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「だいたいお前らはウダウダと自分たちの中だけで考えすぎなんだよ」

効果音をつけるなら、まさにドカッといった具合だった。梅ちゃんが私の隣に腰を下ろす。いつから居たのかそれは定かではなかった。さっきまでの南朋くんの話に溢れ出た涙を拭いながら、梅ちゃんの横顔を見る。ハンカチはグシャグシャになってもはや使い物にならなくなっていた。

「ん」

差し出された白い布。それを持っているのは梅ちゃんの大きくてでも繊細な手だ。正直彼がアイロンの掛かった皺ひとつないそれを持っているのが意外でーーそんな私の考えを汲み取ったのか、南朋くんがクスリと笑う。

「梅宮はね、意外とお育ちがいいんだよ」

ピアノも習ってたしね、と付け加えれば、梅ちゃんはその言葉に眉を顰めた。

「ピアノは関係ねぇし、俺の育ちは普通だっつーの」

結局、いつもどおりだ。いつも通り、それまで通りの私たちの空気が、何事もなかったかのように戻ってくる。

「クラスのみんなは?」
「泣くわ、喚くわ、大変だったぞ。南朋、お前マジでなに言ったんだよ」
「別にただ『余計なこと言うな』ってクギを刺しただけだけど?」
「………嘘でしょ……?私、もう…クラスに戻れない……」

ふたりの会話を聞いて、途端に顔面蒼白。だって悪いのは私じゃないか。鳴ちゃんと私が双子なのかっていう疑惑を突きつけてきた女の子はなんにも悪くない。だって事実だ。その事実を突きつけられて勝手に傷ついて泣いて逃げ出したのは私。私が悪い。それなのに南朋くんが怒ったってなると、一体何様だって陰口を言われてるに決まってる。力もなくがっくりと項垂れれば、梅ちゃんと南朋くんは顔を見合わせたようだった。

「冗談だよ」
「みんな心配してんぞ」
「…冗談…?」
「満はね、ほんと、もう少し自信もった方がいいよ。悪いこと言っちゃったのかなって、みんな心配してるから」

こんな時に冗談なんて、とは思ったけど。顔を上げてふたりの顔を交互に見れば、それぞれどっちも穏やかな表情で私のことを見ていた。

「……戻って、謝る。…授業も、サボっちゃったし…」
「その方がいいよ」
「授業って言ったってホームルームだけだろ。すぐ終わる。それに別に登校日ぐらいサボっても罰はあたんねぇと思うけどな」
「内申に響くだろ」
「そうかぁ?」

梅ちゃんはこんなときでもえらくポジティブというか能天気というか…。私は彼から受け取ったハンカチで目元を押さえながら、そんなことを考えていた。私は戻ると言いつつ、南朋くんもその方がいいよと言いつつ…それでも腰は上がらなかった。なんとなく、まだこの場にいるべきなんだろうってみんな考えていたのだ。話さなくてはいけないことがあるのだ、と。

「さっきも言ったけどな」

そうして梅ちゃんが口を開いた。

「やっぱり俺はお前らの気持ちを本当の意味で理解することはこれからも出来ねぇと思う」
「……うん」
「だけど俺にだってないわけじゃねぇよ、その怒りって感情がさ。……それを理解ってるから、俺は…俺たちは、ここに来たんだ。南朋の為に、自分たちの為に、鵜久森を選んだ」
「梅宮…」
「キッカケは南朋で…今はお前も理由のひとつだよ、満。俺たちは全部理解ってる。だから勝手に、俺たちを利用してるとかそういうので悲観にくれんじゃねぇよ」

それを聞いて私はやっぱりーー南朋くんがそう言ったようにーーサソリ座の…銀河鉄道の夜の話を思い出した。川に落ちたザネリを助けて溺れて死んでしまったカンパネルラ。本当のさいわい。他人の為に身を投げ出す自己犠牲。

