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きっとそれはそれは、華々しく壮大な交響曲に違いない。例えばヴェートーヴェン交響曲第九番第二楽章のような。対して私を象徴するものといえば、物悲しいメロディー。まさに悲劇。呆気なく夏が終わりを迎えてから、私は毎晩絵画のオフィーリアのごとく眠り、そして朝日が昇るたびに陰鬱な眠りから目を覚ます。

鳴り響く携帯のアラームを止めて、のっそり、起き上がった。ベッドから這い出るように抜け出して、一階のリビングへと降りる。シンと静まった家。お父さんとお母さんは、三日前から留守だ。「21日まで戻らないぞ」と満面の笑みで私にそう言ったお父さんの言葉通りになった。自分ひとり分の朝食を用意して、ダイニングテーブルに座ってそれを食べる。ひとりきりは気楽だ。お父さんの能天気な話を聞かなくて済むし、お母さんの腫れ物に触るような態度にショックを受けることもない。ただ今日という日が終わったらーーそれを考えると、とにかくとんでもなく憂鬱だった。


人の機嫌や調子には波がある。いい時と、悪い時。私は落ち込むと、それを随分長引かせる。もうこの状態になって半月以上じゃないだろうか。それに追い打ちをかけるような……怒涛の一週間。出口の見えないトンネルにいる気分だ。どうしたって神様は、私に辛い思いをさせたいらしい。

「満、おはよう。ちゃんと朝ご飯食べたの?顔色悪いよ」

朝一番、朝練で顔を合わせた南朋くん。彼が指さす私の顔は、やっぱり彼がそう言うように随分酷い有様なんだろう。私は、小さく、うんと頷いてみせた。

「食べたよ、ちゃんと」
「眠れてる?」
「……あんまり」
「駄目だよ、ちゃんと眠らないと」
「わかってるんだけど、眠れなくて…」

その言葉すら、口の中でモゴモゴと転がして、小さな声となって現れただけだ。南朋くんはそんな私の姿に一層眉を下げる。

「みんな前を向いて新チームで頑張ってるんだから、マネージャーの満がそんなに落ち込んでちゃ駄目だろ。先輩たちも心配してるよ」
「……うん、ごめんね」

鵜久森高校野球部、夏大ベスト16。それが、私が覚悟を決めて臨んだ結果だった。頑張ったじゃない、というお母さんの言葉も、鵜久森もなかなか強いな、というお父さんの言葉も、正直右から左だ。一番頑張って、辛い思いをしたのは選手達だって理解している。私はグラウンドにすら立ってないし、ベンチにも入ってない。その瞬間を観客席でただ呆然とうなだれて迎えただけ。だから正直、自分でもこれだけ落ち込むとは思ってなかった。夏が終わって数日は、これからの秋大に向けて新しいチームで頑張ろう、と自分を鼓舞してなんとか精神の高い波を維持していたけれど………八月を迎えて、テレビや新聞で片割れの名前を目にするようになってから、それはハサミでチョキンと一思いに断ち切れたようにダラリと垂れ下がった。

都のプリンス。
鳴ちゃんフィーバー。

まさに全国的な熱狂、旋風を巻き起こした私の片割れは、今日ーー夢にまで見た全国制覇を成し遂げるに違いない。そしてきっと私の目の前に、それ見たことか、と相変わらず尊大な態度で立ちはだかるのだろう。
それを考えると、とてもとても憂鬱で、食べることも寝ることも、その全てが億劫だった。



「美味いもん食って寝ればだいたい治る。久しぶりにファミレス行くか?」
「…私、梅ちゃんみたいにノーテンキになりたい…」
「やだよ、梅宮みたいな満なんて」
「お前らふたりともマジで…」

マジでなんだというのだろう。朝練が終わって、3人で2年1組の教室に向かう。まだ夏休みだけど、今日は登校日だった。いつもはシンと静かな校内が賑やかだ。

「まあ、満のネガティブは今に始まったことじゃないだろうからしょうがないけどね。でもやっぱり見ててこっちも辛いよ。これからの満の人生を考えると大変だろうなって思う」
「……うん」

南朋くんの言葉は厳しいけど、的を得てるし、それに私のこの先の人生のことまで考えてくれてるって思うと…なんだか気恥ずかしかった。少なくとも、野球部のみんなの前ではキチンと立ち直らないと、と思う。

「がんばる」
「ゆっくりね」
「うん」

吉本先生のガッツポーズみたいに弱々しいそれを披露したら、南朋くんも梅ちゃんも、苦笑い。でもちょっとばかり空気が軽くなった。少しずつでいい。私には私のこと理解してくれる仲間がいる。そう考えたら、自然と笑みが浮かんでいた。

