▼ ▲ ▼



その日は突然訪れた。

『シュークリームが食べたい』

突然掛かってきた電話。挨拶もなしに開口一番、電話の相手はそう言った。鵜久森高校が青道高校に7対8で借敗して、一週間後の話だ。

「…シュークリーム…?」
『そう。満の手作りのシュークリーム。明日、持ってきて』
「えっ…手作り…?」
『バターも砂糖もたくさんのやつね』

そう言って彼は電話を切った。真っ黒になった画面に映る自分の顔。

「なんだって?」
「……シュークリームが、食べたいって。手作りの…」

部活帰りの帰り道。隣を歩きながら、事の顛末を見守っていた梅ちゃんが、私の言葉にちょっと目を見開いてそれからニヤッと笑う。

「姉ちゃんの味が恋しくなったんだろ。行ってこい」

南朋もきっとそう言う、と。梅ちゃんは私の肩をバシンと叩いた。明日は午前中練習試合で、午後から普通の練習の予定。行ってこいと簡単に言うけれど、やらなきゃいけない仕事はたくさんある。私が抜けるとなるとみんなに負担が掛かる。だけどやっぱり梅ちゃんは笑顔だ。

「満が入部するまでは俺達みんなでやってたから慣れてる。一日ぐらいどうってことねぇよ」
「…本当…?」
「当たり前だろ」
「……でも……」
「行けよ。夏に向けて覚悟決めて前に進んで成長するって決めただろ」

梅ちゃんの言葉に、思い出す。あの日。江戸川区球場。会場を包み込んだ熱気。一塁側のベンチ上の観客席で、私はやっぱり手を組んで祈って祈って、戦況をただ見守ることしか出来なかったけど。でもあの日、私の横にはお父さんとお母さんがいた。一緒になって応援してくれたの。八回表の反撃に大興奮して、三人で声を張り上げて。…結果は、あと一歩届かずだったけど。それでも私たちにとっては、大きな大きな転換点となった試合。
試合が終わってから、皆で話をした。このままじゃまだ足りない。勢いだけじゃ駄目だ。チーム全体のレベルアップ。妥協して敗れるか。必死に闘って敗れるか。同じ負けでも得るものが違う。

ーー調べることが好きなんだ。それを考えて、実践することも好きだよ。

南朋くんの言葉を聞いて、ともくんの言葉を思い出す。みんなでこれからのことを話し合ったあの瞬間。私は、私たちは確かに、あの時、同じユニフォームを着て野球をする南朋くんの、鵜久森の姿を見た。そして前に進もうって決めたのだ。
だから私自身も、少しずつだけど前に進んでる。

「それにしても満の父ちゃん、マジで野球詳しいな」

梅ちゃんは、試合後に私のお父さんと話した時のことを思い出しているんだろう。私もその時のことを思い出してクスッと笑う。お父さんは意外と泥臭い選手が好きなのだ。それこそ梅ちゃんみたいな。今度バッティングセンターに行こう!と娘そっちのけで梅ちゃんのことを誘っていた。そうしてようやく気付いたのだ。なにもお父さんにとっては鳴ちゃんだけが特別じゃないってこと。

「うん。褒めてたよ、梅ちゃんのこと」
「おっ、やりぃ!」

青道の試合が終わってから、私はお父さんとお母さんと話をした。
三人でテーブルに向き合って、長い時間話をした。
私がずっと抱え込んだ思いを、ひとつずつ、ふたりにうちあけた。
自分はずっと鳴ちゃんのおまけだって思って生きてきたこと。お父さんもお母さんもそう思って私のことを育ててきただろうってこと。やっぱりいつまでもお父さんが私に言った『悪意』を忘れられないこと。小学校五年生の時の旅行は岩手に行きたかったこと。サマーキャンプの話を聞いてほしかったこと。来なくていいよって自分で言ったけどやっぱり鵜久森の入学式に来てほしかったこと。文化祭にはお父さんにも来てほしかったこと。
ふたりは言葉もなく、ただ私の話を聞いてくれた。

