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「梅ちゃん、トイレ行った?」
「行った、行った!」
「ちゃんと手洗った?」
「洗ったっつーの!」

お前は俺の母ちゃんかよ!という梅ちゃんの言葉に私は思わず顔を顰めた。南朋くんがいつかそう形容したようにナーバスなところがある梅ちゃんは意外とお腹が弱い。大事な開会式で緊張してるんじゃないかって心配してどうやら口煩く言い過ぎたようだ。人の好意を…と思ってしまうけど、でも確かにちょっと口煩かったかも。なんて考えていると、「梅宮」と南朋くんが梅ちゃんの名前を呼ぶ。

「満は心配してるんだよ」
「だーかーらー!わかってるっつーの!」

梅ちゃんと南朋くんは相変わらずだ。うまく言葉にすることが出来ないけど、本当に相変わらず。そんなふたりと私の関係を、野球部のみんなは「どっちとくっつくか」なんて言葉で揶揄うのだ。半分以上、ネタだろうけど。だから今も笑いながら私たちのことを見守っている。

「みんな、暑いから倒れないようにね」

私たちの夏が、これから始まる。この先に待ち受けるのは、戻れはしない一本道だ。それぞれの理由を胸に私たちは進んでいくしかない。

「満もね、いくら観客席って言ったって暑いんだから」
「大丈夫だよ。私より、監督が心配…」
「あーーまぁな。じいちゃんだもんな」

私たちが一斉に吉本先生を見れば、先生は震える手でグッと握り拳を作った。その姿にふっと場の空気が緩む。なんだかんだと緊張していたみんなの顔に笑顔が戻ってきた。これがこのチームのいいところだ。

しばらくして選手たちに召集が掛かった。みんなが一斉にゾロゾロと歩き出す。私と南朋くんはみんなを召集場所まで見届けてから、それから外野席に行く予定だ。外野席にしか車椅子の席がない。

「満」
「どうしたの、南朋くん」

みんなと別れてから、南朋くんが急に私の名前を呼んだ。

「…緊張してる?」
「……どうして?」
「なんか今日、朝から様子がおかしかったから。それに、……」
「鳴ちゃん?」
「うん、そう」
「大丈夫だよ。人前で喧嘩なんてしないから」

私は笑った。南朋くんに言ったことは本当だ。この神宮球場にいるだろう鳴ちゃんともし鉢合わせしたところで、大晦日みたいな大喧嘩をするつもりはなかった。向こうはどうか知らないけど……だけど鳴ちゃんだって稲実のユニフォームを着てる限りはそんな馬鹿なことしないだろう。そう思う。家族の中で、自分がどう見られてるかっていう外面を一番気にするのは鳴ちゃんだ。せいぜい反応があっても、無視だろうなって思う。

「南朋くん」

今度は私が南朋くんの名前を呼ぶ番だった。

「私はやっぱり神様って不公平だと思う。公平な神様って、いないよ。神様はわたしたちのことなんか見てないよ」

思い出したあの夏の日にともくんがくれた言葉を借りて、試すようなことを言う。それを聞いてほんの少し目を見開いた、南朋くん。なんで今そんなこと言うんだ。そう顔に書いてある。

「だからこそ私たちは甲子園を目指すんだよね」

私の理由いかりを知ってるのは、南朋くんだけだ。だから確かめたかった。最終確認。私がここにいることをそれでも認めてくれるのかなって。確かめたかった。

「もちろん、そうだよ」

梅ちゃんの言葉を借りるとーーくそったれな神様。見てますか。貴方に選ばれなかった私たちは、自分たちの足で山のてっぺんを目指します。

「最後に笑うのは、俺たちだ」

その言葉を聞いて、私は大きく、うん、と肯く。やっぱり似てるけど、違う。南朋くんはともくんじゃない。だって南朋くんもまた胸に大きな大きな理由いかりを抱いている。そう思ったから、今日見た夢の話はしなかった。



「あ、」
「あ」
「久しぶり」

開会式は無事に終了し、みんなと合流するために南朋くんと、開会式前にいた場所へ戻る道すがら。見知った顔とばったり出くわした。何年ぶりだろう。すっかり大きくなったその姿に、私は彼の顔を見上げて、口を開いた。

「……久しぶり…、一也くん」

一也くんーーこと、御幸一也くんは鳴ちゃんの昔からの知り合い。鳴ちゃんが昔から頭に思い描いていた稲実ドリームチームの一員だったけど、彼の今着ているユニフォームはどこからどう見ても国分寺市にある『青道高校』のものだった。

「鳴がぼやいてたけど、マジで野球部のマネージャーやり始めたんだ?」
「うん、まぁ…相変わらず鳴ちゃんと仲良しだね」
「仲いいっつーか…こないだ練習試合で顔合わせただけだよ。そん時に聞いたんだけど…高校どこだっけ?」
「足立区の鵜久森高校。東東京だよ」
「ふうん」