「…梅ちゃんは、」
「んだよ」
「いま、しあわせ?」

抽象的な問いだったけれど、梅ちゃんは少し目を細めて、それからいつもそうするように私の頭をグシャっと撫でた。

「幸せだよ。もう一度野球が出来てんだから」

誰も他人の気持ちなんて、本当の意味で理解できない。私は梅ちゃんの口にした『もう一度』という言葉の意味を知らない。南朋くんのことだってそう。だけどこうして話すことが出来る。寄り添うことが出来るのだ。泣いて悲観に暮れるばかりじゃなくて、一緒に前に向くことが、出来るのだ。

「どんなに努力したって南朋がグラウンドに立てるわけでも、満が野球できるわけでもねぇけどさ…だけど、俺たちはそれを知ってる。叶わねぇ夢があること知ってる俺たちは強い。真正面からじゃなくてもよぉ、泥臭くたって…とにかく指先一本、くそったれな神様に触ってやろうぜ。そしたら俺達の勝ちだろ!」

梅ちゃんの言葉はやっぱりいつも通りキラキラと輝いていて、そして温かい絆創膏だった。もう大丈夫だよとは心の底から言えない。私の心は相変わらずズタボロだ。だけど、南朋君の言葉が私にもう一度語り掛ける。

ーー傷はいつか瘡蓋になるんだよ。少しずつだけど、治っていくと思う。

本当に治る日が来るのかな。今は正直出口の見えないトンネルにいるような気分だけど、そんな私でもいつか光を浴びる日がくるのかな。不安は拭えない。だけど……不思議だ。梅ちゃんと南朋くん、野球部のみんなとなら、いつか本当にその日を迎えることが出来るような…そんな気になってくる。

「夏大が終わってから、俺も考えてたんだけど」

そんな風に切り出したのは、南朋くんだ。

「やっぱりこの気持ちいかりだけじゃ、頭打ちなのかなって思うんだよ。結局、春も夏もベスト16だ。…だから、俺たちはもっと『野球が好き』っていう初心に戻るべきなのかもね」
「そうだな」
「……私…」
「うん」
「………私、鵜久森の、みんなの、野球は『好き』だよ」

小さく小さく、本当の気持ちを呟いた。それは半年、みんなと過ごして芽生えた気持ち。私の本心。鵜久森の野球は見ていて不思議と楽しい気持ちになってくるのだ。梅ちゃんが底抜けに明るいっていうが一番の理由だろうか。なにかやってくれるかもしれないってワクワクする気持ち。
……最初こそ、胸に抱いていた理由は怒りだったけれど。
今は、ちゃんとみんなの為に引退までマネージャーをやりきりたいって。そう思ってる。

「まあ一歩前進だな。やっぱ今日、練習終わってからファミレス行くか」
「そうだね。たまには、息抜きも必要かな」

珍しく鬼マネージャーが形を潜め自分の提案に同意したものだから、梅ちゃんはちょっと目を見開いた。だけどすぐに満面の笑みを浮かべて、私の身体と南朋くんの身体を引き寄せる。

「いつかあの成宮鳴に見せてやろうぜ、俺たちの野球、満の凄さをよぉ!下剋上上等だぜ!」

きっと私と南朋くんだけだったら、駄目だった。
きっと私と梅ちゃんだけでも、駄目だった。
3人だから頑張れる。歩いていける。戦っていける。

きっと私たちはこれからもこうやって身体を寄せ合って、笑い合って、私がちょっとずつ好きになってきた野球をするんだ。真夏の空の下、私はそんなことを考えた。

(……しあわせ)

右肩に感じる梅ちゃんの温もり。南朋くんの穏やかな笑み。
その全てが、私の養分になるのだ。力になるのだ。そう強く強く実感した。
そんな風に、私たちが笑い合った同じ空の元、それから数時間後ーー片割れの心が泣いているって気づかなかった私には、やっぱりまだまだ……本当のさいわいには程遠いのかもしれない。そう気づくのは、まだ少し先の話だ。