そんな風に、三人でいつも通り、まあなんとか和気藹々といった様子を取り戻して教室の扉を開けた瞬間。ざわり、と空気が揺らいだ。そして幾つもの視線が私に突き刺さる。

「…っ、?」
「なんだ?」
「おはよう、どうしたの?」

南朋くんが挨拶すれば、みんなが同じように「おはよう」と言葉を返したけれどーーそれでも私への視線は張り付いたままだ。
……好奇な、目。私はこれを知っている。知りすぎている。思わず掌をギュッと握りしめた。

「成宮さんって鳴ちゃんと双子なの?!」

その言葉を聞いた瞬間。私の身体はまるで冷水を頭から被ったように一瞬にして冷え切った。足がガクガクと震える。言葉が出てこない。強く、強く、唇を噛む。

「は?」
「……ああ…」

南朋くんと梅ちゃんも、私を見た。困惑と、混乱、そして同情といったようなーー言葉にすることの出来ない感情が、その目に浮かんでいる。ついにこの時が来てしまった。私はやっぱり、何も言えない。話せない。
さっき突然、爆弾を落とした女の子はーークラスの中でも一番明るくて可愛らしい子だった。付け加えることがあるとするならば……とんでもなく噂好き。ゴシップ話はいつも彼女の口から産まれていると言っても過言ではない。いったいどういう情報経路を持っているのかは不明だけれどーー考えてみたら、私の同級生には同じ中学校からの進学者はいなくても先輩、後輩にはいるのかもしれないというひとつの事実に行き着く。
だって、梅ちゃんや南朋くんたちだって、知ってたのだ。私に気を使って、言わなかっただけ。聞かなかっただけ。

ーーめいちゃんとみつるちゃんって、ぜんぜんにてないね

ーー信じられない。野暮ったすぎでしょ

ーーお姉ちゃんが大きく生まれてもなぁ

私が過去に浴びた悪意が、まるで打ちつける通り雨のように心を痛ぶった。

ーー昔から大っ嫌いだった!!!

鳴ちゃん。
貴方はそう言ったけど、私だって、こんな自分が大っ嫌いだよ。消えてなくなりたい。ここじゃないどこか遠くへ…遠くへ……。


そうして気づけば私はくるりと踵を返して、騒がしい廊下を走っていたのだ。それに気づいたのは、「待てよ!!」という言葉と同時に強い力で腕を引っ張られたことだ。ガクンと身体が後ろに下がる。

「逃げんな!!!」

梅ちゃんが私の肩を掴んで、吠えた。その大きな声に、どうしたどうした、と野次馬の視線が集まる。

「っ、〜〜!!!」
「別にただ普通にアイツと双子なのかって聞かれただけだろ?!なんで逃げんだよ!!!」
「…ぁ…」
「そうやってずっと逃げんのか。そうやってずっとこれからも逃げて生きんのか?!」
「梅ちゃんには私の気持ちなんてわかんないよ!!!!」

初めて学校で大きな声を出した。そしてありったけの力で梅ちゃんの手を振り払い、眼鏡のレンズ越しに彼を睨み付ける。不毛な睨み合い。梅ちゃんは怒ってる。その鋭い瞳に私は思わず怯みそうになったけど、でも私だって怒ってた。とてもとても怒ってた。その感情を梅ちゃんにぶつけるのはお門違いだろうけれどーーそれでも私の怒りは治らなかった。

「親に弟よりも健康に生まれたところで意味ないって言われたことある?!弟に全然似てないって影で悪口いわれたことある?!弟のために好きでもないことを頑張ってきたのに認められなくて挙げ句の果てに努力してないだろって言われたことあるの?!そういうこと全部、そういう私の気持ち全部、梅ちゃんはわかるの?!」
「わかんねぇよ!!!!」

梅ちゃんは、私の言葉をすぐに否定した。そうしてその声は、勿論私よりも何倍も大きかった。鼓膜がビリビリと振動する。思わず顔を顰めた。その拍子に、やっぱり私の頬には涙が伝う。

「俺には!お前の気持ちいかりも!!!南朋の気持ちいかりもわかんねぇよ!!経験してねぇからな!!??だけどお前らのことまとめて助けてやりたいって思うだけじゃ駄目なのかよ!!!!」

彼の言葉はやっぱり、どこまでも真っ直ぐだ。……だから、辛い。今の私には、とんでもなく、真っ直ぐ過ぎてーー眩し過ぎて、辛いのだ。

私は気がつけばまた走り出していた。好奇な視線を振り払うように、ただガムシャラに、前だけを見て、走っていた。そんな私の背中に「俺たち仲間だろ!!!!友達だろ!!!!」って言う梅ちゃんの言葉だけが、矢のように突き刺さった。それでも私は、やっぱり立ち止まることも振り返ることもーー出来なかったのだった。