親しげに話をする私たち。南朋くんは私を、青道高校の人たちは一也くんを見る。

「神聖な開会式でナンパか?!御幸一也…!」
「ナンパじゃねぇし、鳴の姉ちゃんだよ、双子の。あと俺センパイな」
「?! 稲実のシロアタマの?!」

その途端、空気が一変したのを肌に感じた。好奇な視線が集まる。でもそんなことよりも、私は元気いっぱいって感じの男の子が口にした言葉に、首を傾げる。

「シロアタマ…?」
「鳴のこと」
「シロアタマ…」

思わず笑ってしまった。そうか、シロアタマ…確かにね。

「満、そろそろ行かないと」
「うん、そうだね。じゃあ、一也くん、またね」
「おー」

昔馴染みと言っても、そこまで親しいわけじゃない。別れは実にあっさりしたものだ。一也くんたちとは反対方向ーー南朋くんと目的の方向へと歩き出す。

「江戸川シニアの御幸と知り合いだったんだね」
「うん、まあ…鳴ちゃん繋がりでね」
「弟にマネージャーやるって話したの?」
「ううん。お正月以来会ってないから、直接は話してないよ。きっとお母さんが話したんだと思う」

そんな会話をしながら歩いていたその時。

「満?」

名前を呼ばれたので、足を止めた。南朋くんもまたそれに合わせて、車椅子のタイヤを動かしていた手を止める。

「あっ、…俊樹くん」
「久しぶり」
「久しぶり、…元気だった?」
「まあな。つーか、マジでマネージャーやってんだな」

真っ白いユニフォームに身を包むーーさっき話をした御幸くんよりもうんと背の高い男の子。浅黒い肌。端正な顔立ち。神谷カルロス俊樹くん。その横には、

「成宮のガセかと思った」
「…白河くんも、久しぶり…」
「…ああ」

俊樹くんと同じユニフォーム姿の白河勝之くん。挨拶の言葉に、彼は小さく顎を引くにとどまる。相変わらずだ。余談だけど、私は白河くんが苦手。多分、白河くんも私のことがあんまり好きじゃない。その点、俊樹くんは優しいから話しやすかった。

「……マネージャーのこと、鳴ちゃんから聞いたの?」

一也くんもそう言ってたから確実だろうけど、私は俊樹くんに尋ねた。

「アイツ、しばらく大荒れだったぞ。まー苦労したわ」
「そっか…ごめんね、迷惑かけて」
「坊やだから仕方ねぇよ」
「あとシスコン」

付け加えるような白河くんの言葉に、私はそうだろうかと内心首を傾げる。私が野球部にマネージャーとして入部したことで鳴ちゃんが怒り狂う姿は想像出来たけど、それは単に「野球が嫌い」と理由をつけて「自分を選ばなかった」片割れが、当て付けのように「野球を選んだ」からに違いない。鳴ちゃんはとにかくなんでも自分の思い通りにしたがる質だし、事実いままでそういう風に生きてきた。育てられてきた。私が今更その枠から外れて思い通りにならなかったから怒ってるだけだ。

ーー大っ嫌いだった!!!

あの夜、投げ掛けられた言葉がふいに蘇り、胸をざらりと撫でる。

「さっさと行かないと、成宮が戻ってくるぞ」

暗に、こんなところで修羅場は御免だ、と言っているんだろ。私は白河くんの言葉に頷いて、ふたりに別れを告げた。そうしてまた南朋くんと歩き始める。しばらくすると梅ちゃんたちの姿が見えた。そこでようやくホッと息を吐く。そんな私を見て、南朋くんは苦笑い。駆け寄ってきた梅ちゃんが、そんな彼の様子に首を傾げる。

「なんかあったのかよ」
「いや…ただ…」

南朋くんは困ったような表情で、梅ちゃんを見上げて、それから私を見た。

「満は野球部ホイホイだなと思って」
「野球部ホイホイ…?」
「なんじゃそりゃ」

抽象的な言葉に、梅ちゃんは屈託のない笑顔を浮かべる。

「野球部ホイホイ…」
「満が自分で気付いてないだけだよ。妬けるなぁ」

南朋くんが言わんとすることを理解出来ず、首を傾げた。ただ「やける」という言葉が「焼ける」じゃなくてジェラシーの方の「妬ける」ということだけは文脈から理解する。南朋くんはやっぱりよくわからない。わからないけど、その言葉を聞いて朱色に染まる私の頬の方がまったく意味不明だ。

「梅宮、とにかく満の人脈は俺たちが考えてるよりウンと広いってことだよ。これからたくさん有効活用させてもらうからね」

そう言ってパチンとウインクした南朋くんは、遥か先を見据える鬼マネージャーの顔をしてたから……私はやっぱりすごい人に『見つけられ』ちゃったんだなぁと実感するのだった。