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四月。それは新しい出会いの季節。

「ねぇ、新しいクラスに格好いい子いた?」
「あーほら、松原君!野球部のマネージャーの…」
「わかるわかる、格好いいよねぇ。性格もいいし、優しいし…」
「でもさぁ松原君って彼女いるよね」
「え、そうなの!?」
「なんか、そうらしいね」
「私、去年松原君と同じクラスだったけど、一年の時から仲良かったよ、あのふたり」
「えっ、彼女って誰!?」
「ほら、あの子だよ」
「そうそう、あの子」

「「成宮満さん」」


「……っていう噂話が出回ってんぞ、おふたりさん!!」

目の前でその『噂話』を再現していた梅ちゃんが、私と南朋くんの顔を覗き込んだ。

三月の下旬から始まった春大のブロック予選。鵜久森高校はなんとか予選を勝ち上がって本戦のトーナメントに駒を進めたものの、三回戦敗退。とはいえのんびりしてる暇なんてない。本命の夏大はあっという間にやってくる。それに向けて、各学校の情報とか、保護者の方に頼んでおいた試合のビデオ撮影の映像の整理は私の仕事。その件を部活終わりに部室で南朋くんと顔を突き合わせて話込んでいたところに、突然の梅ちゃんのひとり芝居。ふたりして苦笑いだ。そんなことよりやらなきゃいけないことが山積みで、遊びに付き合っている暇はない。

「梅ちゃん、そんなことより早くズボン履いてよ…!」

私の言葉に、皆はゲラゲラと笑っている。梅ちゃんは「わーってるよ!」と唇を尖らせて、しぶしぶといった様子でズボンに足を通した。私はそれを見届けてから、南朋くんに視線を戻す。それからふうっと息を吐いた。

「付き合ってないのにね」
「まあ噂話だからね」
「元はと言えば南朋がバレンタインの時に、満以外のチョコレート全部断っちまったからだろ!」

梅ちゃんは私たちそれぞれに言い聞かせるように声を上げた。まあそんなこともあったなぁと思い出す、二月の話。南朋くんは梅ちゃんの言葉に首を傾げる。どうやら彼も、そんなことぐらいで、と思っているらしい。

「だってしょうがないだろ。チョコレート貰っても告白されても付き合えないんだから。だったら最初から貰わないのが一番だよ。その点、満はそういう下心まったくナシの『友チョコ』なんだから、それは断る理由なんてないだろ」

それにすごく美味しかったしね、と私に向って付け足してくれるあたり、やっぱり南朋くんは気遣いの人だ。私は照れて頬を掻いた。勿論私からの『友チョコ』は南朋くんだけじゃなくて、梅ちゃんにも、アーリーにもガッチャンにも公太くんにもジミーくんにもあげた。ようするに野球部みんなに、だ。その中には「今年は親からの一個だけじゃねぇ!!」と大喜びした人もちらほら。チョコレートひとつで大袈裟だなぁって笑ったのはいい思い出だ。

「南朋くんが私からのチョコレート受け取ったから、付き合ってるってことになってるの…?それなら梅ちゃんは、何人もの女の子と付き合ってることになっちゃうよ…?」
「だ〜か〜ら〜!ひとりだけっていうのが重要なんだろ!?」

梅ちゃんはーー私がそう言ったようにーー野球部で一番チョコレートを貰った。彼は友達が多いのだ。まあ中には本命も幾つかあるだろうけど、今のところ彼女が出来たって話を聞かないあたり多分梅ちゃんは気付いてない。

「だいたいお前らふたり、教室でもずっと一緒じゃねぇか。そりゃあ噂にもなるだろ」
「だって話さなきゃいけないことがたくさんあるんだもん」
「そうだよ。マネージャー同士の積もる話がたくさんね」

二年生に進級して、私は南朋くんと梅ちゃんと同じクラスになった。二年一組。余談だけど、エレベーターが近い教室はどの学年でも一組だ。だから多分南朋くんは三年生でも一組だろう。少し気の早い話だけど、多分秋の文化祭では南朋くんが指揮者で、梅ちゃんが伴奏者なんだろうなって勝手に考えてる。

