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手元の紙にもう一度、視線を落とした。指先に力が篭る。…自分で思っていたよりも、うんと、緊張しているらしい。まるで、行き先を知らない列車の片道切符を手にしている気分だった。ふっと頭を過るのは、大好きな「銀河鉄道の夜」のこと。
ジョヴァンニが持っていた切符。どこにでも行ける通行券。私の手にするこれも、そうだったらいいのに。そう思いながら、「お願いします」と頭を下げながら、紙を目の前の人物に差し出した。それを受け取ったのは、もちろん列車の車掌さんなんかじゃない。
鵜久森高校野球部顧問の、吉本先生だ。そして私が先生に手渡したのは切符なんかじゃなくて……正式な野球部への入部届だった。

「はい、確かに。これからよろしくお願いしますねぇ」

相変わらず穏やかな口調。先生は紙に自分の名前を書いてからシャチハタ印を押した。それからしわくちゃな顔を私に向ける。改めて「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「これで成宮さんも正式に野球部の一員だね」

付き添ってくれた松原くんが、私の顔を見上げてそう言った。無事に入部届を出して、社会科準備室を出る私たち。廊下はシンと静まっている。今はまだ冬休みだ。週明けが始業式。とはいえ野球部をはじめとして、いくつかの部活は既に活動を再開している。体育館からはバレー部の声が聞こえてきていた。
私は松原くんと並んで、来た道を戻る。行き先はもちろん部室棟だ。ちなみに梅ちゃん達部員は、グラウンド周回中。私はこれから早速、松原くんからマネージャーの仕事の手ほどきを受けることになっている。

「これからはビシビシいくよ」
「…うっ……がんばる…」

松原くんの歌うような言葉に、私は思わず眉を下げた。そうだ、冬合宿の時はあくまでボランティアで、そして「お客さん」だったのだ。だけどこれからは違う。自分で決めたこととはいえーーあの鬼マネージャーの姿の松原くんの姿を思い出して一瞬肝が冷えた。一見穏やかで口調も優しいけれど、彼は駄目なことは駄目だって言える人だ。
松原くんの厳しい言葉に心がポッキリ折れちゃったらどうしよう。そんなことを考えて身構えた私に、松原くんはクスッと笑った。

「成宮さんなら大丈夫だよ。冬合宿の時の要領でやってくれればいいから」
「…うん。ありがとう」

飴と鞭というか…彼は人をやる気にさせるのが上手い。そう言われると、私もなかなか出来るんじゃないか、とか、頑張らなくちゃ、って気持ちになる。

「ひとつ聞いてもいい?」

松原くんが私に問いかけた。
それに対して頷けば、彼の唇が静かに開く。

「どうして急にマネージャーやる気になってくれたの?」

その言葉を聞いた瞬間。私の心臓はやっぱりドキッと嫌な感覚で高鳴った。…当然の疑問だ。最初からやる気があったのなら、あのファミレスの場で即答していただろう。それを暗に示唆しているような、質問。いつか聞かれることだろうとは思っていたけれど、まさかこんなに早く直球で尋ねられるとは思わなくて、喉が渇いた。それを誤魔化すように、髪をかき上げて視線を宙に泳がせる。

「……私…」
「うん」
「…あの後、弟と、喧嘩したの」

適当な言い訳を並べて誤魔化すことも出来たけれど、松原くんに対してだけはそれをしたくなかった。初めて鳴ちゃんの話を打ち明けたのが、松原くんだったからっていうのもある。彼なら受け入れてくれる気がしたのだ。
……でももし、本音を伝えることで軽蔑されてしまったら?
そんな不安がないわけではない。
それでも一度開いた口は、閉じなかった。

「弟は、私のこと、なにひとつ努力してないって。そう言ったの。……だから、見返してやりたいって……そう思った。私は、……私が出来ることは限られてるけど……それでも……鵜久森が…みんなが、甲子園に行けたら、…それは、私の努力になるんじゃないかって…。……鳴ちゃんを……弟を、見返せるんじゃないかってそう思ったの…」

胸に抱え込んでいた本音。口にしたところでちっとも晴れはしない胸の内。罪悪感は拭えない。沈黙が、私たちの間に横たわっている。松原くんはなにも言わない。ただ廊下を歩く私の上靴の音と、床と擦れる車椅子のタイヤが耳に届く。

