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どうか神さま。
私の心をごらん下さい。
こんなにむなしく命をすてず
どうかこの次には
まことのみんなのさいわいのために
私のからだをおつかい下さい。


ーーそれは?
ーーサソリ座の話…。銀河鉄道の夜って作品に出てくるの。
ーーそうなんだ。


ーー弟は本なんてちっとも読まない。いつも野球ばっかり。
ーーでも野球も楽しいよ。
ーー私はちっとも楽しくない。去年、甲子園?に行ったけど、全然。鳴ちゃんは楽しそうだったけど。私は、本当は岩手県に行きたかったの。だけどお父さんもお母さんも、鳴ちゃんのお願いばっかりニコニコ笑って叶えてあげるんだよ。
ーーでもこうして、今年は岩手に来てるじゃないか。きっとお父さんもお母さんも悪かったって思ってるんだよ。子供のことが嫌いな親なんていないよ。


ーーともくん、私はね、きっとサソリなの。
ーーサソリ?
ーーうん。私の前世はきっと、大悪党で、悪いことばっかりしてたんだと思う。だから、神様は私と弟を『はんぶんこ』に産んだんだよ。今度はみんなの…弟のさいわいのために、生きなさいって。そう言われてる気がする。
ーー満ちゃんは本当に想像力豊かだね。
ーー……そんなこと、初めて言われた。


ーー満ちゃんは料理が上手だよね。手慣れてる。それに俺の知らない本の話もたくさん知ってる。すごいなぁ。
ーーでも、私は…野球を『もって』ないもん…
ーー確かに野球は楽しいし、俺は好きだけど。でも人生それだけじゃないよ。野球でプロになるなんて、宝くじに当たるようなもんだしね。きっとこれからの人生、満ちゃんの方が幸せだよ。
ーーそうかな…
ーーそうだよ。それに誰かの幸せを願えるのは、本当に、本当にすごいことなんだよ。



降りそうな幾億の星の夜。満天の星空の下、誰かが私にそう言った。きらきらひかる、ひらひら消える。指差す先は、何億光年も遠い恒星。

ーーともくんに会えて、私、本当に良かった。ありがとう。絶対、今日のこと、忘れないよ。
ーーうん、俺も、忘れない。



「…っ、」

ゆるゆると目蓋を開ければ、耳に届くのは、昨晩セットした携帯のアラーム。そして頬を濡らす涙。覚醒する意識が、先程まで見ていた夢の映像をサラサラと手放していく。私はそれを必死に掻き集めようとするけれど、駄目だった。
唯一覚えているのはーー

(……ともくん……)

そうだ。ともくん。思い出した。


小学六年生の夏休み。私は都が主催する小学生向けのサマーキャンプに行った。さっきまで見ていた夢は、まさしくあの時の光景だ。それに気づく。

鳴ちゃんは野球の練習だか試合があって、サマーキャンプには行かなかった。だから私は、あの時ひとりだった。
二泊三日の宿泊行事。場所は岩手県。今思えば、多分親の罪滅ぼしだったように思う。前年の夏休みは私の希望を叶えられず、兵庫県への旅行だったから。だから、私が学校に掲示された参加者募集のチラシを見てサマーキャンプに行きたいって突飛なことを言い出しても、特に反対はされなかった。

キャンプには、東京都にあるいろんな小学校から、いろんな子がやってきた。ともくんもそのうちの一人だった。
記憶の中のともくんの顔は朧気だ。でも彼が随分優しかったのは覚えている。

キャンプではみんながニックネームで呼び合ってた。ともくんも、勿論ニックネームだ。初日のオリエンテーションで、私はともくんと同じ班になった。サマーキャンプの三日間、この班で行動する。みんなの自己紹介を聞きながら、私はずっとドキドキしていた。人見知りなのは昔からだ。

「     です。よろしくお願いします」
「  ? 名前一緒だね」
「ほんとだ。このままだったらややこしいね」
「じゃあさ、名前の一文字からとって”とも”でよくねぇ?」
「うん、それでいいよ」

そんなやりとりがあって、ともくんはともくんになった。本名はよく覚えていない。
男女それぞれ三人ずつの六人班。ともくんの本名のように、殆どの子のことは覚えてないのに、どうしてだか私はともくんのことだけはよく覚えている。
彼は優しかった。
何度も言うけれど、本当に優しかった。
私の知ってる男の子はーー鳴ちゃんをはじめとして、みんな『男の子』らしかったけど、ともくんはちょっと違った。彼は穏やかで、頭が良くて、なんでも知っていた。でも料理はちょっと苦手。夕食のカレーを班のみんなでつくるっていう時に、彼はしきりに「満ちゃんはすごいなぁ」って言ってた。

