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期待をして、無くなるものって分かってるなら、最初っからいらない。

(そう、思ってたのにな…)

空を見上げる。入道雲。夏の空だ。予鈴が耳に届く。それでも私の身体は、中庭のベンチから離れることはなかった。ダラリと背もたれに身体を預けるように座って、眼鏡を外したて目元をハンカチで拭う。

梅ちゃんは、とても怒ってた。当然だ。

(飼い犬に手を噛まれるって感じかな…)

自分でもネガティブすぎるだろうと思ってしまう喩えに息が漏れる。友達だって仲間だって言ってくれた人を無慈悲にも置いてきたのは自分だ。ずっとそういう人を求めていたっていうのに……いざ、そんな存在が出来たところで私自身がなにも変わっていないんだから、うまくいくわけがない。

「……これからどうしよう…」

初めて授業をサボった。戻ろうにも気まずくて戻れない。幸い、鞄は肩に掛けて握りしめていたから手元にある。…自宅に帰っても、両親はいない。甲子園に行ってるから留守だ。早退しても気づかないだろう。そもそもまだ高校生の娘ひとりを置いて四日も家を空けるなんて信じられない。私が親だったら…そう考えて、また涙が溢れてくる。

お父さんも、お母さんも…私のことが嫌いなんだって、何度も思った。
だけど世の中にはもっともっと悲惨な家庭があることを、私は知ってる。虐待されてるわけでもなければ虐げられてるわけでもない。むしろふたりは私がやりたいってことを否定せずになんでも受け入れてくれていた。それを悲観的に捉えていたのは私自身だ。
傍からみれば、幸せな家庭なんだろう。そして私は親に愛された子供なんだろう。だって別に鳴ちゃんのサポートをしろってお父さんに言いつけられてきたわけじゃない。その道を選んだのは自分自身だ。私が、両親に、私自身を見て欲しくて、鳴ちゃんよりすごいって言ってほしくてこの道を歩んできたのだ。

ーー鳴ちゃんは悪くない。
悪いのは、私だ。私が全部悪い。
こんな私はいなくなった方が、みんな幸せだろう。

「消えてしまいたい…」

消えてしまいたいのだ、本当に。跡形もなく。
私がいてもいなくても、世界は回る。時計の針が止まることはないのだから。
そうだ…本当に、いっそ…いっそ……

「満」

聞きなれた声に、私は肩を揺らした。気まずくて後ろを振り返ることが出来ない。ただ黙って俯いてくまま。そんな私の耳に、車椅子の車輪の音が届く。

「南朋くん…」

力もなく呟いた。
南朋くん、私はもう駄目だよ。どうしても、もう駄目だ。自分でも何が引き金になってしまったのかわからないけれど、どうしようもなく辛くて堪らないの。これから私どうしていけばいいんだろう。どんな顔して梅ちゃんと会えばいいの。せっかく頑張るって決めて入部した野球部にも、もう行ける気がしない。そもそも志望動機自体が不純だったから仕方ないじゃないか。みんなの真っ直ぐな情熱は、私の怒りと相反するものだ。そんな綺麗な純真無垢な思いに私の汚れた感情なんていらないでしょ。私だったらそんな存在ーー邪魔だって思う。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次には
まことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい」

何度も何度も擦り切れるほど読み返して暗唱した大好きな小説の一節を、南朋くんの唇が紡いだ。そこで私はバッと顔を上げる。ぼやけた視界に、人の姿。慌てて眼鏡を掛ければ、やっぱり目の前にいるのは南朋くんだった。ベンチに座る私と向かい合うように彼は車椅子に座ってこちらをジッと見つめている。

「それは……」
「サソリ座の話。銀河鉄道の夜の」

そうだろう?と。南朋くんは相変わらず穏やかな笑みを浮かべる。

「……ともくん……?」

確かめるような言葉尻。だけどそれは確信に近かった。南朋くんは私の問いに小さくウンと頷いてーーそして私の知らない物語を語り始めたのだった。


★★★



満のことを初めて認識したのは、リトルの頃。足立ロケッツの時だよ。梅宮から聞いたと思うけど、俺たちは何度か成宮鳴と試合をしたんだ。彼は…当時から凄かったね。なんていうか次元が違う。悔しかったけど、本当に心から凄いなって思ったよ。
満はいつも、成宮鳴の試合の時にお父さんと一緒に来てたよね。青い目が成宮鳴と一緒で綺麗だなって思ったのを覚えてる。だけど君はすごくつまらなさそうだった。つまらないなら来なければいいのにって……俺はずっとそう思ってたよ。

小六のサマーキャンプ。覚えててくれて、嬉しいな。初めて君と話をした。同じ班になって驚いたよ。知ってる子だ。知ってる子がいたって思った。だけど、満は俺のこと知らなかったでしょ。だから特になにも言わなかった。なんとなく野球が嫌いなんだろうなって思ってたから俺からその話はしなかった。

