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暦が十二月を数え、学校は冬休みに入った。高校生になって初めての長期休みだった夏休みはそれこそのんびりダラダラ(といいつつそこまでダラダラしていたわけじゃないのは根が真面目だってことにしておきたい)と過ごしていた私だったけど、今回はそうはいかない。冬休みの初日から、携帯のアラームは朝5時に鳴り響いた。


「鵜久森の野球部も随分熱心なのねぇ」

早起きした私を横目に、相変わらずの手際の良さで朝食を作っていたお母さんはそんなことを言う。私は自分の分のパンを焼きながら、うん、と頷いた。

「甲子園目指してるんだって」
「あら、そうなの?」
「うん。梅宮くんが言ってた」
「梅宮くん?」
「文化祭の合唱コンクールで、ピアノの伴奏してた男の子」
「ああ、あの子」

リーゼント頭の厳つい男の子がピアノを弾く姿を、お母さんも覚えていたらしい。「あの子野球部だったの」と少し驚いた表情を浮かべている。

「でも良かったじゃない。鵜久森は東東京だし、夏は稲実と当たらないから」
「……そうだね」

その言葉は暗に、稲実と鵜久森が当れば鵜久森は甲子園には行けないでしょ、と言われている気がした。それが透けて見えて、私は辟易する。…でも、多分、その通りだ。稲実の層の厚さを考えれば普通の考えだと思う。両親の鳴ちゃん贔屓を横に置いておいても、その事実は変わらない。私はこんがり焼けたパンをトースターから取り出して、ダイニングテーブルでもそもそ食べながらお母さんに気づかれないようにそっと溜息を吐いた。

私が急に野球部の手伝いをすると言い出したときは、お父さんもお母さんもあまりいい顔をしなかったけれど、優紀ちゃんが「満が決めたんだから応援してあげんのが親じゃないの?」と相変わらずの格好良さでふたりを説得してからというもの、特にこれといった異論や反論は話題にのぼらなくなった。
そしてそれは多分、優紀ちゃんの言葉のおかげだけじゃなく、

「鳴ちゃんは、まだ投げてないの?」

私が少しずつ鳴ちゃんのことを会話に織り交ぜるようになったことも、一因なんだと思う。

お母さんは私の突然の質問に少し驚いたような素振りを見せて、口を噤んだ。それから暫く考え込む素振りを見せてから、頷く。

「そうみたいよ。でもこないだ三者面談の時に鳴と話したけど、だいぶ前向きになってたからもう大丈夫なんじゃないかしら。あの子、大舞台での挫折らしい挫折って初めてだから最初は心配したけど…基本的には自分のメンタルは自分で立て直せる子でしょ?満が心配することないわよ」
「…ふうん。……私のこと、なんか言ってた?」

努めて冷静に聞いたつもりだったけど、その声は自分でもわかるほど震えてた。だけどお母さんはそんなこと気にも留めていない。ただいつも通りーー私が去年の夏、感情の大爆発を起こして以降そうしてきたようにーー睫毛を揺らして、微笑んだ。

「元気にしてるの?って。気にしてた。そろそろ満から連絡してみたら?」
「………そのうちね」
「そのうち、ね」

私の言葉を繰り返すように、お母さんが呟く。きっとその気がないのはバレてる。だけど特に追求されなかった。

「…まあ、大晦日に鳴が帰ってきた時に、今度こそふたりが話してくれるとお母さんとっても嬉しいんだけど」

私はお母さんのその言葉に、うん、とは頷かず、聞こえないフリを通す。我ながらズルいとは思うけれど、……やっぱり、お母さんが望む未来を実現する気には到底なれなかった。




「地獄…」
「地獄だ…」
「地獄の鬼だな…」
「が、頑張って…?」
「ほら、みんな。成宮さんが応援してくれてるんだから頑張ろうね」

走り込みが終わり、グラウンドに倒れ込む部員たち。その姿はまるで屍のようだった。それをニコニコ相変わらずの笑顔で見下ろす鵜久森高校野球部マネージャーの松原くんは、意外にも皆んながそう形容するように『鬼』である。普段穏やかで優しい彼しか知らなかった私は、最初面食らってしまったけれど梅宮くん達曰く「こっちが本性」らしい。

