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「っていうか、満、化粧してるじゃん。眼鏡は?どうしたの?」

鳴ちゃんは苛立ちを隠そうともしない。…ううん、隠す気もないんだろう。ゆったりとした足取りで目の前に対峙した片割れは、夏よりも少し背が伸びただろうか。冷や汗を掻く裏で、そんなことを考えていた。
やっぱりうまく言葉が出てこない。まるで記号が喉に張り付いているような、そんな感覚。

「…っ、」
「またダンマリ?」

鬱陶しそうな言葉。一年ぶり以上に、直接私に語り掛けられたそれは、悪意に満ちている。あの時、唖然とするばかりだった彼は、長い長い沈黙を経て私の前に立ちはだかった。

「満、楽しそうだね。嫌いな俺がいなくて清々してる?」

鳴ちゃんの詰問は、続く。

「野球部手伝ってたんだって?」
「…っ」

ーーそれはいずれ彼の耳に入るだろうと思っていたけれど、早すぎる気がした。…お母さんが言ったに違いない。私は鳴ちゃんの顔が見れなくて、俯いて、暗闇の地面ばかりを見ていた。

「野球嫌いなんだろ?なんで手伝いなんてやってんだよ。カロリー計算も嫌いで、スコアつけるのも嫌いで!ゼッケン縫うのも嫌なんだろ?!じゃあ、なんで今更俺のいないところで野球に関わるんだよ!!」

彼の悲痛な叫びが、怒りが、耳の奥の鼓膜を揺らす。ビリビリとした感覚から目を背けるように、瞼を閉じた。シンと静まった住宅街だ。彼の怒鳴り声に、バタバタと慌てた足音。鳴ちゃんが背にするように立っていた自宅の玄関扉が開いた。暗闇に、明るい光。

「ちょっと!まさかこんなとこで喧嘩してるの!?」

顔を出したのは、優紀ちゃんだった。その顔を見た瞬間、私の緊張はフッと切れる。鳴ちゃんはそれを見逃さなかった。

「また姉ちゃんに泣きつく?」

鳴ちゃんの言葉はまるで鋭いナイフやガラス片のようだ。私の柔らかい心臓をグサグサと抉る。それは彼が指摘したことが事実だったからかもしれない。図星を突かれた。反論することもできない。言葉はやっぱり出てこない。私の口はいつだって鳴ちゃんの前では役立たずだ。その代わりに、涙が頬をぽろぽろと流れた。何度か瞬きを繰り返せば、大粒の雫が、ぼたぼたと地面に落ちる。鳴ちゃんはそんな私に対してやっぱり苛々して、今度はもっと大きな声を出した。

「そうやって俺を悪者にして、他人の同情に甘えて、…どうせ今の学校でだってそうやって生きてんだろ!?満は俺のことが嫌いだって言ったけどさぁ…!!!じゃあ、満は…!!今までなんか努力したのかよ!!俺みたいに!!!なんかひとつでも努力したのかよ!!!」

そしてそんな怒鳴り声の、その後に続いた捨て台詞のような、結びの文を耳にした瞬間。
ぶつり。
まさしく、そんな感じだった。
瞬間湯沸かしの如く、私の頭にはカッと熱い血が上る。唇を噛みしめて、それから一歩また一歩と足を踏み出した。立ちはだかる巨大な壁のように感じていた片割れ。だけど今は、もうそんなことどうでもいい。行く手を阻むように立っていた鳴ちゃんをドンと腕で押した。ビクともしなかったけど、突然のことに目を見開いた青色と目が合う。なんだかそれを見て、笑ってしまいたくなった。もう心底どうでもいい。そのまま駆け足で玄関に向かう。優紀ちゃんが何か言っているけど、脳みそがそれをうまく処理することは出来なかった。ブーツを脱いで、家に上がる。お母さんがリビングから顔を出して、私の名前を呼ぶ。だけど私はそれを無視した。
大きな音を立てて、階段を駆け上がる。
ドン、ドン、ドン、ドン。
そのリズムは、文化祭で散々耳にしたクラス展示の縁日のお囃子に似ていた。

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾しはぎしりゆききする

「おれはひとりの修羅なのだ…!」

私は気が付けば、苛々した口調でその一節を口にしていた。そして、階段を上った先。自分の部屋の扉を開いて、中に飛び込む。頭の中がグチャグチャだった。優紀ちゃんがくれたコートを乱暴な指先で脱いで、ベッドへと放り投げる。なんとなく落ち着かなくて、腰を下ろすこともせずに部屋の中をぐるぐると歩き回った。薄暗い部屋で、とんだ奇行だ。自分でも理解している。時折、苛々が波のように襲ってきて、ドスドスと音を立て地団太を踏んだ。部屋の片隅に置いてある姿見にそれが映って、鏡越しの自分と目があう。それでも冷静さが戻ってくることはない。頭を駆け巡るのは、鳴ちゃんのあの暴言だった。

努力をしたことがあるかだって?
俺のように?
努力をしたこと?

