▼ ▲ ▼



初めて足を踏み入れる場所は緊張する。他校の野球部グラウンドなら猶更だ。
午前中の練習試合だけ部活に行って、一度帰ってからシュークリームを仕上げた。それからお父さんの運転する車で、八王子市にある稲実の野球部グラウンドまで。着ていく服は最後まで悩んで、結局鵜久森の制服にした。鞄もスクール鞄。肩に掛けた肩紐にぶら下がったマスコットが、歩くたびにゆらゆら揺れる。
不法侵入になるかな、と思ったけれど、呼び出したのは向こうだ。事情を聞かれたらお父さんもいるし説明してもらおう。そんな風に意気込んで乗り込んだものの、グラウンドは静かで、そして案外すんなりと侵入できてしまった。

(セキュリティ的にどうなんだろう…)

色々心配になってくる。
そんなことを考えながら、向かった場所。ベンチに座る見知った後ろ姿。ここにいるから、とさっきメールで知らせてきた通りーー私の片割れはそこにいた。

「……鳴ちゃん」

その名前を呼ぶのは、とても緊張して、そしてとんでもなく上擦っていた。振り返った鳴ちゃんはそれが当然理解るんだろう。ニヤッと笑う。ああ、やっぱりいつも通りの鳴ちゃんだ。

「遅いよ」
「ごめん」
「っていうわけで、雅さん。俺、今からシュークリーム食べるから」

鳴ちゃんが、隣に座っていた男の人に顔を向けた。原田雅功さんだ。鳴ちゃんの一個上で、夏までバッテリーを組んでた人。原田さんは、ゆっくりと立ち上がる。

「ほどほどにしとけよ。晩飯食えなくなるぞ」
「大丈夫、大丈夫」

原田さんは去り際私のことをチラリと見下ろしたけど、なんにも言わなかった。そのままゆっくりと私が来た道を歩いて去っていく。私は原田さんと入れ替わるように、鳴ちゃんの隣に腰を下ろした。
しばらくお互い言葉が出てこなかった。さっきまで笑ってた鳴ちゃんが黙り込んで、遠くの得点板をジッと見つめている。私も何から話せばいいのか、わからない。ここに来るまで色々シュミレーションしてたっていうのに、ちっとも言葉が出てこなかった。

「ひとりで来たの?」

ーーそして、先に口を開いたのは、鳴ちゃん。私はその質問に静かに首を振る。

「お父さんの車。終わったら、連絡してって」
「…ふーん」

それからまたほんの少し、沈黙。

「三回戦の時、一也と話した?」
「ちょっとね」
「いい試合だったらしいね、うちの主将ふくちゃんが言ってた」
「うん、凄かったの。お母さんも、お父さんも大興奮。お父さんなんか、梅ちゃんのこと大好きになっちゃって…今度バッティングセンター行こうって誘って……」

私の口はするすると言葉を紡いだけれど、そこでフッとあの時の光景が蘇ってきて、口を噤んだ。鳴ちゃんもそうなんだろう。苦々しい表情になって、唇を噛んでいる。

「………ごめん」

項垂れた。うまくいかない。なんでもっと上手に気を使えないんだろう。あの瞬間、私は確かに片割れの気持ちを感じ取っていたのに、どうしてこんな風に傷つけてしまうことしか出来ないんだろう。自分自身が嫌になってくる。
膝の上で掌をギュッと握りしめた。柔らかい皮膚に爪が、喰い込む。

「満」

鳴ちゃんの声と同時に、手の甲に温かな温もり。私がずっと求めていたそれ。

やっぱり、みつるはめいの『はんぶんこ』なんだよ。だからさ、ずっといっしょだよ。やくそく。

そう言って、布団の中でギュッと握りしめてくれた鳴ちゃんの姿を思い出す。もう柔らかくない、男の人の手。野球をする人の手だ。硬い肉刺が私の皮膚を撫でる。

「…野球、好きになった?」

青い目が、私の顔を覗き込んだ。私は小さく顎を引いて頷く。鳴ちゃんはその答えに息を吐く。そしてダラリとベンチの背もたれに身体を預けた。それでも重なった掌は離れない。

「あーーーすげー悔しい」
「…鳴ちゃん…」
「ずっと俺だけのねえちゃんだったのに」

唇を尖らせて、宙を仰ぐ鳴ちゃん。その姿は、お気に入りの玩具を優紀ちゃんに取られて拗ねていた幼い頃のまんまだった。

「……そんなに稲実に来て欲しかったの…?」
「来て欲しかったし、当然来ると思ってた。約束したじゃん、ずっと一緒にいるって。甲子園一緒に行くって」
「……うん」
「………だけどさ、中三の時に、満が怒って…そこで初めて俺はなんにも満のこと理解ってなかったんだなぁって思い知らされた。まあ野球が嫌いなら仕方ないかって自分のこと納得させようとしたけどさ。俺の知らないところで鵜久森のマネージャーやってるし…ハァ?って感じ」
「…でも…稲実に進学してても、マネージャーは出来なかったんじゃない…?女子マネいないじゃん…」
「俺に入学して欲しかったら満のことマネージャーにしてって頼むつもりだったんだよ!」