「なんで女の子ってそういう話が好きなんだろうね」
「満ちゃんだって女の子じゃん」

アーリーが笑いながら指摘する。私はそれに対して苦笑いだ。

「私はそういうの、あんまり興味ない。それに一組の女の子たちって…なんだか去年のクラスの子たちより、騒がしいっていうか…」
「去年も賑やかだったよ」

これは去年同じクラスだったガッチャンの言葉。

「噂好き?」
「うん、そんな感じ」

南朋くんの的確な指摘に、私は頷いてみせた。そう、まさしく、噂好き。みんないい子たちばっかりなんだけど、まだ新学期が始まってそう日にちが経ってないっていうこともあって、なかなか親しい女の子の友人はいなかった。去年仲良くしてくれてた子たちとは、クラスが離れちゃったし。

「俺らにはだいぶ慣れたけど、基本が人見知りだもんな」
「…うん、まあ…そうだね。あんまり、話すのは得意じゃないから」

梅ちゃんの言葉もまた的確に私の性格を言い当てていた。
女の子は苦手だ。男の子はもっと苦手。私がこうして心を開いて話が出来るのは、今のところ野球部…というか足立ロケッツのみんなだけ。だってみんなとっても優しい。

「いいんじゃねぇの、慎ましくて」
「…つつましい、なんて。そんな難しい言葉知ってるんだね、梅ちゃん」
「お前なぁー!!」

ちょっと調子に乗って梅ちゃんのことを揶揄えば、その大きな掌で頭をグシャグシャっと撫でられた。…梅ちゃんは、基本的にパーソナルスペースがとっても近い。というか多分私のこと異性だって思ってないんじゃないだろうか。だって私が居ても普通に着替えて下着姿のままズボンは一番最後に着るし、それに対して躊躇しないし…なんて考えていると「俺としては」と目の前で私たちのやりとりを見ていた南朋くんがゆっくりと口を開いた。

「ふたりの方が付き合ってるように見えるけどね」

にっこり。まさにそんな感じ。目の前で私たちのやりとりを見ていた南朋くんはすごく笑顔だ。その瞬間、部室に変な沈黙が流れる。

「怒ってらっしゃる」
「怒ってるよね」
「怒ってる」

みんながそれぞれ南朋くんと、そして私と梅ちゃんを見る。

「嫌だなぁ、俺だってちょっと揶揄ってみただけだろ。冗談だよ」
「南朋くんのはなんか本気っぽいんだって」

南朋くんはお道化るように肩を竦めた。それに突っ込むのはアーリーだ。途端に、そうだそうだ、とみんなの大合唱が始まるものだから、雰囲気はすぐにいつも通りになった。私は男の子たちの和気藹々とした雰囲気を横目に、そっと息を吐く。なんだか最近、こういうことが増えた。南朋くんと私は本当に付き合ってないし、私たちの間にあるのは友情だって信じてるけどーー思い出すのは、年明けしてすぐのあの日のこと。私が正式に野球部に入部したあの日。南朋くんとふたりで廊下を歩いて、そして握手した時のこと。

ーー俺ばっかり覚えてるんじゃなくて、満が思い出してくれないと俺も悔しいから

南朋くんのあの言葉。あれ以来、…なんていうか、それまでとは別のベクトルで強引というか…さっきみたいなことを言うことが増えた。だから必然的に私も色々と考えてしまうのだ。



「南朋が満のこと気に入ってんのは確かだけど、アレはどっちかっつーと俺に対しての報復だな。先にお前らのこと揶揄ったのは俺だしよぉ」

高校から最寄り駅までの帰り道。だいたいいつも誰かが送ってくれる。今日はタイミングが良いのか悪いのか梅ちゃんの番だった。私が「南朋くんのアレ、本当に冗談だったのかな…?」って尋ねたら返ってきたその言葉。梅ちゃんはポリポリと頬を掻きながら、空を見上げている。

「…そうだよね。なんだか、自意識過剰すぎた。ごめん、梅ちゃん」
「満が南朋のこと好きなら話は別だけど、お前らそういうんじゃねぇだろ?」
「うん、友達」
「だよなー」