「鬼って失礼だなぁ」

松原くんは相変わらず涼しい顔をしている。冬の冷気のせいかほんの少し頬が赤い。じっとみるばかりではきっと寒いだろう。それでも彼は、少しの休憩を挟んで、またグラウンドで練習に励む部員たちの姿をただジッと見つめていた。

二学期終業式の次の日から始まった野球部の冬合宿。泊まりこそないものの、朝早くから夜遅くまでみっちりメニューが組まれている。手伝いを頼まれた私の仕事は、と言えばタイム測定の記録つけだったり、バッティング練習の球出しだったり、ドリンクの用意だったり、あとは松原くんが調理部に頼んだ補食作りのお手伝いだったり…。とにかく多岐に渡る。
調理部も私も、完全にボランティアだけどそれでも「やる」と頷いたのは松原くんの人徳だなって思う。少なくとも私は松原くんの力になりたかった。素直に私のことを「凄いなぁ」って褒めてくれる松原くん。
他人に認められるのは、純粋に嬉しい。心が暖かくなる感覚。それはこの十五年間、感じたことのないものだったから。

鵜久森の野球部は、一年生を中心に和気藹々と明るい雰囲気。松原くんがいつか教えてくれたようにそのほとんどがリトルチームで一緒に野球をしていた謂わば幼馴染みたいな間柄。先輩たちも何人かいるけれど、いい意味で上下関係が緩いというか、松原くんの鬼のメニューも黙々とこなしているし、パッと出の私のような存在にも優しかった。


一週間、野球漬けの毎日。練習自体は三十日で終了。大晦日に部室の片付けをして、それで部活納めだ。最初こそ慣れない重労働に身体が悲鳴を上げていたけれど、最終日近くになると慣れたものでこの生活をなんとなく名残惜しく感じてしまう。大晦日の大掃除参加しなくてもいいと言われたけれど、その後の打ち上げには誘われた。

「せっかくだからお化粧してあげようか?」

大晦日当日。
彼氏が実家に帰省して留守にするから、と珍しく帰ってきていた優紀ちゃんが、ニヤニヤした表情を浮かべてそんな提案をするものだから、私は読んでいた本を閉じて眉を下げた。

「お化粧?」
「そー。松原くんたちと出掛けるんでしょ?」
「出掛けるけど…」
「満、ワンデイのコンタクト持ってたよね?私がお化粧も髪もやったげるし、服も貸してあげるから!可愛く変身させて!お願い!」

もはや提案というよりは、お願いになってる。こうなったら優紀ちゃんは絶対私を着飾るまで開放してくれないのは明らかだった。今までにも何度か実験台にされたことはあったけど、その状態でどこかに出掛けるのは初めて。

(…不安だ…)

変なの、って言われないだろうか。そんなことばかり考えてしまう。

「絶対松原くんも梅宮くんも可愛いって言ってくれる!間違いない!」

優紀ちゃんは相変わらず張り切っている。…どうやら、私がふたりのどっちかを好きだって勘違いしてる節があるのだ。そんなことないのに。

(……でも、可愛いって言ってもらえたら…嬉しいなぁ…)

そうなったら、純粋に嬉しい。だから私は結局、優紀ちゃんのなすがまま、着せ替え人形に甘んじることにしたのだった。



待ち合わせは、十五時に、鵜久森高校の最寄駅。
みんなは大掃除が終わってから来るから、多分ジャージ姿だろうことに気づいたのは待ち合わせ場所に到着してからだった。
優紀ちゃんが見立てた女の子らしいワンピース、レースとリボンが可愛いクラシカルなコート。シンプル・イズ・ザ・ベストがモットーの私のワードローブにはないお洋服。そもそも優紀ちゃんの趣味でもないだろう服だったけど「いつか満に着せたくてセールの時に買っちゃったのよね〜」なんて言われてしまっては悪い気はしなかった。似合ってるかどうか、は別として。
スカートから伸びる足はタイツを履いているけれど、それでも寒い。それに気恥ずかしい。もじもじと足を擦り合わせる。