私はずっと努力していたじゃないか!!
あなたのために!好きでもないことを!努力していた!

本当に、私の片割れは、なにも理解していない。

ーー俺は!!そんな風に…!!泣いてばっかりで自分の言葉で反論ひとつ出来ない…!!努力しない満のことが昔から大っ嫌いだった!!!

結びの文を思い出して、思わず爪を噛む。
結局、自分が吐いた暴言はこうして己の元に返ってくるのだ。それを思い知らされただけ。そんな風に自分に言い聞かせる。
嫌いなら、嫌いでいい。私だって鳴ちゃんのことが嫌いだ。お父さんとお母さんに愛されて、周りのみんなにチヤホヤされて、我儘ばっかりで、野球の神様に愛された鳴ちゃんが嫌いだ。大嫌いだ。

私は、一度大きく息を吐いた。なにが一番腹が立ったって、知りもしない私の鵜久森での日々を馬鹿にされたことだった。別に鳴ちゃんのことを悪者なんかにしてない。そもそも鳴ちゃんの話なんかしない。他人の同情に甘えてなんかない。
松原くんも、梅宮くんも、足立ロケッツのみんなも、私に同情して仲良くしてくれてるんじゃない。一緒にいてくれるんじゃない。哀れだと思うから野球部の手伝いを頼んできたんじゃない。

ーー本当に、そう思う?

ふっと頭に響く声。嗚呼、まただ。姿見の自分と目が合う。鏡の向こう側で泣きはらした目をした私が、私を見ていた。

本当にそう思う?
貴女一人に価値なんてあると思う?

その声は、……私の声だった。私が私に問いかける声だった。
文化祭の時にも聞こえてきた声。
……否、ずっと前から、聞こえていた声。
その声が私に語り掛ける。

本当に価値があるというのなら、試してみればいい。
貴女に価値があるということを、わからせてやればいい。

振り払っても、振り払っても。マグマのように湧いて出てくる言葉。
本当はずっと気づいてた。私の奥底に眠る、この感情。
夏の甲子園をテレビ越しに見たときに感じた苦しさの後に訪れた、一種の清々しさ。
誰も知らない、私のどす黒い気持ち。

それは、怒りだ。


あの夏、あの瞬間。私は確かに自分の片割れの心が泣いているのを感じ取った。それは一種の双子のテレパシーのようなものだって信じてる。昔から何度かそういうことがあったからだ。その時はいつも鳴ちゃんが私の傍に寄り添って「大丈夫だよ」って言ってくれた。そんな過去も、確かにあった。
だけど、今の鳴ちゃんは、私の声を、私のこの感情を、ちっとも、ちっとも気づいてくれない。
自分のことばかりで、野球のことばかりで、自分の『尾っぽ』のことなんてなんにも気にしてない。

貴方の尾っぽはいつの間にかズタボロだよ。
いつか気づいて、そして嘆くといい。

私は決意を新たにするように、拳を握りしめた。そして自分の勉強机の引き出しを開いた。一番奥に仕舞いこんだそれをむんずと掴みとって、勢いよく片割れの部屋とこの部屋を仕切る壁に向かって投げつけた。柔らかいそれは小さな音を立てて壁にぶつかって、そして床に転がる。この人形に罪はないけれど、もうどうしたって我慢することが出来なかった。


心象のはひいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめんの諂曲模様


私の心にも聳え立つ、あの蔦の城。
理由なんて、どうだっていい。今この瞬間、私は決めたのだ。コートと一緒にベッドの上に放り投げた鞄の中からスマートフォンを取り出す。暗闇にチカチカと光る、画面の光。涙で濡れた視界の中で、彼の名前を探した。震える指先でそれをタップする。画面を耳に押し当て、呼び出し音を聞くこと数秒。電波に乗って、つい数時間前まで耳にしていた彼の声が耳に届いた。

「…松原くん…?ごめんね、急に……うん、ちゃんと帰れたよ。うん、松原君も……そっか、良かった。……それでね、……野球部のマネージャーの、件…なんだけど……」

私は私の怒りりゆうを胸に、
あの地をーー甲子園を、目指すのだ。