「だけどね」

やっぱり流れ落ちる私の涙。それを拭いながら、私はふたりの顔をジッと見つめ、そして口を開いた。

「私は鵜久森に行って、変わったの。もう悲観に暮れるばっかりなのは辞めようって、そう思うの。これからは前を向いていきたいなって……鳴ちゃんと、仲直りしたいなって…そう思うの……」

私がそう言ったら、お母さんは何度も何度も頷いてくれた。そして声を詰まらせながら、教えてくれたのはやっぱり私が知らない物語だった。

私たちが産まれた時、鳴ちゃんが未熟児だったから余計に私が健康に生まれてくれてとても嬉しかったこと。私は見た目も性格もお母さんさんそっくりで、お父さんは私のことがとにかく可愛くて可愛くて仕方ないこと。優紀ちゃんが「野球なんかやりたくなかった!私はお父さんの夢を叶える道具じゃない!」って言って野球を辞めて以来、私には野球に関することを無理強いするのはやめようって決めたこと。だから私がスコアの書き方を教えて欲しいって言ったとき、嬉しかったこと。毎週末、鳴ちゃんの練習や試合を見に行って一緒に過ごせるのがなによりの幸せだったこと。
中三の夏に嫌いだって言われて傷ついたこと。鳴ちゃんと喋らなくなって心を痛めたこと。入学式に来なくていいって言われて寂しかったこと。文化祭に行って楽しそうに過ごしている私の姿を見て嬉しくなったこと。野球部の手伝いをするって言い出して本当に心配になったこと。大晦日に鳴ちゃんと大喧嘩している姿を見て本当に悲しかったこと。
マネージャーを始めて少しずつ自分の気持ちを言えるようになったり、変わっていく私の姿を見て、成長する姿に感動したこと。鵜久森と青道の試合を見て、鵜久森のみんなが私に変化をもたらしてくれたんだろうって理解したこと。
お父さんとお母さんは、優紀ちゃんも鳴ちゃんも私も、三人の子供を平等に愛していること。
そしてやっぱり鳴ちゃんと私には手を取り合ってこれからの人生を生きて行ってほしいこと。

「もしかしたらこれからも、知らないうちに満のことを傷つけちゃうかもしれないけど……それでも、その時は言ってほしいの。これからはちゃんと話をしましょう。だって、私たちは家族なんだから」


「満、大丈夫か?」

梅ちゃんの声に顔を上げる。急に黙り込んだ私を心配してるんだろう。鋭く吊り上がったーーでも優しさでいっぱいの眼が私の顔を覗き込んでいた。私は「大丈夫だよ」と頷く。

「帰ってから、頑張ってシュークリームつくらなくちゃ」
「なんか腹減ってきたな」
「えー、おにぎり食べたでしょ?」
「成長期なんだよ」
「みんな本当によく食べるよね」
「逆にお前は小食すぎ」

そんな話をしながら、駅までの道を歩く。梅ちゃんと一緒にいるのは居心地が良かった。思い出すのは去年のこと。1年生の1学期まではとにかく梅ちゃんのことが苦手だったのが今では嘘みたいだ。仲良くなれてよかった。隣の席になれた偶然も、彼が焼いてくれたお節介も、懐かしくて、その全てがキラキラとした宝物。輝くそれに目を細める。

「今度、俺達にも作ってくれよ、シュークリーム」
「バレンタインにね」
「マジかよ、四ヵ月もお預けかぁ!?」
「梅ちゃん、しょっちゅういろんな女の子からお菓子貰ってるでしょ」

彼は相変わらず友好関係が広い。同じクラスの子だけじゃなくて他のクラスの子からも市販のお菓子や調理実習でつくったお菓子を貰ってるのを何度か目撃してた。それを指摘すれば、梅ちゃんはふいっと私から視線を外す。そして宙を見上げて、唇を尖らせながら言ったのだ。

「満のがいいんだよ。お前の作ったやつが食いてぇ」

それは友達としての言葉だったのかもしれない。だけど見上げた梅ちゃんの耳がちょっと赤かったから、それに気づいた私は、息を呑んでしまった。言葉が見つからなくて、俯く。そんな私たちの間を、秋の夜風がさらりと通り過ぎて行った。