誰も知らない人ばかりの場所で、満は明るかった。それは君の…本来の姿だったんだと思う。いつもつまらなさそうに…辛そうにしている満の姿しか知らない俺にとっては軽い衝撃だったよ。
夕飯作りの時、殆どみんな包丁すら握れないのに、満だけは手際が良かった。あっという間にカレーが出来たね。
本もそう。君は何でも知ってた。俺の知らない話を教えてくれる満の笑顔はとっても可愛かった。その姿が今でも忘れられない。前にも言ったよね。君が咲かせてた花をもう一度見たいって。俺が望んでるのはそれなんだ。

中学校にあがってから、……二年生の時に、俺は、交通事故にあった。その事故のせいで…見ての通り、半身不随。これからの人生、この車椅子が一生手放せない。
どうして俺がって思ったよ。どうして俺がこんな目に合うんだろう。神様は不公平だ。とにかくこの世の全部を呪って呪って怒って怒って………そうして少しずつ、自分の中で折り合いをつけていかなきゃいけないなって思うようになった時に……ふっと思い出したのが、満のことだった。

努力すればきっとなんだって上手くいくんだ。神様はいつだって誰に対しても公平で、俺たちのことを見てくれてるよ。

俺は君にサマーキャンプの時、そう言ったよね。あの時は本当にそう思ってたけど……こんな身体になって思い知らされた。努力しても上手くいかないことだってある。認められないことがある。環境が、立場が、存在が……それを邪魔する。神様に選ばれなかった人たちがいることを知った。そして俺自身がそうだってことも、思い知った。

あの時のあの子は……満ちゃんは元気だろうか。ふっと折に触れて思い出すのは、いつも君のことだった。

俺は色々考えて考えて考え抜いて、やっぱり甲子園に行くって夢を捨てきれない自分を尊重することにした。俺を選ばなかった不公平な神様を見返してやろうって。そう思ったんだ。そして進学先に、鵜久森高校を選んだ。……梅宮たちはね、俺のためにここに来たんだよ。俺と一緒に……いや、俺を甲子園に連れて行くために、みんなここに来てくれたんだ。前にも言ったよね。私情なのは俺もそうだって。まさにこれが私情だ。みんな俺のために野球をしてる。俺のどうしようもなく自己中心的な怒りのために……大事な、三年間を捧げてくれたんだよ。

鵜久森の入学式で満を見かけた時、やっぱり俺はとても驚いた。そして同時にこれは運命なんじゃないかって思ったんだ。君はやっぱり辛そうで萎れかけた花みたいにいつも俯いていて……元気がなかった。相変わらず親は弟ばかりを贔屓しているんだろうか。相変わらず野球が嫌いなんだろうか。そんなことばかりを考えて……同じクラスになった梅宮に話を聞いてみたりした。図書館で出会ったのは、まあ…半ば、必然だよ。あそこに君がいるって俺は知ってた。

…俺はね、君の笑顔がもう一度見たかったんだ。自分が梅宮達から受け取った勇気を、君にも分けてあげたかった。君は、自分で言うほど価値のない人間じゃないよ。少なくとも俺はそう思ってる。自信がないのは今までの環境が悪かったんだよ。だからここでなら…俺や梅宮たちなら、…きっと、君を元気にすることが出来るって…そう思った。自意識過剰かもしれないけどね。

満には知識がある。固い意志がある。負けん気もある。それにとっても頑固。一度決めたことはやり通す。正直、野球部のマネージャーの仕事は本当に大変だよね。俺も無茶振りしてる自覚はあるよ。それなのに……野球が嫌いなのに……よくやってる。本当に、本当に、そう思うよ。

みんな満のことが大好きで、君の力になりたいって思ってる。満にはそれだけの力があるんだよ。成宮鳴の双子の姉だからじゃない。成宮満だからこそ、俺たちは君がいいんだ。君が、必要なんだよ。


★★★



「銀河鉄道の夜の主題は「本当のさいわい」についてだよね。自己犠牲。誰かの為に身を投げ合ってでも行動する勇気。……俺はね、それを考えるたびに、梅宮たちの姿が思い浮かぶんだ。正直今でも……怒りが胸を燻って仕方ない時は訪れる。それでも、……俺たちは、前に進んで行かなきゃいけない。過去は変えられないし、俺たちが傷ついた事実は消えない。でも傷はいつか瘡蓋になるんだよ。少しずつだけど、治っていくと思う。そんな俺たちを……、見守ってくれる梅宮たちがいるから。だから、満。一緒に、頑張ろう。これからも懸命にもがいて、そして戦っていこう」

心配ないよ。ちゃんとわかっているよ。
南朋くんは、私の手をギュッと握りしめてーーそう力強く言った。私はただただ言葉もなく……涙でグシャグシャに濡れた顔で、彼の言葉に何度も何度も頷いたのだった。