「……それは」

松原くんがようやく口にした言葉。私はその続きを、ゴクリ、と唾を飲み込んで待った。そうして聞こえてきた松原くんの思いは、

「それはとっても悔しいね」
「……っ、怒らないの…?」
「怒る?なんで?」
「だ、…だって…なんか…私情で、野球部のみんなのこと、利用してる…みたい、だし…」

私が口ごもれば、松原くんは「大丈夫だよ」と微笑んだ。

「俺も似たようなものだから」

そう言って、彼は宙を見上げる。その顔は、今まで見たことのない類のものだった。まさに遠い目をしている。そんな感じで。ぼんやりと今じゃないーーいつかを思い出している。そんな、感じだった。

松原くんも私と似たような想いいかりを抱いてるんだろうか。そんなことを考える。

「成宮さん」
「…なに…?」
「神様はやっぱり不平等だよ。それにすごく意地悪だと思う」
「……うん」

その言葉は、いつかの夏の日に、私が松原くんに贈った言葉。やっぱり、という言葉を聞く限り、彼もそれを覚えていて改めて私に言ったんだろう。責められているわけじゃないだろうけれど、なんとなく松原くんの声は固かった。

「それでも俺たちは、その不平等を抱えてこれからも生きていくしかない。精一杯、現実を、生きていくしかないんだ」
「……うん」
「大丈夫だよ。成宮さんが頑張ってること、俺たちはよく知ってるから」

松原くんのその言葉に、私の視界は一瞬にして歪んだ。暖かさが胸に染み渡る。彼の言葉はいつだって力強く、私のお守りになるのだ。それを改めて実感させられて、潤んだ瞳を手の甲で拭った。

「……どうして…私だったの…?」
「え?」
「どうして、松原くんは、私を選んでくれたの…?」

宇宙に無数に輝く星のひとつを指差すように、松原くんは私を見つけてくれた。野球が嫌いだっていう私を、マネージャーとして入部させるまでに仕上げたのは松原くんだ。穏やかにゆっくりと、彼はそう仕向けた。裏がないはずはない。そうまでする価値が私にあるかどうかは疑問だけど……もしかしたら、鳴ちゃんの情報とか、そういうのが欲しいだけなんじゃないかなって。その可能性を考えなかったって言ったら嘘になる。

「…成宮さんを、鵜久森で見つけた時にすぐわかったんだ」
「……」
「俺たちは同じだって。そう思った」
「同じ…?」

松原くんの言葉に、ふっと足を止めた。

「今の現状を悲しんで、そして、怒ってる。……不思議だよね。昔は理解らなかったことが、この身体になってようやく理解できた。きっと環境は暖かい土で、他人の態度や言葉は養分なんだって。それが人を育てる。だから……俺は、君が咲かせる花を、見たくなった。昔みたいに。ただそれだけだよ」
「……私たち……あの図書館で会ったのが、初めまして、だった…よね…?」

まるで松原君は昔から私のことを知っているような口ぶりだった。抽象的な言葉ばかりが並んでいたけど、「昔みたいに」という言葉だけは明確に『過去』を指示している。だから確かめたかった。
だけどーー

「今は内緒。やっぱり俺ばっかり覚えてるんじゃなくて、満が思い出してくれないと俺も悔しいから」

松原君はそう言って、微笑むばかりだった。そして気づく。その途端、私の頬はじんわりと暖かくなった。

「えっ…あ……名前……」
「うん。梅宮に先を越されたのは悔しいけど、アイツはそういうところ上手いよね。だから俺も見習ってみた」

悪戯っ子のような笑みが、私を見上げている。そしてゆっくりと私に向って差し出される掌。

「改めて、マネージャーとしてよろしくね。満」

私はおずおずとその手を取る。指先が、彼の硬い肉刺の跡に触れた。春にこうして握手した時には気付かなかった存在。でも今なら理解る。目の前の彼は野球をやっていた。五体満足の身体で野球をやっていた過去がある。だからこそ、私は、私たちは…多分、随分昔に出逢ってる。

「…よろしくね、南朋くん」

ドキドキしながらその名前を呼べば、松原くん……ううん、南朋くんはとってもとっても嬉しそうに笑うから。私の心はやっぱりなんだかドキドキするんだ。ぎゅっと力が篭った掌。まるでそれと同時に心が掴まれるような、そんな感覚。


雪は降ってなかったけど、小さな小さな「ひとりの私」がこの瞬間産声をあげた。
一月五日。
十六歳の誕生日。
私は生まれて初めて、片割れじゃない誰かとーーお友達とこの日を迎えたのだった。