その言葉を聞いて、私は一気に脱力した。かなり無謀だし、どれだけ自分に自信があるんだろう。なんだか呆れて、思わず笑ってしまった。フッと空気が緩む。やっぱり鳴ちゃんは鳴ちゃんだ。独善的で我儘で……多分、世界一世話のかかる弟。
会話が途切れたのをキッカケに、ようやく作ってきたシュークリームを食べることになった。鞄をがさごそと探っていると、鳴ちゃんの手が伸びてくる。

「これ、また付けてくれてンの?」
「……うん」

甲子園でお父さんに買ってもらった球団マスコットのキーホルダー。チアリーダー姿の虎の女の子。壁に投げつけてまた暫く机の中に眠っていたそれを震える手でもう一度付け直したのは、先週のことだ。

「俺も寮の部屋にあるよ」
「…ほんと?」
「うん。別に球団のファンじゃないけどさ、満との大事な思い出だから」
「……うん」

それから、シュークリームをふたりで食べた。

「相変わらず美味いね」
「そう?」
「やっぱ才能あるよ」
「……ありがとう」

初めて作った時も、鳴ちゃんは私にそう言ってくれた。あの時のことを思い出す。私の誇りを作ってくれた鳴ちゃん。大事な、大事な、私の片割れ。

「……去年の秋ぐらいにさぁ」
「…?」
「満は色々と忙しかっただろ。感情が揺れ動いてた。嬉しかったり怒ってたり…でも悲しくはなかったんじゃない?」

鳴ちゃんを見た。彼は相変わらずシュークリームをぱくぱく口に放り込んで、頬を膨らませている。これでみっつめだ。本当によく食べる。

「ずっと心に流れ込んでくる満の気持ちに気付いてたけど気付かないフリしてた俺が悪かったのかな。でも俺だってどうすることも出来なかったよ。別に父さんも母さんも悪い人じゃないし……世間一般的に考えたら愛情深い家庭だろ。それにさ、期待掛けられる俺のプレッシャーも半端ないんだって……。きっと満は自分のことでいっぱいいっぱいで、気付いてなかっただろうけど……」
「……鳴ちゃん…」
「…俺だって色々辛かったんだよ」

鳴ちゃんは目を伏せた。私も釣られるように、俯く。自分のことだけで精一杯だったのは、お互い様なのだ。互いに理解してるつもりでもそれは勝手に自分がそうだろうって考えているだけで、真実は違うって。他人の考えや気持ちは、やっぱりこうして話をしないとわからないって。思い知らされる。

「父さんと母さんに悪気はないんだよ。ああいう人たちなの。今更変えろって言ったって、多分変わんないよ。変わる努力はしてくれるだろうけど、さ。…これからもきっと、傷つくことはあるだろうね。お互いに。だけど……そん時はさぁ……ちゃんとこうして話せばいいんだなって…思う。理解りあえるまで。…それにふたりは俺たちより、うんと早く死ぬんだよ。俺たちが一緒にいる時間の方が長いんだから……だったら、やっぱりふたりで仲良くしてた方がいいでしょ」

鳴ちゃんの言葉に唇を噛みしめて、うんうん、と頷く。気持ちを緩めると泣いてしまいそうだった。どうしてもっと早くこうして話をしなかったんだろう。どうしてもっと早く自分の気持ちを話して、鳴ちゃんの気持ちを聞いてあげなかったんだろう。後悔と悲しみ。そんな気持ちでいっぱいになる。
ーーその時、俯いた視界に、鳴ちゃんの手が入り込んだ。眼鏡を外されて、ぼやけた視界。硬い掌が私の頬を包む。ぼんやりと滲んだ視界。映るのは鳴ちゃんのシロアタマ。その下の青が私をジッと見つめていた。

「俺はね、自分の眼が好きだよ。だって満とおんなじだから」
「……うん…」
「満もそうだったらいいな」

鳴ちゃんの言葉に、勿論だよって意味を込めて、青を細めた。弧を描く睫毛。鳴ちゃんはそのふっくらとした上唇を開いて言葉を続けた。

「満。酷いことたくさん言ってごめん。嫌いって言ってごめん。全部嘘だよ。今も昔も、満は俺の唯一無二の、『はんぶんこ』だから」
「…うん、私も…ごめんね…ごめんね、鳴ちゃん」

そうして私たちは子供の時にそうしたみたいに身体を寄せ合って、少し泣いた。どうしたって私の涙腺は弱いらしい。筋肉のついた鳴ちゃんの胸板に顔を埋めながら、鼻をすする。

「でもあのリーゼントはムカつくから、春大で当たったら今度こそ完膚なきまでにボコってやる」
「鳴ちゃん…!」

耳元で囁かれた言葉に、それでこそ、成宮鳴、とは思うけど。抗議の声を上げれば、鳴ちゃんは私の身体を強く強く抱きしめて、その反論の言葉を封じ込めるのだ。もう結局、笑うしかない。そうして私たちは泣いて笑ってーー、約二年に渡る姉弟喧嘩に終止符を打ったのだった。