそうしてきたように、これからも。
これからも、ずっと、そうするの。