「全然すごくないよ…お母さんがね、女の子なんだからこれぐらい出来なきゃ、駄目だって…」
「手伝いに男の子も女の子も関係ないのにね」
「……うん。私も、そう思う。でも私ばっかり、なんだ。弟はお手伝いしなくても、全然怒られないの…」
「…弟がいるの?」
「……うん、双子の、弟」

私と、ともくんは、いろんな話をした。私のお父さんが野球が好きで、弟の鳴ちゃんが野球をやってるって言ったら、彼もまた野球をやってるって教えてくれた。だけどともくんは鳴ちゃんみたいに、私に野球の話ばかりをしてくるんじゃなくてーー私の好きな話をしてくれた。好きな本の話。好きなお菓子の話。ともくんはとても博識だった。

「調べることが好きなんだ。それを実践することも好きだよ」
「頭いいんだね」
「そんなことないよ」

そんな風にともくんは謙遜したけど、でも多分本当に頭が良かった。サマーキャンプに来る理由は人それぞれだけど、彼は私立の中学校を受験するって言ってた。面接で課外活動の話をするためだって。だからここに来たんだって、そう言ってた。

二日目の夜。宿泊施設の敷地内をぐるりと取り囲む森の中でちょっとした肝試しのような、イベントがあってーーそして、私とともくんは道に迷った。地図を持ったーーともくん以外の班の男の子ふたりがふざけて、先に行ってしまったのが原因。女の子たちはそれを追いかけて、あっという間に姿が見えなくなって……私もそれについていこうとして、転けてしまった。ともくんは直ぐに私を起こしてくれたけど、私のせいで置いてけぼり。ともくんが手に持った懐中電灯が足元の山道を照らす。

「ごめんね、ともくん」
「大丈夫だよ」

ともくんはやっぱり優しかった。

私たちは道中、いろいろな話をした。覚えているのは、サソリの話。木々が生茂る隙間から見えた星空があまりにも綺麗だったから、そんな話になったんだろうか。とにかく私は大好きな『銀河鉄道の夜』の話をした。ともくんはその話を「うん、うん」と頷いて、聞いてくれていた。

そのうち歩き回っても、歩き回っても、ゴールに辿りつかないことに気がついた。おかしいなって顔を見合わせて、道の途中の切り株にふたりで腰を下ろす。

「そのうち大人の人が心配して探しに来てくれるよ」
「…そうかなぁ…」
「そうだよ。カントクギムがあるからね」

ともくんは、なんでも難しい言葉を知ってた。ホーホーとフクロウみたいな鳥の声。暗いところは怖くて堪らなかったけれど、どうしてだかこの時は平気だった。どうしてだろう。ともくんが隣にいてくれたからかな。それでも、時間が経つにつれて心細くなってきた私は、口を開いて自分の思いを紡いでいた。

「きっとこのまま…私がいなくなっても、お父さんもお母さんも悲しまない。……これが鳴ちゃんだったら、きっと大騒ぎ」
「そんなことないよ。満ちゃんのことだって大事だよ」

ともくんの言葉は暖かくて、真っ直ぐだった。だけど私は思い知る。

「努力すればきっとなんだって上手くいくんだ。野球だってそう。満ちゃんが好きな料理だってそうだよ。神様はいつだって誰に対しても公平で、俺たちのことを見てくれてるよ」

それを聞いて私は、ともくんも選ばれた人なんだなぁって思ったのだ。だから私はーー気がつけばポロポロと涙を溢していた。嬉しかったんじゃない。私は悲しかったのだ。どれだけ話をしても、私の気持ちを理解してくれる存在は現れない。そう思い知らされたからーーだから、私は、ついさっき口にしたばかりの「絶対、今日のこと、忘れないから」って約束を反故にした。忘れてしまおう。その瞬間、決めたのだ。そう考えたら、さっきまで暖かかった胸に、途端に冷えた感覚が広がった。それだけは、未だに覚えている。


結局、そのあと。
ともくんがそう言ったように、大人の人たちが私たちを見つけ出してくれた。三日目の朝早くに修了式を終え、私たちは東京に戻った。

私が帰ってきても、サマーキャンプはどうだったかなんて訊ねなかった両親。食卓の話題は鳴ちゃんが試合でいかに活躍したかとか、そんなことばかりで。涙で枕を、濡らした夜。私は夏のひとときの思い出に鍵を掛けた。だから、自分でそう決めたように今の今までともくんのことを忘れていたのだ。

胸に残った痼り。私の過去はそんな苦いデキモノばかりで構成されている。

……どうして今更思い出したんだろう。考えても、考えても…理由なんて思い浮かばない。確かなことはーー、今日が第89回全国高校野球選手権大会東西東京大会の開会式の日だってこと。

そして、夢の中のともくんが、南朋くんに似てたってことだけだった。