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10月9日。
先週末のぐずついた天気とはうってかわっての、晴天。大田スタジアム、三塁側。私は祈るような気持ちで、観客席から電光掲示板を見つめていた。稲城実業高校対鵜久森高校。ついにこの日が、来てしまったのだ。

「鳴はレフトかー」

私の隣に座るのは、メガホンを持った優紀ちゃんだ。同じように掲示板を見てぽつりと言葉を溢す。

「向こうとしては…先発平野くんの完投でコールドが理想の形だろうけど……大丈夫。そう簡単に点はあげないし、鳴ちゃんのことだってレフトから引きずりだすから」
「……満」
「…なに…?」
「…かわったね、やっぱり」

私の顔を見つめて、優紀ちゃんは目を細める。私は、そんなことないよ、と首を振る。口では強がっているけれど、本当は死ぬほど怖い。指先が震える。思い出すのは、つい数時間前の出来事だった。




『楽しみだね、今日』

朝。鳴ちゃんから電話があった。楽しそうな声で、私の片割れはそう言った。半年以上ぶりの会話。私の携帯に掛けても出ないだろうって考えたのか、鳴ちゃんはお母さんの携帯に電話を掛けてきたものだからーー彼のその策略通り、私は通話を切るに切れない。お母さんが何か言いたげな様子で私を見てる。鳴ちゃんの明るい声は続いた。

『ほんっと、楽しみ。フルボッコにしてやるから。……それで、満は後悔するといいんだよ。稲実に来なかったこと。俺の傍にいなかったこと』
「……鳴ちゃん」
『…なに』
「言っとくけど…鵜久森は、強いチームだよ。そうやって油断してると、痛い目見るよ」

自分でも驚くほど低い声が出た。画面越しに一瞬息が詰まり、そして『ハァ?!』って大きな声が鼓膜をビリビリと震わせる。だから耳から離して素早く通話を切った。そのまま携帯電話をお母さんに返す。

「満…」
「……もう、やだ。なんで、わざわざ、電話なんてしてくるの…?……なんで…」

さっきの鳴ちゃんの言葉を思い出して、唇を噛んだ。涙は出てこない。その代わりに身を焦がすほどの怒りが、顔を出す。ああいう態度は良くない。いくら姉弟とはいえ、こっちは今日の対戦相手だぞって思う。本当に、本当に、腹が立った。

「…鳴はね、子供だから。ただ満に構って欲しいのよ」
「……こっちはいい迷惑だよ」

そういう風に育てたのはあなたたちでしょって言いたかったけどーーお母さんの悲しげな表情を見て、私はなんにも言えない。その代わりにお母さんが、ゆっくりと口を開く。

「満、『はんぶんこ』の話、覚えてる?」
「……覚えてるよ」

鳴と満ははんぶんこ。神様が魂を分けたの。それはお母さんの口癖だった。私は小さく頷く。

「あれはね、ふたりで支え合って生きていって欲しいなって思ったから、そういう話をしてたのよ」
「……それって、私は一生鳴ちゃんのサポートしろってこと?」
「…そうじゃなくて…」

お母さんは眉を下げて、更に悲しげに瞳を揺らした。

「そうじゃないのよ。今までだってお母さんたちは満にそれを望んでたわけじゃないの。はんぶんこだけど、満と鳴は、ひとりの人間だって勿論わかってるわよ。そのうえでふたりで…っ」

お母さんの言葉が、涙で詰まる。この場にお父さんが居なくて良かった。お母さんのことが大好きなお父さんが見たら、きっと悪者は私だ。私は苛々した様子で、お母さんのことを睨み返す。

「お母さんとお父さんだって、今日勝つのは稲実だって思ってるんでしょ?!でもね、本当に鵜久森は強いから!鳴ちゃんには負けないから…っ!見ててよ!ちゃんと見てて!絶対、絶対勝つんだから!!!」

捨て台詞のような言葉を残して、私は鞄を引っ手繰るように持って家を出た。玄関を出る直前、「もう行くのか?随分早いじゃないか」と寝起きの呑気なお父さんの声が聞こえてきたけど無視した。

怒りだけじゃ駄目だってあの夏の日に決めたのに、やっぱり私の身に染み付いたそれは拭い切れないって思い知らされる。
どれだけ私のことを大事って説いても、今日、お父さんとお母さんは稲実側の観客席に座るのだ。悔しい。悔しい。悔しくて、堪らない。そしてーーそれと同時にとてつもなく、怖かった。あれだけ大口を叩いたのだ。みんながそう望むように稲実が勝ったら……。鳴ちゃんはきっとあの冷たい声で、「だから言っただろ」って言うんだろう。私のことを嗤うんだろう。


「満!」

名前を呼ばれて、ふっと回想から意識が浮上した。声のした方に視線を動かせば、フェンス越し、足元の球場、三塁側のベンチからみんながこっちを見ていた。

「しっかり見てろよ、下克上!!!」

梅ちゃんが私に向かって、力強いガッツポーズを披露する。

嗚呼、そうだ。
私には、この人たちがいる。

ーーこれからも懸命にもがいて、そして戦っていこう。

そう言ってくれる仲間がいるんだ。私と一緒に並んで歩いてくれる仲間がいるんだ。心強い仲間がいるんだ。そう思うだけで、染み付いた怒りも悔しさも、そして恐怖も、全部、全部綺麗さっぱり消えてしまうのだから、不思議だ。

「信じてるから!!!」

懸命に声を張り上げて、私も拳を突き上げた。ニッと歯を見せて笑う梅ちゃんの笑顔。普段は脱力気味なのに、試合になると途端に顔つきが変わるガッチャンの真剣な表情。控えめなガッツポーズを披露するアーリー。相変わらずちょっと怖い顔をしてるけど私に向かって懸命に笑ってくれる公太くん。照れ臭そうに手を振るジミーくん。普段顔色を変えることが少ないのにどこか緊張した様子の丸ちゃん。…そして、

「満!笑って!」

南朋くん。
私、貴方に出会えてよかった。本当に今、心からそう思うよ。珍しく南朋くんが声を張り上げたせいか梅ちゃん達は笑ってる。試合前だっていうのに、やっぱりこのチームの雰囲気は明るい。
私のことを見つけ出して、ここまで連れてきてくれて、引っ張り上げてくれて、ありがとう。
そんな感謝の気持ちを胸に、私はもう一度高らかに右手を上げた。

その姿を、一塁側のベンチ前に整列する鳴ちゃんがどんな気持ちで見てたかなんて、私にはやっぱりちっともわからない。
わからないからここまで来てしまったんだろうって、この時のことを振り返ったりもする。勿論そんなこと、いまは知る由もない。

そして、誰にだって平等な秒針は、試合開始の時間を告げた。定刻通り、両チームの選手たちがグラウンドの中央へと駆け出していく。

私たちの下克上が、いま、幕を切って落とされたのだ。