(早く来ないかなぁ…)

約束の時間まであと十分ぐらい。視線は鵜久森高校がある方向の道路をウロウロと彷徨う。車椅子の松原くんがいるし、梅宮くんはいつも声が大きいから来たらすぐわかるだろう。それでも目はみんなを探してしまっていた。

「ね〜もしかして暇してる?」
「………」
「無視?」
「………」
「ねーねー」
「……あの、もしかして…私ですか…?」

さっきから聞こえていた声だったけれど、まさか自分に掛けられていたものとは思わずずっと無視していたら、肩を叩かれた。振り返ってみれば、明るい髪色の若い男の人ふたりがニコニコした顔で私のことを見ている。思わずビクリと肩を揺らして、後ずさった。
……これは、色々疎い私でもわかる。

(ナンパだ)

それに気づいた時、私がまず真っ先に思ったのは「優紀ちゃんのメイクって本当に凄いんだな」ってことだった。だって普段の私ならまずナンパなんてされない。にも関わらずこうして声を掛けられるってことは、それだけ優紀ちゃんのプロデュース能力が長けている証拠だ。帰ったら優紀ちゃんにすごいねって伝えよう。目の前で動く男の人たちの口をぼんやり眺めながら、私はそんなことを考えていた。

「聞いてる?折角の大晦日なんだし暇してるんだったらどっか遊びに行こうよ」
「あの…ごめんなさい、いま友達と待ち合わせしてて…」
「またまた〜!さっきから見てたけど、そのお友達?全然来ないじゃん」
「…ッ、あ」
「ね、行こう、行こう!」

強引に腕を掴まれて、思わず転けそうになった。慣れないヒールのブーツの爪先がアスファルトの上でつんのめる。

「やめ…!」

やめてください!と、珍しく咄嗟に拒否の言葉が口から飛び出し掛けたその時だった。

「おい!嫌がってんだろ!」

聴き慣れた声が耳に届いて、それと同時に強い力で進行方向とは反対の方に引っ張られた。あっという声を出す前に、視界の端にチラリと見慣れたリーゼント頭が映った。

「友達って男かよ」「ちょっと声掛けただけだろ」「つか高校生?」「マジ?」なんて焦った会話が目の前で繰り広げられ、掴まれた腕はパッと離された。そのままそそくさと逃げるように離れていく男の人たち。その瞬間は恐怖よりも驚きが優っていたけれど、ふと我に返り、今更身体が震えてくる。

「大丈夫ッスか?」

私を覗き込んだその顔を見た瞬間。心は安堵に包まれ、思わずポロリと涙が溢れた。ぼやけた視界に「彼」の焦った表情が滲む。

「あ、り、がと…梅、宮くん…」
「…?なんで、名前…」
「梅ちゃん!」
「梅宮!」

バタバタ、と。背後からこちらに駆け寄ってくる足音と梅宮くんを呼ぶ声。それもやっぱり昨日まで聞いていたものばかりで。胸に広がる安堵の想いに、やっぱり涙は止まりそうにない。

「梅宮、人助けは立派だけど喧嘩にでもなったら部活に支障が…」

タイヤがアスファルトを進む音。いまこの時ばかりはいつもより厳しい声。それを聞いた瞬間、もう駄目だった。

「…っまつ、ば、らくん…」

私は自然とその名前を口にしていた。梅宮くんの身体越しに、松原くんと、彼の車椅子を押していた有賀くんの姿を見る。それから、近藤くんに、犬伏くんに、大西くん。みんないる。みんなの姿が、私の両眼にゆらゆら揺れる水面に映った。誰もが私の顔をジッと見つめて、ポカン。頭の上に疑問符が浮かんでいる。

「………成宮さん…?」

確かめるようなーーでも、どこか、確信めいたような。松原くんは、ただ私の青い眼を見上げて、いつもそう呼ぶように私の名前を呼んだ。呼応するように小さく頷く。そうしたら、

「ああああ?!?!」

梅宮くんの一際大きな声が、大晦日の忙しない駅前に響いたのだった。