勿論、梅ちゃんとだって友達だし、野球部のみんなだってそうだ。そもそもそういう感情は、私には早すぎるし、目指す場所の為には要らないものだって理解してる。それは南朋くんだってそうだろう。だけど彼には思い出してもらいたいことがある。…だから、思わせぶりなこともいうのかもしれない。その度に私は、わたわたする。……コミュニケーション能力が高いとは言えない私にとっては、難しい問題だった。

「満はいま、恋愛のことより、弟のことで頭いっぱいだろ」

そう言って梅ちゃんは、また私の頭をグシャリと撫でる。…だから、多分、そういうところを南朋くんは注意してるんだよって言いたかったけど、口には出さなかった。慣れてしまったのもあるかもしれない。それに、弟、という言葉に私の眉間には皺が寄る。

「…まぁね……」
「まあ、弟があの成宮鳴だもんな」

その名前を聞いた瞬間。私は勢いよく、梅ちゃんの顔を見上げた。梅ちゃんもまた私を見た。その表情にはどっからどう見ても「しまった…!」と書いてある。私は梅ちゃんの左目の下にある傷痕を見ながら、ゆっくりと口を開いた。

「……知ってたの…?」
「………」
「…私の弟が、成宮鳴だって、知ってたの…?」
「……あー………知ってたよ。みんな知ってる」
「南朋くんも…?」
「…おぅ」

梅ちゃんの言葉に、私は思わず足を止めて、ガックリと肩を落とした。ショックだったし、なんだか決まりが悪い。

「……やっぱり、成宮鳴の姉だから私にマネージャーになって欲しかったのかな…?」
「それは違ぇ!!」

梅ちゃんはハッキリ、きっぱりと、断言した。その言葉はすごく真っ直ぐだ。そして私の肩を掴んで、顔を覗き込んでくる。

「お前は成宮鳴の姉である前に成宮満だろ」
「……うん」
「俺たちは…人見知りだけど、意外と頑固で、一度決めたら最後までやり通すそんな成宮満だからこそマネージャーになって欲しいって思ったんだよ…!」
「……うん」

梅ちゃんの言葉はいっつも一直線。真っ直ぐ、私の心に届く。鳴ちゃんのナイフで抉られた私の心臓を大きく包み込むような絆創膏みたいな、彼の、真っ直ぐな気持ち。私はゆるゆると揺れる視界で梅ちゃんの表情を捉えた。彼の指先が、私の目尻にそっと寄り添う。零れ落ちそうな滴を、拭った。

「確かに成宮鳴は才能あるヤツだと思うけどよぉ…それを言うならうちの南朋の方が絶対…」
「……梅ちゃんは、鳴ちゃんに会ったことあるの…?」

彼の言葉を遮って、私は尋ねた。梅ちゃんはその問いに、おぅ、と小さく頷く。

「リトルん時にな。何度か試合した」
「……じゃあ、私たち、その時に…会ってたかもしれないってこと…?」

鳴ちゃんのリトル時代は、私も殆どの試合に同行してた。朝からお母さんとお弁当を作って、試合中はお父さんにスコアを書く手ほどきを受けたりしながら過ごしていた週末。遊びに行った記憶なんてない。いつもいつも野球。まだ鳴ちゃんのそばにいようと頑張ってしがみついていた幼い頃の記憶が、頭の中にどっぷりと流れ込んでくる。

「…まあ会ってるっていったら会ってることになんのか?…でも直接喋ってはねぇし…俺は全然覚えてねぇけど……だけどさ。南朋はお前のこと覚えてたよ、ずっと」
「……そうなの…」

それが、南朋くんが私に思い出して欲しい情景なんだろうか…。だけど考えても考えても、昔のことは思い出せない。辛い記憶が多すぎる。頭に白い靄がかかったーーそんな感覚。南朋くんはやっぱり私が思い出せないって知ったらがっかりするだろうな。そう考えて、また少し眼球に薄い膜が張った。

「別に南朋は責めねぇよ。そんなヤツじゃねぇだろ」
「…うん」

ーー君が咲かせる花を、見たくなった。昔みたいに。


梅ちゃんの言葉に頷きながら、頭を駆け巡るのはやっぱり南朋くんの言葉だった。私は南朋くんが知る『昔』に、どんな花を咲かせていたんだろう。そう考えてもーーやっぱりちっとも、ちっとも思い出せなかった。